【3】厨房配属、始めました
厨房配属、初日。
朝五時。
わたしは目覚まし代わりに自分の頬を叩いて、暗い地下室のベッドから這い出た。
隣のベッドでは、ミーナが幸せそうな顔で爆睡している。清掃担当の彼女は七時始業なので、まだ二時間も猶予がある。うらやましい。
顔を洗って身支度を整え、薄暗い廊下を抜けて厨房に向かう。
地下室と厨房が近いのは、こういう時には助かる。ヘルミーナ学院長に感謝しよう。
……いや、やっぱりしない。地下室のカビ臭さは許していない。
厨房の扉を開けると、既に数人の料理人たちが働いていた。
「おう、来たか」
マルクスがこちらを見た。
昨日と同じ、山のような体格に革のエプロン。手には巨大な包丁を握っている。あの包丁、刃渡りだけでわたしの前腕くらいある。
「おはようございます。本日からお世話になります」
「声が小さい。この厨房では叫ばなきゃ聞こえん」
わたしは腹に力を入れて、もう一度。
「おはようございます!」
「……まぁいい。こっちに来い」
マルクスに連れられて、厨房のスタッフに紹介された。
副料理長のハンナ。四十代のふくよかな女性で、わたしを見て「あらまぁ、ちっちゃい子ね」と苦笑した。
焼き場担当のゲルト。仕込み担当のルッツ。
そして雑用担当の先輩、トーマ。十四歳の実務奨学生の二年生。
「よろしくな、新入り。ここはキツいぞ」
トーマは人の良い笑顔でそう言った。笑顔と内容が一致していないのが怖い。
「じゃあ、仕事だ」
マルクスがわたしの前に、木箱を三つ並べた。
中身は——ジャガイモ。大量のジャガイモ。三箱で、ざっと百個はある。
「昼食分の芋だ。全部皮を剥け。道具はそこのナイフ。終わるまで他の仕事はない」
百個のジャガイモの皮剥き。
新入りへの洗礼としては、定番中の定番だ。
ゲルトとルッツが「どうせ泣き出すぞ」とでも言いたそうな目でこちらを見ている。
十二歳の小娘に百個の芋の皮剥き。確かにキツい。普通の十二歳なら。
わたしはナイフを手に取った。
前世では食品科学の実験の一環で、調理技術も叩き込まれた。
ジャガイモの皮剥きなんて、目を閉じてもできる。
シュッ、シュッ、シュッ——。
ナイフが芋の表面を滑るように走る。
薄く均一な皮が、途切れることなくリボンのように剥がれていく。
一個目、十五秒。
二個目、十四秒。
三個目、十三秒。手が温まってきた。
無心で剥く。リズムに乗る。呼吸と手の動きを同期させる。
気づけば、厨房が静かになっていた。
ゲルトが口を開けてこちらを見ている。トーマは持っていた鍋を落としかけた。
「……おい」
マルクスの声が静寂を破った。
木箱の横には、綺麗に剥かれたジャガイモの山。三箱分、約百個。三十分弱。
マルクスが剥かれた芋を一つ手に取り、表面をじっと見た。指で撫で、光に透かす。
皮は限りなく薄く剥かれ、身の無駄がほとんどない。食材を無駄にしないのは、前世で叩き込まれた鉄則だ。
「……フン」
マルクスは芋を箱に戻し、鼻を鳴らした。
それだけだった。
褒め言葉は、ない。
でも、わたしは見逃さなかった。マルクスの口の端が、ほんの一瞬だけ動いたのを。
あれは——笑みだ。たぶん。おそらく。きっと。
「次は鍋洗いだ。裏に溜まっている。全部やれ」
はい、期待通りの展開です。
新入りの仕事は下働きの繰り返し。芋を剥き、鍋を洗い、野菜を運び、床を拭く。
前世の研究室でも、新人はビーカー洗いから始まった。どんな世界でも、下積みは同じだ。
* * *
異変に気づいたのは、三日目の昼だった。
厨房の隅で鍋を磨きながら、わたしはずっと気になっていたことがあった。
この学院の料理が、ひどい。
正確に言えば、食材は一級品なのに、調理がめちゃくちゃなのだ。
野菜は煮崩れるまで火を通す。肉は焼きすぎてパサパサになる。塩は目分量で、しかも入れすぎだ。
そして何より問題なのは——魔法で味を「補正」していること。
この世界では、調理の仕上げに「味覚調整魔法」をかけるのが一般的だ。
魔法で塩味を均一にし、苦味を抑え、旨味を増幅する。便利だが、食材本来の味を殺しているのと同じだ。
前世で言えば、化学調味料で素材の風味を強引に上書きするようなもの。すべてが同じ「魔法味」になる。
——もったいない。
こんなに良い食材があるのに。
こんなに新鮮な野菜があるのに。
ただ塩と魔法で味付けするだけなんて、食材に対する冒瀆だ。
でも、わたしは雑用係だ。口出しする立場にない。
分かっている。分かっているのだが。
その日の昼食用のスープが、かまどの上でぐつぐつと煮えていた。
担当のルッツが席を外し、ハンナは焼き場の方でゲルトと言い合いをしている。
マルクスは食材の受け取りで厨房を離れていた。
鍋の側を通りかかった時、わたしの足が止まった。
匂いで分かる。
このスープは、もう限界だ。
根菜ベースのスープだが、火にかけすぎて甘みが飛び、塩は多すぎ、ハーブは最初から入れたせいで香りが死んでいる。
このまま完成させたら、塩辛いだけの茶色い液体だ。魔法で「美味しく」するのだろうが、それは「不味くない」だけだ。
……ダメだ。我慢できない。
わたしは周囲を確認した。誰も見ていない。
棚からローズマリーとタイムを手に取った。
乾燥ハーブではなく、窓際に置いてあった鉢植えの生のもの。
まず、鍋の火加減を少しだけ落とす。
前世の知識によれば、ハーブの精油成分は高温で揮発しやすい。逆に、八十度前後のゆっくりとした加熱では、香気成分が穏やかにスープに溶け出す。
ローズマリーの葉を三枚、手のひらで軽く叩いてからスープに加えた。細胞壁を壊すことで、精油が出やすくなる。
タイムは茎ごと入れ、二分後に引き上げる。タイムのチモールは加熱しすぎると苦味に変わるからだ。
そして、隅に置いてあった蜂蜜を、ほんの一滴だけ。
塩味を中和するのではなく、舌が感じる塩味の「角」を蜂蜜の糖分で丸くする。味を変えるのではなく、味の感じ方を変えるのだ。
前世の食品科学で「味の相互作用」と呼ばれる原理だった。
全部で三分。
わたしは何食わぬ顔で鍋から離れ、鍋磨きの作業に戻った。
* * *
昼食の時間、ちょっとした騒ぎがあった。
三日ほど体調を崩して食事が取れなかった生徒がいた。食欲が戻らず、医務室でも匙を投げられかけていたらしい。
その生徒が、今日のスープを一口飲んで——止まらなくなったのだ。
「……おかわり、いただけますか」
食堂の配膳口に、空になった器を持った少年が現れた時、配膳係のトーマは目を丸くした。
「え、お前、三日間何も食べられなかったんじゃ……」
「分からない。でも、このスープ……なんだか、すごく身体に染みて……」
少年は結局、三杯おかわりした。
食堂のスタッフは首を傾げ、少年の友人たちは安堵の笑顔を浮かべた。
わたしは食堂の隅からそれを見ていた。胸の奥が、じんわりと温かい。
これだ。これが、料理の力だ。
魔法じゃない。ただ食材の声を聞いて、正しい手順で調理しただけ。それだけで、人を笑顔にできる。
お母さんがいつも言っていた。「おいしいごはんは、一番やさしい魔法よ」と。
その言葉の意味が、今なら分かる。
* * *
その日の夕方。
「おい」
鍋を洗っていたわたしの背後に、マルクスが立っていた。
「今日の昼のスープ、味が違った」
心臓が跳ねた。
「ルッツに聞いたが、あいつはいつも通りに作ったと言っている」
マルクスの目が、わたしを見据えている。
巨体から放たれる圧が、すごい。
「お前、何か知っているか」
「い、いえ……わたしは鍋を洗っていただけで……」
「…………」
長い沈黙。
マルクスの目は、わたしの嘘を見抜いているようないないような、読めない光をたたえている。
「まぁいい。鍋洗いに戻れ」
マルクスが去った後、わたしはこっそり息を吐いた。
危なかった。勝手にスープの味を変えるなんて、ルール違反だ。もうやるまい。
——でも、あの少年の笑顔を思い出すと、「もうやらない」と言い切れない自分がいた。
* * *
夜。
地下一号室の狭いベッドに潜り込んで、天井を見つめていた。
隣のベッドでは、ミーナがすでに寝息を立てている。起きている時はあんなにうるさいのに、寝ると途端に静かだ。
この学院でやっていけるだろうか。
魔力は測定不能。厨房では一番下っ端。寮は地下室。客観的に見れば、厳しい。
でも、不思議と絶望はしていなかった。
厨房には最高の食材がある。ミーナは気のいい子だ。マルクスは怖いけど腕は確かだ。
前世でも今世でも、わたしの武器は一つだけ。料理。それで十分だ。
——カリカリ。
小さな音がした。
窓の方だ。
地面すれすれにある、あの小さな窓。
身体を起こして窓を見る。
窓枠の上に、灰色の影が座っていた。
翡翠色の目が、暗闇の中でぼんやりと光っている。
あの猫だ。
聖女選定の日に、帝都の門の前で見かけた、灰色の老猫。
「あ……」
わたしは小さく声を上げた。
猫はふてぶてしい顔でこちらを見ている。
「……あなた、あの時の猫さん?」
猫は答えない。ただ、尻尾をゆっくりと左右に揺らしている。
厨房が近いから、食べ物の匂いに釣られて来たのだろうか。
わたしは窓に近づいて、そっと手を伸ばした。
「……ネル」
思わず、そう呼んだ。灰色の毛並みの「灰」で、ネル。
我ながら安直なネーミングだけど、名前がないと呼びにくい。
猫の翡翠色の目が、すっと細くなった。
「名前を勝手につけるな、小娘」
——しゃべった。
猫がしゃべった。
この猫、やっぱりしゃべった。
あの日の空耳じゃなかった。
「きゃあああっ!!」
わたしは悲鳴を上げた。
十二歳の少女として正しい反応だと思う。前世の二十八歳としても、猫がしゃべったら叫ぶ。
隣のベッドを見る。
ミーナは——まったく起きていなかった。
それどころか、寝返りを打って「んー……おかわり……」と寝言を言っている。
この子の睡眠の深さは、ある意味才能だ。
「うるさい。近所迷惑だろうが」
猫——ネルと呼んでしまったその灰色の老猫は、面倒くさそうにあくびをした。
「あ、あなた……しゃべって……」
「だから何だ。猫がしゃべって何が悪い」
いや、悪いとかじゃなくて。
この世界には魔法があるから、しゃべる猫がいてもおかしくはないのかもしれない。でも初めてだ。
「何者なの……?」
「ただの猫だ」
絶対嘘だ。ただの猫はしゃべらない。
ネルは窓枠の上で前足を組み——猫が前足を組む姿は初めて見た——わたしを見下ろした。
「まぁ、少しだけ見てやる」
「……見るって、何を?」
「お前の料理は……悪くない匂いがした」
ネルの翡翠色の目が、ふっと和らいだ。
ほんの一瞬。見逃しそうなほど短い間だった。
「昼のスープだ。厨房の窓から匂いが流れてきた。あの手の料理人どもが作る残飯とは、明らかに違う匂いだった」
残飯。マルクスたちの料理を残飯呼ばわりとは、なかなかの暴言だ。
でも、正直に言えば、わたしも同意見ではある。あの調理法では食材が可哀想だ。
「だから、もう少しだけ見届けてやる。お前の料理が、本物かどうかをな」
ネルはそう言うと、ひらりと窓枠から飛び降りて闇に消えた。
後に残されたのは、灰色の猫毛が数本と、窓枠についた小さな肉球の跡だけ。
わたしはしばらく窓の前に座り込んでいた。
しゃべる猫。
わたしの料理を「悪くない」と言った、しゃべる猫。
この学院生活、想像以上に波乱の予感がする。
「……ネル」
小さく呟いてみた。
名前を勝手につけるなと言われたけれど、もう呼んでしまったものは仕方がない。
窓の外では、帝都の夜空に星が瞬いていた。
地下室の小さな窓からでは、ほんの一欠片しか見えないけれど。
明日もまた、朝五時に起きて、ジャガイモを剥いて、鍋を洗う日々が始まる。
でも、それも悪くない。
だって、あの厨房には、まだまだ試したい食材が山ほどあるのだから。




