【29】皇子と少女と、焼きたてのパイ
エレナ殿下が去った後も、模擬店の行列は途切れなかった。
むしろ、勢いを増している。「皇女殿下が買いに来た店」という噂が広まったらしく、好奇心旺盛な来場者がどんどん押し寄せてくる。
嬉しい悲鳴だ。
文字通り悲鳴を上げたい。体力的に。
「パイ残り二十八個!」
「クッキー補充して! 星型が切れた!」
「スープの鍋、三杯目いく!」
クラスメイトたちが声を飛ばし合いながら、懸命に回している。みんなの顔が赤く上気して、でも楽しそうだ。
そんな中——カイゼル殿下が、まだいた。
模擬店の端に置いた予備の椅子に座って、腕を組んでいる。フィンさんは殿下の背後に控えていて、時折スタッフのように皿を運んでいる。
なぜいるのか。
エレナ殿下が去ったのだから、もう用はないはずだ。殿下は人混みが苦手で、騒がしい場所を嫌う。それなのに、ずっとここにいる。
……見張っている、のだろうか。エレナ殿下がまた来るかもしれないから。
きっとそうだ。殿下は律儀な人だから。自分の食事を作る人間を守るのは当然の判断だと、きっとそう考えている。
殿下の横をお客さんが通り過ぎるたびに、二度見が発生する。
当然だ。第二皇子が模擬店の片隅に座っているのだから。
「ねえ、あれカイゼル殿下じゃない……?」
「え、嘘、なんでこんなところに」
「あの模擬店に何か用があるの?」
ひそひそ声が聞こえる。殿下は眉一つ動かさず、虚空を見つめている。
いたたまれない。
「あの、殿下」
接客の合間に声をかけた。
「お疲れではありませんか? ずっと座っていらして。皇族専用棟にお戻りになった方が——」
「いい」
一言で切られた。
「……お飲み物でも持ってきましょうか」
「いらない」
「では、何か——」
「黙って仕事をしろ」
はい。
わたしは素直に持ち場に戻った。殿下がああ言ったら、もう何を言っても無駄だ。数ヶ月の付き合いで学んだ。
* * *
午後三時を過ぎると、さすがに客足が落ち始めた。
パイは残り十個。スープはまだ鍋に半分。パンは完売。クッキーは——ソフィアの分を確保してあるので、残り二十枚ほど。
ミーナたちが交代で休憩を取り始めた。わたしも厨房の隅で一息つく。
……疲れた。
朝四時から立ちっぱなしだ。足が棒のようで、腰が痛い。指先はパイの成形で赤くなっている。
でも、充実感がすごい。
みんなが「美味しい」と言ってくれた。笑顔で食べてくれた。おかわりを買いに来てくれた。
料理人にとって、これ以上の幸せはない。
「リーゼ」
殿下の声に振り向くと、カイゼル殿下がカウンターの前に立っていた。
椅子から立ち上がっている。
「一つくれ」
「え?」
「パイだ。一つ」
……殿下が、模擬店でパイを買う?
ここで?
人前で?
「あ、はい。少々お待ちください」
焼きたてではないが、まだ十分に温かいパイを一つ、紙に包んで差し出した。
殿下は受け取って——そのまま、カウンターの前で、紙を開いた。
周囲の視線が集まる。
氷の皇子がミートパイを食べる。模擬店の、カウンターの前で。
殿下はパイを一口齧った。
ぱりっ、という音が響いた。
パイ生地が割れて、中から肉汁の香りが立ち上る。
殿下の咀嚼は、いつも通り静かだった。
表情は変わらない。蒼い目は虚空を見つめたまま、淡々と噛んで、飲み込む。
二口目。三口目。
パイが——なくなった。
完食だ。
周囲がざわめいた。
カイゼル殿下が食べ物を完食するところを、公の場で見た人間はほとんどいない。宮廷でさえ、殿下は一口二口で箸を止めるのが常だった。
それが、模擬店のミートパイを——丸ごと一個、食べきった。
「殿下……」
フィンさんが、感極まった顔をしている。泣きそうだ。
殿下は紙を丁寧に畳んで、わたしに返した。
「——悪くない」
それだけ言って、元の椅子に戻っていった。
悪くない。
殿下の辞書では、それは最上級の褒め言葉に近い。
わたしは紙を受け取りながら、なんだか胸の奥がじんわりと温かくなった。
* * *
午後四時。閉幕まであと一時間。
客足はだいぶ落ち着いて、クラスメイトの半分は片付けに回っている。
わたしは最後のクッキーを焼き上げて、厨房の作業台に並べた。
砂糖衣を塗った、星と月のクッキー。ソフィアの分と——もう一つ分。
カイゼル殿下は、まだ椅子に座っていた。
もう客もまばらなのに。エレナ殿下が戻ってくる気配もないのに。
……座っているだけで、退屈ではないのだろうか。
わたしは焼きたてのクッキーを二枚、小さな皿に乗せて殿下のところに持っていった。
「殿下。これ、よかったら」
「何だ」
「クッキーです。今焼き上がったばかりの。試食会の時に『元気が出る』って言ってもらえたやつの、改良版です」
殿下は皿を見下ろした。
星型と月型の、小さなクッキー。砂糖衣がきらきら光っている。
「甘いものは得意ではない」
「知っています。だから、甘さは控えめにしてあります。バターの風味を前に出して、砂糖は最小限。殿下の舌でも大丈夫なはず——たぶん」
「たぶんか」
「……九割五分の確信です」
殿下は小さく息をついて、星型のクッキーを手に取った。
一口、齧る。
さくり、と軽い音。
殿下の咀嚼が、一瞬だけ——止まった。
そして、ゆっくりと噛み続ける。飲み込む。
長い沈黙。
わたしは息を詰めて、殿下の顔を見つめていた。
「——これは」
殿下が口を開いた。
「いい」
いい。
パイの「悪くない」より、一段階上の言葉。
殿下が食べ物に対して肯定的な言葉を使ったのは、わたしが知る限り——これが初めてだった。
「本当ですか」
「二度言わせるな」
「はい。——ありがとうございます、殿下」
嬉しかった。
世界で一番繊細な舌を持つ人が、わたしのクッキーを「いい」と言ってくれた。
それは、百人の「美味しい」に匹敵する重みがあった。
殿下は月型のクッキーも手に取り、同じようにゆっくりと食べた。
二枚とも、完食。
食べ終わった殿下は、空になった皿をわたしに返した。
その手が、ほんの一瞬——わたしの指に触れた。
冷たい指だった。
氷の魔力を持つ殿下の体温は、常人より低い。
でも——不思議と、冷たいとは思わなかった。
「殿下。今日は——ありがとうございました。ずっとここにいてくださって」
「別に。暇だっただけだ」
「はい。そういうことにしておきます」
「……生意気な」
殿下はそっぽを向いた。
夕暮れの光が、殿下の銀色の髪を橙色に染めている。
蒼い目が、ほんの一瞬だけ——柔らかくなった気がした。
気のせいかもしれない。
でも、わたしは確かに見た。
氷の皇子の、融けかけた横顔を。
* * *
殿下が去った後、わたしは空になった皿を洗いながら、ぼんやり考えた。
殿下の「いい」という言葉が、胸の中でずっと温かい。
前世では、こんなふうに誰かの一言で心が揺れることはなかった。食品科学者として、客観的なデータと評価だけが全てだった。
今世のわたしは——揺れる。
殿下の「悪くない」で嬉しくなり、「いい」で胸がいっぱいになる。
それは料理人としての喜びだ。自分の料理を認めてもらえた、純粋な喜び。
……そのはずだ。それ以上の意味は、ない。
ないったら、ない。
「リーゼちゃん、皿洗い手伝うよ」
「あ、ありがとう、ミーナ」
ミーナがにやにやしながら隣に立った。
「殿下、ずっといたね」
「う、うん。見張りで……エレナ殿下がまた来るかもしれないから……」
「ふーん。見張りね。見張りのために、模擬店でパイ食べて、クッキー食べて、夕方まで座ってたんだ」
「……そうだよ」
「ふーん」
ミーナの「ふーん」は、明らかに全てを見透かした「ふーん」だった。
わたしは皿洗いに集中した。顔が赤いのは、厨房の熱気のせいだ。絶対にそうだ。




