【31】皇宮の厨房は戦場である
アステリア帝国皇宮。
白亜の城壁に囲まれた広大な宮殿は、帝国の中心そのものだ。
その正門をくぐった瞬間、わたしは自分がとんでもなく場違いな場所にいることを痛感した。
磨き上げられた大理石の床。天井には精緻な魔法の照明が煌めき、廊下の壁には歴代皇帝の肖像画が並んでいる。
すれ違う人々は全員が一流の仕立ての服を着ていて、わたしの学院の制服が惨めに見える。
「リーゼさん、大丈夫ですか?」
隣を歩くフィンさんが、心配そうにわたしを見た。
「だ、大丈夫です……たぶん」
たぶんは大丈夫ではない。
足が震えている。今のわたしの心境を料理に例えるなら、高級フレンチの厨房に放り込まれたまかない担当の気持ちだ。
第一皇女エレナ殿下から、宮廷晩餐会の料理を任された。
正確には「一品だけ」だが、その一品が皇族と高位貴族百名以上の食卓に並ぶのだ。
重圧がすごい。胃が痛い。
「殿下がお待ちですよ」
案内されたのは、皇宮の東棟にある特別厨房だった。
扉を開けて——わたしは、息を呑んだ。
広い。
学院の厨房の三倍はある。
ピカピカに磨かれた調理台、整然と並ぶ銅鍋の数々、壁一面のスパイス棚。
そして、部屋の中央には——巨大なかまどが三基。
でも、わたしの目を釘付けにしたのは設備ではなく、食材だった。
テーブルの上に並べられた食材の数々。
見たことのない色鮮やかな野菜。宝石のように光る果物。まだ動いている新鮮な魚介。
そして——わたしの目を最も引いたのは、棚の奥に並ぶ香辛料の瓶だった。
帝国中から、いや、大陸中から集められた最高品質の食材。
料理人にとって、これは——楽園だ。
「いい顔してますね」
フィンさんが微笑んでいる。わたしの顔は今、たぶんとんでもなく輝いている。
「すごい……この食材、全部使えるんですか?」
「晩餐会用に特別に用意されたものです。ご自由にお使いください」
ご自由に。
その二文字で、さっきまでの緊張が吹き飛んだ。
わたしは手を洗い、エプロンを締めて、食材の前に立った。
一つ一つ、手に取って確かめる。匂いを嗅ぎ、色を見て、感触を確かめる。
前世の食品科学者としての目と、今世の料理人としての直感。
その両方が、食材の声を聞き取ろうとしている。
「……リーゼ」
低い声。振り向くと、カイゼル殿下が入口に立っていた。
「殿下」
「エレナに言われて来た。お前に必要なものがあれば手配しろ、と」
それは殿下自身の言葉ではなく、エレナ殿下からの伝言だ。
でも、わざわざ来てくれた。
「ありがとうございます。食材は十分です。ただ——」
「ただ?」
「一つだけ、お願いがあります。わたしの料理を、事前に味見してくださいませんか。殿下の舌は、世界一繊細ですから。殿下が美味しいと感じたら、きっと他の誰にとっても美味しいはずです」
カイゼル殿下が、わずかに目を見開いた。
殿下の味覚過敏を「世界一繊細」と呼んだのは、たぶんわたしが初めてだろう。
宮廷の人々は「異常」「障害」としか見なかった。
でもわたしにとって、殿下の舌は最高の品質管理装置なのだ。
「……分かった」
殿下は壁際の椅子に座った。
腕を組んで、眉間にしわを寄せて、不機嫌そうな顔で。
でも——ここにいてくれる。
それだけで、心強かった。
* * *
晩餐会のメニューは、エレナ殿下から「自由に」と言われている。
百名以上の貴族に出す一品。
インパクトが必要だ。でも、奇をてらいすぎてもいけない。
高貴な方々の舌を満足させつつ、心に残る一品。
わたしが選んだのは——コンソメスープだった。
え、地味?
地味だ。見た目は。
でも、コンソメこそ料理の真髄だと、前世の師匠は言っていた。
『コンソメを飲めば、その料理人の全てが分かる。技術も、知識も、心も』
素材の旨味を極限まで引き出し、一滴の雑味もない、完璧に澄んだスープ。
それを作るには、食材の本質を——文字通り——理解しなければならない。
つまり、エッセンスの力を最も純粋に発揮できる料理だ。
問題は、エッセンスをどこまで込めるか。
込めすぎれば、金色に光って目立つ。
込めなければ、ただの美味しいスープで終わる。
わたしは——ギリギリの線を攻めることにした。
光らない程度のエッセンス。でも、飲んだ人の心に確実に届くレベル。
それは、針の穴を通すような繊細な作業だ。
鶏ガラ、牛骨、香味野菜。
前世の知識を総動員して、最高のブイヨンを仕込む。
灰汁を丁寧に引き、卵白でクラリフィエ(澄まし)を行い、透明な琥珀色のスープに仕上げる。
六時間。
六時間かけて、わたしはコンソメを完成させた。
カップに注いだコンソメは、宝石のように透き通った琥珀色。
立ち上る香りは、深くて優しくて、どこまでも澄んでいる。
金色の光は——ない。完璧に抑えた。
でも、一口飲めば分かるはずだ。
このスープの中に、食材たちの「声」が溶けていることに。
「殿下。味見をお願いします」
カイゼル殿下の前に、カップを置いた。
殿下はカップを手に取り、一瞬だけ香りを嗅いだ後——飲んだ。
長い沈黙。
「……もう一杯」
「はい」
二杯目を注ぐ。
殿下は二杯目もゆっくりと飲み干した。
そして——
「リーゼ」
「はい」
「これを百人に出すのは、惜しい」
それは——褒め言葉だ。
殿下の口から出た、初めての明確な褒め言葉。
わたしの目から、涙がぽろりとこぼれた。
「な、泣くな」
「す、すみません、嬉しくて」
「泣くと塩分で味が変わると、お前が言ったんだろう」
……それ、わたしのお母さんの言葉だ。いつの間に覚えたんだろう。
「殿下」
「何だ」
「ありがとうございます。味見、してくれて」
殿下は無言で顔を背けた。
フィンさんが、扉の影でにこにこしていた。
* * *
その夜の晩餐会。
わたしのコンソメスープは、会場を沈黙させた。
百名の貴族が一斉にスープを口にした瞬間、ざわめきが消えた。
匙を置く者。目を閉じる者。隣の席の人と顔を見合わせる者。
そして、一人の老齢の貴族が、静かに立ち上がった。
「この料理を作った者を、ここへ」
わたしは厨房から、震える足で広間に出た。
百の視線が、わたしに集中する。
老貴族は——帝国宰相だった。
「名は?」
「リ、リーゼ・ヴァイスフェルト……です」
「ヴァイスフェルト。聞かぬ名だが……このスープは、私が七十年生きてきた中で最も旨い」
広間にどよめきが起こった。
エレナ殿下が、満足げに微笑んでいるのが見えた。
カイゼル殿下は——壁際で腕を組んだまま、ほんの少しだけ口角を上げていた。
嬉しかった。
でも、同時に——怖かった。
わたしの料理が、注目を集めすぎている。
ネルの警告が頭を過ぎる。
『エッセンスの存在を知る者は、味方だけではない』
百名の貴族の中に、敵がいるかもしれない。
わたしの料理に宿る「何か」に気づいた者がいるかもしれない。
でも——今は、この拍手に応えよう。
深く、お辞儀をした。
十二歳の少女の、小さな体で。
帝国最高の食卓に立った、厨房の料理人として。




