【34】宮廷料理人の日常
宮廷料理人としての日々が始まった。
毒見の儀式に合格してから三日後、わたしは正式な宮廷料理人の証——白い料理服と、胸元に刺繍された帝国紋章の入った銀のバッジ——を受け取った。
十二歳での宮廷料理人登録は、帝国史上最年少らしい。
嬉しい。
嬉しいのだけれど——現実は甘くなかった。
「ヴァイスフェルト。今日の仕事だ」
グスタフ料理長が、朝一番でわたしに寄越した仕事は——厨房の床磨きだった。
「これ……料理じゃないですよね?」
「宮廷の厨房では、新人はまず環境を学ぶ。床の汚れ一つ見逃す者に、食材を触る資格はない」
理屈としては分かる。分かるけれど、明らかに嫌がらせだ。
他の新人料理人たちは最初から仕込みを手伝っているのに、わたしだけが清掃係。
ネルが足元で小さく唸った。
「……堪えろ、リーゼ」
「分かってる」
小声で答えて、ブラシを手に取った。
毒見の儀式に全問正解しようが、宰相に褒められようが、グスタフにとってわたしは「自分の厨房に入り込んだ異物」だ。
それを覆すには、実力を見せ続けるしかない。
床磨き三日目。
わたしは黙々とタイルの目地を掃除しながら、厨房の構造を完璧に頭に叩き込んだ。
かまどの配置、換気の流れ、食材庫の温度帯、調味料の保管場所。
床磨きは、厨房全体を隅々まで観察できる最高の機会でもある。
前世の食品工場で叩き込まれた衛生管理の目で見ると、この厨房にはいくつか改善点がある。排水溝の角度が甘くて水が溜まりやすい箇所がある。香辛料棚の配置も動線的に非効率だ。
でも、今は黙っておく。新人がいきなり改善提案なんてしたら、それこそ追い出される。
* * *
学院と宮廷の二重生活は、想像以上に過酷だった。
朝五時に起きて、学院の厨房で朝の仕込みを手伝う。
午前中は授業。相変わらず魔術理論は壊滅的だ。
昼休みにカイゼル殿下の昼食を作り、フィンさんに託す。
午後の授業が終わったら宮廷に向かい、殿下の夕食の準備と、グスタフに指示された雑務をこなす。
夜、学院の寮に戻って、ネルと翌日の献立を考える。
睡眠時間が削られていく。
「リーゼ、顔色悪いぞ」
マルクスさんに心配される始末だ。
「大丈夫です。ちょっと寝不足なだけで」
「ちょっとじゃないだろう。目の下に隈ができている。俺の厨房では、体調管理も仕事のうちだ」
叱られた。
でも、マルクスさんの叱り方は温かい。心配してくれているのが分かるから。
カイゼル殿下の食事は、最優先事項だ。
殿下の味覚過敏は相変わらずで、一般の宮廷料理は一口も食べられない。
わたしの料理だけが、殿下の舌に受け入れられる。
だから——手を抜くわけにはいかない。
殿下の昼食の献立は、毎日変えている。
味覚過敏の人は、同じ味が続くとストレスになる。前世の研究で学んだことだ。
だから、食材の組み合わせ、調理法、温度帯、食感——すべてを日替わりで変化させる。
月曜日は根菜の優しいポタージュと、蒸し鶏の薬草サラダ。
火曜日は白身魚のハーブ焼きと、レンズ豆のスープ。
水曜日は——この世界で見つけた蕎麦に似た穀物を使った、温かい麺料理。
殿下は何も言わない。「美味い」とも「まずい」とも言わない。
でも、毎日必ず完食してくれる。
それが、わたしにとって最高の評価だった。
* * *
床磨きの日々は一週間で終わった。
次にグスタフが寄越した仕事は——残り物の処理だった。
「貴族たちの食事で出た端材だ。捨てるわけにもいかんが、使い道もない。お前に任せる」
テーブルの上に並べられたのは、料理で使い切れなかった食材の端切れ。
野菜の皮、肉の切り落とし、パンの耳、煮崩れた芋。
まともな料理人なら眉をひそめるような、くず食材の山。
グスタフの意図は明白だ。
こんなもので何が作れるか試してやる、と。
わたしは——笑った。
「ありがとうございます、グスタフ料理長。素敵な食材ですね」
「……何?」
「使い切りの工夫は、料理の基本ですから。やりがいがあります」
グスタフが怪訝な顔をしている。嫌がると思ったのに、喜ばれたのが予想外だったのだろう。
わたしは端材の山を前に、腕まくりをした。
野菜の皮——よく洗って千切りにし、低温の油でじっくり揚げる。パリパリの野菜チップスの完成だ。
肉の切り落とし——筋の部分は細かく刻んで、玉ねぎと一緒にじっくり炒める。前世でいうところの牛すじ煮込みの要領だ。二時間煮込めば、とろとろの煮込み料理になる。
パンの耳——薄くスライスして、にんにくとハーブバターを塗って焼く。クルトンだ。先ほどの煮込みの上に散らせば、食感のアクセントになる。
煮崩れた芋——潰して、チーズと混ぜて小さく丸め、パン粉をつけて揚げる。コロッケもどきの完成。
端材から四品の料理が生まれた。
問題は、これを誰に食べさせるかだ。
貴族の食卓には出せない。端材で作った料理なんて、侮辱と取られかねない。
かといって、捨てるのは論外だ。
わたしは、厨房の片隅で黙々と働いている下働きの人たちに目を向けた。
「あの……皆さん、もしよかったら、味見してもらえませんか?」
下働きの料理人たちは、最初こそ警戒していた。
グスタフの厨房で、料理長の機嫌を損ねるような真似をしたくない。誰だってそう思う。
でも、料理の匂いには逆らえない。
最初の一人が、恐る恐る肉の煮込みを口にした。
「……美味い」
その一言で、堰が切れた。
「嘘。これ、あの切り落とし肉?」
「このチップス、やばい。止まらない」
「コロッケ? 何これ、初めて食べる」
「パンの耳がこんなに美味しくなるの……?」
あっという間に四品とも完食された。
下働きの人たちの目が、変わった。
さっきまでの警戒心が消えて、純粋な驚きと喜びに変わっている。
「ヴァイスフェルトさん。リーゼ、でしたっけ?」
下働きのまとめ役らしい中年の女性——ヘルガさんが、わたしの手を握った。
「あんた、すごいね。あたしら三十年厨房にいるけど、端材であんな料理作る人、初めて見たよ」
「いえ、大したことは……」
「大したことあるよ。あたしらの賄いは、いつも余り物を適当に煮たやつだ。味なんてあったもんじゃない。料理長は、下の者の食事なんて気にもしないからね」
それは——少し、悲しい話だった。
どんな食材にも可能性がある。
どんな食事にも、美味しくなる権利がある。
わたしがそう思うのは、前世で学んだ食品科学の精神だ。
フードロスの削減、食材の有効活用——それは学問であると同時に、食に携わる者の倫理でもある。
* * *
端材料理は、翌日から「リーゼの賄い」として、下働きの人たちの間で定着した。
グスタフは何も言わなかった。
端材の処理を命じたのは自分だから、文句の付けようがないのだ。
ただ、わたしが下働きの人たちに慕われ始めているのは、気に入らないようだった。
そして——予想外の波及効果が起きた。
宮廷警備兵の食事は、厨房の隅で作られる質素なものだ。パンと薄いスープ、たまに固い肉。戦場の携行食とほぼ変わらない。
それが普通だと、誰もが思っていた。
わたしが端材で作った料理の匂いが、厨房から廊下に流れ出した。
最初に来たのは、東棟の警備を担当するオットー伍長だった。
「あー、すまない。ちょっと道に迷って……」
明らかに嘘だ。東棟の警備兵が自分の持ち場で道に迷うわけがない。
「よかったら、味見しますか?」
「いいのか!?」
反応が早すぎる。迷う素振りもない。
オットー伍長が肉の煮込みを食べた瞬間、目が点になった。
「……何だこれは。俺は今まで何を食べてきたんだ」
翌日、オットー伍長は「道に迷った」部下を三人連れてきた。
その翌日は七人。
一週間後には、なぜか西棟や南棟の警備兵まで「偶然通りかかった」と言って現れるようになった。
「リーゼ。お前の周りに兵士が集まりすぎだ」
ネルが呆れた声で言う。
「わたしのせいじゃないよ! みんな勝手に道に迷ってくるの!」
「宮廷で一番方向感覚が悪いのが近衛兵団か。帝国の防衛が心配になるな」
ネルの皮肉を聞き流しながら、わたしは大鍋をかき回す。
端材で作る料理の量が、日に日に増えている。
ある日、フィンさんが困った顔でやって来た。
「リーゼさん。殿下が、少し怒っています」
「えっ、何かまずいことしましたか?」
「殿下の護衛を務める近衛兵が、午後の警備中にいなくなる事案が続いていまして。調べたところ、全員あなたの厨房に『道に迷って』いたそうで……」
「ごめんなさい!」
カイゼル殿下の護衛まで引き寄せてしまっていたとは。
後日、殿下から直々にお言葉をいただいた。
「リーゼ。お前の料理で帝国の警備体制が崩壊するのは困る」
「本当にすみません……」
「……ただし」
殿下は少し間を置いて、続けた。
「あの兵士たちの士気は上がっているとフィンから聞いた。兵の食事改善は、本来なら宮廷の責務だ。……続けろ」
「え」
「端材を使って兵の食事を作ることは許可する。ただし、俺の護衛の食事時間は昼のみとし、必ず交代制で行うこと。以上だ」
殿下は——怒っているのではなく、制度化してくれたのだ。
兵士たちが堂々と食事に来られるように。
わたしの料理が、厨房の片隅から少しずつ広がっていく。
グスタフは不快そうに眉を寄せていたけれど、皇子殿下の許可が出た以上、手は出せない。
* * *
宮廷料理人として二週間が経った頃、わたしはようやく宮廷の厨房の「ルール」を理解し始めた。
宮廷の料理は、すべてが魔法で管理されている。
食材の保存に保存魔法。火加減の調整に炎制御魔法。味の均一化に調味魔法。盛り付けの仕上げに幻影魔法。
つまり——魔力のない料理人は、工程の半分以上に関われない。
わたしがグスタフに冷遇される理由の一つは、ここにもあった。
魔法を使えないわたしは、厨房の戦力として「半人前以下」なのだ。
でも——わたしには、魔法の代わりになるものがある。
保存魔法の代わりに、塩漬け、燻製、乾燥、発酵。前世の保存技術。
炎制御魔法の代わりに、火加減の見極め。炎の色、音、匂いで温度を判断する技術。
調味魔法の代わりに、五感と知識による味の構築。
幻影魔法の代わりに——素材そのものの美しさを活かした盛り付け。
魔法に頼らない料理。
それは、この世界では「原始的」と嗤われる。
でも、前世の人類は魔法なしで何千年もの食文化を築いてきた。
わたしの料理が劣っているはずがない。
「リーゼ」
ある夕方、殿下の夕食を作り終えて厨房を片付けていると、ネルが棚の上から降りてきた。
「お前、楽しそうだな」
「えっ、そう?」
「ああ。学院にいる時よりも、ずっといい顔をしている」
言われて、自分の頬に手を当てた。
……確かに。
大変だし、グスタフにはいじめられるし、睡眠不足だし。
でも——毎日が、楽しい。
新しい食材との出会い。
端材から生まれる予想外の美味しさ。
兵士たちの笑顔。
下働きの人たちとの何気ない会話。
そして、何も言わずに全部食べてくれる殿下。
わたしは料理人だ。
厨房が戦場なら、わたしの武器は鍋とフライパンだ。
グスタフとの戦いは始まったばかりだけれど——負ける気はしなかった。
だって、わたしの味方は日に日に増えているのだから。
今日も厨房の隅から、帝国で一番美味しい端材料理の匂いが漂っている。
「道に迷った」兵士が、今日は十二人。新記録だ。
「リーゼ。お前の厨房が帝国最大の迷宮になる日も近いな」
「ネル、うるさい」
灰色の老猫は、ごろごろと喉を鳴らして笑った。




