【27】学院祭・開幕
学院祭当日。
空は晴れ渡り、秋の澄んだ風が校庭を吹き抜けていた。
わたしは朝の四時に起きて厨房に入り、パイの成形と焼成を開始した。
昨夜ソフィアと仕込んだ具材を一つずつ生地に包み、卵液を塗って、かまどに入れる。
百二十個。
最初の一天板が焼き上がった時、厨房にバターと肉の香ばしい匂いが広がった。
パイ生地は三十二層がきれいに膨らみ、黄金色に輝いている。割ると、中からとろりとした肉汁が滴る。
完璧だ。
「リーゼちゃん、パン焼けたよー!」
ミーナが奥のかまどから声を上げた。丸パンが天板の上でこんがりと膨らんでいる。わたしが細かく指示した温度と時間を、ミーナは正確に守ってくれた。
「ありがとう、ミーナ。スープは——」
「火加減見てる!」
トーマスが大鍋の前で木べらを握っている。クリームスープの仕上げは、わたしが最後に味を調える。
クラスメイト総動員の厨房は、戦場のような活気に満ちていた。
* * *
午前九時。開会の鐘が鳴った。
正門から来場者が流れ込み、校庭に並んだ各クラスの模擬店やテントに人が散っていく。
帝都の市民、生徒の家族、他校の学生。そして——華やかな装いの貴族たち。
わたしたちの模擬店は、中庭に面した教室の一角。窓を開け放って対面販売にしてある。
看板は「リーゼの食堂」。ミーナが勝手に命名した。やめてほしかった。
メニューは四品。
ミートパイ——三十デニル。
クリームスープ——二十デニル。
焼きたてパン——十デニル。
バタークッキー(星と月の紋章型)——五デニル。
「高くない?」とマリアが心配したが、わたしは首を振った。
原価計算は前世の得意分野だ。食材費と利益率を考えれば適正価格だし、学院祭の相場もこんなものだろう。
「いらっしゃいませ! 焼きたてのミートパイはいかがですかー!」
ミーナの元気な呼び込みが響く。
最初の客がおずおずと近づいてきた。
「あの、パイ一つ……」
「はい! どうぞ!」
焼きたてのミートパイを渡す。
その生徒が一口齧った瞬間——足が止まった。
「……何これ」
目を見開いている。
「肉汁が……パイ生地のバターと混ざって……え、何これ」
「ありがとうございます。次の方、どうぞ」
二人目。三人目。四人目。
食べた全員が同じ反応をした。立ち止まって、目を見開いて、もう一口食べて、それから——
「おかわりください!!」
開始十五分で行列ができた。
パイを食べた人がそのまま列の最後尾に並び直している。スープを飲んだ人がパンも買い、クッキーを齧った人が友達を呼びに走っていく。
口コミの速度が尋常ではない。
「リーゼちゃん、パイあと何個!?」
「残り八十二個! 補充焼いてるから大丈夫!」
かまどの前に立ちながら、わたしは必死で感情を制御していた。
楽しい。嬉しい。
みんなが美味しそうに食べている。
その顔を見ると、胸の奥から温かいものが込み上げてくる。
——駄目だ。抑えろ。
エッセンスが出すぎないように。「なんか美味しかった」で済むレベルに。穏やかに、穏やかに。
深呼吸。
わたしは食品科学者だ。感情に左右されず、品質を一定に保つのが仕事だ。
……と自分に言い聞かせるけれど、目の前で「美味しい」と笑う人たちを見ると、やっぱり嬉しくなってしまう。
難しい。本当に難しい。
* * *
午前中だけで、ミートパイは八十個が売れた。
スープは鍋二杯分が空になり、パンは完売。クッキーだけが残っているのは、午後に備えて多めに焼いたからだ。
「すごいね、リーゼ。他のクラスの三倍は売れてるよ」
エーリヒが売上帳簿を見ながら言った。彼は会計担当だ。
確かに、周囲の模擬店を見回すと、うちほどの行列は他にない。
隣のクラスの魔法展示は客がまばらで、向かいの演劇部は開演前だから閑散としている。
「ちょっと売れすぎかも……」
嬉しい反面、目立つのは怖い。
その懸念が、少しだけ現実になったのは——昼過ぎのことだった。
「あの模擬店、なんであんなに人が入ってるの?」
「食べた? あそこのパイ、やばいよ」
「厨房科の奴が料理してるらしい。つーか、魔力なしの実務奨学生らしいぜ」
噂が広がっている。
そして、噂は——良い感情だけを運ぶとは限らない。
「おい、聞いたか。C組の模擬店、うちの三倍売れてるって」
「は? マジ?」
「あの厨房の奴が作ってるやつでしょ。なんか怪しくない? 魔力ゼロのくせに、料理だけ異常に美味いって」
聞こえないふりをした。
昔から分かっている。突出すると、妬みと疑いの的になる。
でも、今は手を抜けない。
お客さんが待っている。わたしの料理を、楽しみにして並んでくれている。
「リーゼ、パイ追加焼けた!」
「ありがとう、トーマス! 前に出して!」
午後の営業が始まった。
行列は途切れることなく続いていた。
* * *
午後二時過ぎ。
ちょうどミートパイの新しい天板を焼き上げて、カウンターに補充した時だった。
一人の女性が、行列の最後尾に並んでいた。
——目を引く人だった。
深い紫のドレスに、象牙色のケープ。濃い金髪を優雅に結い上げ、細い首には控えめな宝石のネックレス。
年齢は二十代半ばだろうか。端正な顔立ちに、知性を湛えた切れ長の目。
貴族だ。それも、かなり高位の。
周囲の客も気づいたのか、さりげなく距離を取っている。
その女性は行列を静かに進み、やがてカウンターの前に立った。
「いらっしゃいませ。何にいたしますか」
わたしが声をかけると、女性は品定めするようにメニューを眺めた。
「クッキーを一つ。それから——パイも」
「はい。少々お待ちください」
焼きたてのパイと、砂糖衣のクッキーを紙に包んで差し出す。
女性はまず、クッキーを手に取った。
星型の、小さなバタークッキー。
一口、齧った。
その瞬間。
女性の目が、大きく見開かれた。
わたしはその反応を見て、背筋が冷たくなった。
今までの客は、みんな「美味しい」という感想だった。驚きはあっても、それは純粋な喜びだった。
でも——この女性の目は違う。
驚きの中に、分析がある。
何かを探るような、鋭い光。
女性はクッキーを飲み込み、ゆっくりとわたしを見た。
紫の瞳が、わたしを射抜いた。
「——このクッキーを作ったのは、誰?」
声は穏やかだった。でも、有無を言わさない何かがあった。
「わたし……です」
「あなた。名前は」
「リーゼ・ヴァイスフェルトです」
女性はクッキーを見下ろし、もう一口齧った。
今度はゆっくりと、味わうように。
そして——微かに、笑った。
「面白い」
その一言が、学院祭の喧騒の中で、やけに鮮明に聞こえた。
女性はパイを受け取ると、背を向けて歩いていった。
群衆の中に紫のドレスが消えていく。
「……誰だろう、あの人」
隣のミーナが首を傾げた。
わたしは答えられなかった。
ただ——嫌な予感だけが、胸の底に沈んでいた。




