【30】嵐の予感
午後五時。閉幕の鐘が鳴った。
わたしたちは模擬店の片付けをしながら、売上の集計を待っていた。
「出たよ、結果!」
エーリヒが息を切らして戻ってきた。手に集計用紙を持っている。
「売上——模擬店部門第一位! 二位の三倍以上の差!」
教室が歓声に包まれた。
「やったー!!」
「すごい! 一位だって!」
「リーゼのおかげだ!」
みんなが口々に叫んで、わたしの背中を叩いた。
痛い。嬉しいけど痛い。
「一位……本当に?」
「本当! しかも、来場者アンケートの満足度も一位! 『また食べたい』の回答率九十八パーセント!」
九十八パーセント。
残りの二パーセントが気になるけれど、ほぼ全員が満足してくれたということだ。
「みんなのおかげだよ。ミーナの呼び込みと、トーマスの火加減と、マリアの接客と、エーリヒの会計と——全員で頑張ったから」
「いやいや、料理を作ったのはリーゼちゃんでしょ!」
「生地の成形を手伝ってくれたのはみんなだよ。わたし一人じゃ百二十個なんて——」
「百二十一個」
ソフィアの声がした。
教室の入り口に、ソフィアが立っていた。制服姿で、いつもの凛とした表情。
でも、その手にはしっかりと——紙袋が握られている。
「約束のパイ。もらいに来たわ。それと、クッキーも」
「あ、ソフィア! 取っておいたよ。焼きたてじゃないけど——」
「構わないわ」
ソフィアは紙袋を受け取って、わたしの隣に座った。
パイを一口齧って、目を閉じた。
「……合格」
「厳しいなぁ」
「だって、昨夜一緒に作ったんだもの。自分が仕込んだ具材の味は分かるわ」
ソフィアがパイを食べている横で、クラスメイトたちが打ち上げの準備を始めた。
余った食材でサンドイッチを作り、スープの残りを温め直す。即席の祝勝会だ。
笑い声と、美味しそうな匂い。
わたしは——幸せだった。
前世では、学園祭の思い出なんてない。研究室に籠もって論文を書いていた。
今世で初めて、こういう「青春」を経験している。十二歳の体で、十二歳の友達と。
それが、どれだけ贅沢なことか。
* * *
祝勝会が落ち着いた頃、わたしは厨房の後片付けをしていた。
鍋を洗い、調理台を拭き、かまどの灰を掻き出す。地味な作業だが、嫌いじゃない。一日の終わりに厨房を綺麗にするのは、料理人としての区切りだ。
「リーゼ」
声をかけてきたのは、ヴェルナー教授だった。
魔術理論の教授で、エッセンスの研究者。ネルの元主人であるエルヴィンの手帳を保管していた人物。
白髪交じりの髪を掻きながら、教授は厨房に入ってきた。
「学院祭、大盛況だったそうだな。おめでとう」
「ありがとうございます、教授。あの、何か——」
「少し話がある。座れ」
教授の表情は穏やかだったが、目に警戒の色があった。
わたしは手を拭いて、椅子に腰かけた。
「今日、エレナ殿下がお前の店に来たそうだな」
「……はい。ご存じなんですか」
「あの方が学院に来れば、すぐに知れ渡る。第一皇女が模擬店でクッキーを買ったとなれば尚更だ」
教授は眼鏡を直した。
「リーゼ。率直に言う。エレナ殿下に目を付けられたのは、まずい」
「……やっぱり、まずいですか」
「殿下は聡明で、政治的な嗅覚に優れた方だ。お前の料理に普通でない何かがあると気づいたなら——利用しようとするだろう」
「カイゼル殿下も、同じことを言っていました」
「弟殿下は正しい。エレナ殿下は敵ではないが、味方とも限らない。あの方にとって、全ては帝国の利益が基準だ。お前の才能が帝国の利益になると判断すれば、手段を問わず引き込もうとするだろう」
教授の声は静かだが、重かった。
「問題は、宮廷だ。宮廷にはエッセンスの知識を持つ者がいるかもしれない。百年前にエルヴィンを告発した勢力の末裔が、今も権力の中枢にいないとは限らない」
「教授……」
「お前がエッセンスを使えることが宮廷に知れれば、百年前の二の舞になりかねない。エルヴィンがどうなったか——お前も知っているだろう」
知っている。
食の賢者エルヴィンは、エッセンスの力を恐れた勢力によって告発され、処刑された。
百年前の話だ。
「わたし、気をつけます。宮廷には近づかないように——」
「それが難しくなるかもしれない」
教授はそう言って、立ち上がった。
「来週、学院に正式な書状が届くはずだ。帝国の行事に関するな。ただの予測だが——備えておけ」
それだけ言って、教授は厨房を出ていった。
一人残されて、わたしは椅子に座ったまま動けなかった。
教授の言葉が、重く沈んでいる。
* * *
夜。
わたしは寮の自室に戻った。
ベッドの上で丸くなっているネルを見て、今日あったことを話した。エレナ殿下のこと。教授の警告のこと。
ネルは話を聞き終えると、翡翠色の目を細めた。
「第一皇女か。噂には聞いている。切れ者だと」
「ネル、わたし……どうすればいい?」
「どうもこうもない。厄介事は向こうから来る。避けられるなら避けろ。避けられないなら——覚悟を決めろ」
「覚悟って——」
「百年前」
ネルの声が、低くなった。
「エルヴィンが宮廷に招かれたのも、最初は晩餐の料理人としてだった。皇族が彼の料理に魅了された。国のために力を振るえと請われた。彼は喜んで応じた」
ネルの尻尾がゆっくりと揺れる。
「だが——宮廷に入ったエルヴィンは、二度と外には出なかった」
空気が冷えた。
「最初は料理人として重用された。だが、エッセンスの力が知れ渡るにつれ、恐れる者が増えた。人の心を操る危険な魔術だと。民を扇動できる禁忌の力だと」
「……ネル」
「告発され、拘束され、裁判にかけられた。弁明の機会もなく——処刑された。あいつの料理は、帝国にとって脅威だと判断されたのだ」
ネルは顔を上げて、わたしを見た。
「リーゼ。お前の料理も同じだ。人の心に触れる力がある。それは——美しいが、危うい」
「でも、わたしはただ美味しいものを作りたいだけで——」
「エルヴィンもそう言っていた」
その言葉で、わたしは口を閉じた。
ネルは窓辺に移動して、月を見上げた。
「あの愚か者は、自分の料理が人を幸せにすると信じていた。信じて疑わなかった。だから、宮廷の闇に気づくのが遅れた。お前は——同じ轍を踏むな」
「……うん」
「宮廷に呼ばれるな。できる限り」
「うん……」
わたしは布団を引き寄せて、膝を抱えた。
今日は最高の一日だったはずだ。
模擬店は一位で、みんなが喜んでくれて、カイゼル殿下が「いい」と言ってくれた。
なのに——胸の奥に、暗い雲がかかっている。
* * *
それから三日後の朝。
学院長室から、わたしに呼び出しがかかった。
学院長の机の上に、赤い封蝋で封をされた書状が一通。
封蝋に刻まれているのは——双頭の鷲。
アステリア帝国皇室の紋章だった。
「リーゼ・ヴァイスフェルト」
学院長が、厳かな声で言った。
「第一皇女エレナ・フォン・アステリア殿下より、正式な依頼状が届きました。来月の秋季晩餐会において、料理を一品担当してほしいとのことです」
来た。
教授の予測は正しかった。
「これは皇室からの公式な依頼です。学院として——拒否は、難しい」
学院長の表情は苦いものだった。わたしの事情を、どこまで知っているのかは分からない。だが、十二歳の生徒を宮廷に送り出すことへの懸念は、顔に出ていた。
「……分かりました」
わたしは、書状を見つめた。
赤い封蝋が、血のように見えた。
教授の警告。ネルの言葉。カイゼル殿下の忠告。
全てが頭の中で渦を巻いている。
でも——断れない。
皇室からの公式依頼を、魔力ゼロの実務奨学生が断れるはずがない。
学院長室を出て、廊下を歩いた。足取りが重い。
窓の外で、秋の風が木の葉を揺らしている。
嵐が来る。
わたしには——それが分かっていた。




