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魔力ゼロで聖女試験に落ちましたが、私の作るごはんは魔法より効くみたいです ~味のわからない皇子殿下の専属料理人になりました~  作者: 河合ゆうじ


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【28】第一皇女エレナ

 紫のドレスの女性が去って、三十分ほど経った頃だった。


 行列を捌きながら、わたしはさっきの女性のことが頭から離れなかった。

 あの目。クッキーを食べた瞬間の、あの鋭い目。


 ただ「美味しい」と思っただけの目ではなかった。

 何かを——見抜いた目だった。


「リーゼちゃん」


 ミーナが小声でわたしの袖を引いた。


「あの人、また来たよ。さっきの紫のドレスの人」


 見ると、模擬店の少し離れた場所に、あの女性が立っていた。

 今度は一人ではない。背後に黒服の護衛が二人。


 護衛付き。


 一般の貴族ではない。それだけは確かだ。


 女性はまっすぐこちらに歩いてきた。行列を無視して、カウンターの前に立つ。

 並んでいた生徒たちが、何も言えずに道を開けた。それだけの圧があった。


「先ほどのクッキー。もう少し話を聞かせてもらえるかしら」


「は、はい——」


「あなた、何歳?」


「十二歳です」


「十二歳。学院の生徒?」


「実務奨学生です。厨房配属の——」


「魔力は?」


 核心を突く質問が、矢のように飛んでくる。


「……測定不能です」


「ゼロ、ということね」


 女性は腕を組んだ。紫の瞳が、わたしの顔を下から上まで見つめた。


「魔力ゼロの十二歳の少女が作ったクッキーが、なぜあんな味になるのかしら。あなたのクッキー——普通じゃないわ。食べると心が凪ぐ。理由もなく、大丈夫だと思える。それは技術だけでは説明がつかない」


 心臓が跳ねた。


 この人は——気づいている。


「あ、あの、わたしは配合を工夫しているだけで——バターの風味成分とシナモンのケイ皮アルデヒドが脳内のセロトニン分泌を——」


「セロトニン? 何の話?」


 前世の知識が出た。慌てて口を閉じる。


「と、とにかく、科学的に……いえ、調理学的に説明できる範囲のことです」


 女性は面白そうにわたしを見つめていた。嘘を見抜いているのか、あるいは、嘘と知った上で楽しんでいるのか。


 その時だった。


「エレナ」


 低い声が、背後から割り込んだ。


 振り返ると——カイゼル殿下が立っていた。


 フィンさんを伴い、いつもの黒い外套を羽織った長身の姿。蒼い目が、紫のドレスの女性を射抜いている。


 女性は——微笑んだ。


「あら、カイゼル。来ていたの」


「エレナ。何をしている」


 エレナ。


 その名前を聞いて、わたしの頭の中で何かが繋がった。


 エレナ・フォン・アステリア。

 第一皇女。

 カイゼル殿下の異母姉。


 帝国きっての政治家にして、社交界の華。「紫蘭の皇女」の異名を持つ、皇位継承権第二位の女性。


 わたしの目の前にいるのは——帝国の権力の中枢に座る人物だった。


「何って、学院祭を楽しんでいるだけよ。今年は面白い出し物があると聞いてね」


「学院祭に来るのは初めてだろう」


「だから、面白い出し物があると聞いたの。今し方ね」


 姉弟の会話は穏やかだが、どこか張り詰めたものがある。氷の皇子と呼ばれるカイゼル殿下だが、この姉の前では——警戒、という言葉が似合う表情をしている。


 エレナ殿下がわたしに視線を戻した。


「この子があなたの料理人?」


「俺の料理人ではない」


「あら。でも、あなたの食事を作っているのでしょう? 厨房のスタッフから聞いたわ。弟がようやく食事を完食するようになったと。この子の料理だけ、残さず食べると」


 カイゼル殿下の眉間に、深い皺が刻まれた。


「……誰がそんなことを」


「わたしの耳は広いの。知っているでしょう」


 エレナ殿下は優雅に微笑んだ。政治家の笑みだった。温かいのに、隙がない。


「カイゼル。あなたが十年間食べられなかった食事を食べさせた人間がいる。それは、わたしにとっても重要な情報よ」


「重要?」


「皇族の健康は国家の関心事ですもの」


 建前だ、と直感で分かった。

 この人が気にしているのは、カイゼル殿下の健康ではなく——わたしの料理の「力」だ。


 カイゼル殿下がわたしの前に一歩踏み出した。


 長身の背中が、わたしとエレナ殿下の間に壁を作る。


「エレナ。この子は学院の生徒だ。政治に巻き込むな」


「巻き込む? 人聞きの悪い。わたしはただ、才能ある少女に興味を持っただけよ」


「お前の『興味』がどういう結果を招くか、知らないわけではないだろう」


 空気が張り詰めた。

 周囲の生徒たちが、何事かと遠巻きに見ている。


 エレナ殿下は——笑った。


 ふっと、肩の力を抜くように。


「あら。弟が誰かを庇うなんて。初めて見たわ」


「庇ってなどいない」


「そう? わたしには、とても大切なものを守ろうとしているように見えるけれど」


 カイゼル殿下は何も答えなかった。


 エレナ殿下は手袋をはめ直し、護衛に目配せした。


「今日のところは退散するわ。学院祭を楽しんで——リーゼ・ヴァイスフェルト」


 わたしの名前を、正確に呼んだ。一度聞いただけで覚えたのだ。


「あなたの料理は本物よ。いずれ——もっと大きな舞台で、その腕を振るう日が来る。わたしが、そうさせるかもしれない」


 それは予言なのか、宣言なのか。


 エレナ殿下は紫のケープを翻して去っていった。護衛が影のように従う。


 その後ろ姿を、わたしはただ見送ることしかできなかった。

 あの歩き方。一歩一歩に迷いがなく、周囲の人間が自然と道を開ける。生まれながらに権力の中枢を歩いてきた人間の所作だ。


 わたしの知っている「貴族」とは、根本的に違う。ソフィアの凛とした佇まいとも、カイゼル殿下の冷厳さとも異なる、もっと底知れない何か。


 あの人の目に、わたしはどう映ったのだろう。

 便利な道具か。面白い玩具か。それとも——


 残されたわたしは、カウンターの裏でへたり込みそうになった。


「……殿下」


「何だ」


「あの方は——」


「俺の姉だ。第一皇女エレナ。帝国で最も厄介な女」


 最も厄介。実の姉をそう呼ぶ殿下の声には、嫌悪ではなく——諦めに近いものがあった。


「あの人に目を付けられたな」


 殿下がぼそりと言った。


「め、目を付けられた……って、どういう」


「エレナは政治家だ。使えるものは何でも使う。お前の料理に利用価値があると判断すれば——宮廷に引き込もうとする」


「宮廷に——」


「気をつけろ。あの女の誘いは、断りにくい形でやってくる」


 殿下はそれだけ言うと、外套の襟を直して背を向けた。


 フィンさんがわたしに小さく会釈して、殿下の後を追う。


 わたしは模擬店のカウンターに両手をついて、大きく息を吐いた。


 第一皇女。

 帝国の政治の中枢。

 わたしの料理の「力」に気づいた、最も危険な人物。


 ネルの言葉が頭をよぎる。

 『勘の鋭い奴の前では、どんなに微かなエッセンスでもバレる可能性がある』


 バレた。

 完全にバレた——かはわからない。でも、疑われた。


「リーゼちゃーん、お客さん待ってるよー!」


 ミーナの呼び声で、わたしは顔を上げた。


 行列は続いている。お客さんが待っている。


 考えるのは後だ。今は——目の前の人に、美味しいものを届けよう。


「はい! お待たせしました! 焼きたてのミートパイです!」


 声を張り上げて、わたしは笑顔を作った。


 手が、ほんの少しだけ震えていた。

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