【26】学院祭・前夜
学院祭前日の夜。
通常業務を終えた厨房は、静かだった。
マルクスさんと他の厨房スタッフが帰った後、わたしは一人でミートパイの仕込みを始めた。
明日の分——百二十個。
生地は昨日のうちに練って、冷蔵庫で寝かせてある。今夜やるのは、具材の仕込みと成形だ。
牛挽肉を大鍋で炒める。ゼーベルのみじん切りを加えて、じっくり。焦がさないように、木べらで丁寧に混ぜ続ける。
赤ワインを注ぐと、ジュワッと音がして、甘い湯気が立ち上った。
ここにハーブを加えて、弱火で三十分煮込む。
その間に、クッキーの焼き加減を確認して——
「リーゼ?」
厨房の入り口に、ソフィアさまが立っていた。
いつもの制服ではなく、シンプルな白いブラウスに紺のスカート。髪はひとつに結んで、エプロンを腕にかけている。
「ソフィアさま。こんな時間に——」
「手伝いに来たの。約束したでしょう?」
ソフィアさまはエプロンを身に着けながら、厨房に入ってきた。
「何をすればいい?」
「えっと——じゃあ、クッキーの仕上げをお願いしてもいいですか? 焼き上がったものに、砂糖衣をかける作業が」
「任せて」
ソフィアさまは手を洗い、焼き上がったクッキーの前に立った。
砂糖を水で溶いた衣を、刷毛で薄く塗る。簡単な作業だけれど、均一に塗るのは意外と難しい。
ソフィアさまの手つきは、最初はぎこちなかった。
「あ、もう少し薄く——そうです、そのくらい」
「こう?」
「はい、上手です」
侯爵令嬢が、厨房でエプロンをつけてクッキーに砂糖衣を塗っている。
彼女の家の人間が見たら、卒倒するかもしれない。
でも、ソフィアさまは楽しそうだった。
眉間の皺がなくて、口元が微かに緩んでいて——学院で見せる「完璧な令嬢」の仮面が、外れている。
「ねぇ、リーゼ。砂糖衣に色をつけたりはしないの?」
「あ、それいいですね。でも着色料がないので——」
「ベリーの絞り汁はどう? 食材庫にラズベリーの瓶詰めがあったわ」
ソフィアさまはさっと食材庫を覗き込み、ラズベリーの瓶を見つけてきた。行動が速い。
ラズベリーの果汁を少量混ぜた砂糖衣は、淡いピンク色に染まった。白い砂糖衣のクッキーと、ピンクの砂糖衣のクッキー。交互に並べると、とても可愛らしい。
「素敵。これなら見た目でも惹きつけられるわ」
「ソフィア、センスいいですね。こういう発想はわたしには出てこない」
「わたしは味を作ることはできないけれど、見せ方なら少しは。役割分担ね」
二人で顔を見合わせて、くすりと笑った。
* * *
二時間が過ぎた。
ミートパイの具材が煮上がり、粗熱を取っている間に、わたしたちはパンの成形に取り掛かった。
発酵させた生地を、一つずつ丸める。手のひらに生地を乗せて、くるくると回す。
「こうやって、包み込むように」
「……難しい。いびつになる」
「大丈夫です。少しくらいいびつな方が、手作り感があって可愛いですよ」
「……そう?」
ソフィアさまは自分が丸めたパン生地を眺めて、小さく笑った。
「初めてよ、こういうこと」
「パンを丸めるのが?」
「そうじゃなくて——」
ソフィアさまは、粉まみれの手をエプロンで拭いた。
「誰かと一緒に、夜更かしして何かを作ること」
その声は、静かだった。
「クラインヘルツ家では、わたしは常に『完璧』であることを求められるの。食事の作法、言葉遣い、魔術の成績。全てにおいて、侯爵家の名に恥じないように」
「……」
「友達と夜更かしするなんて、許されなかった。遊ぶ時間があるなら勉強しなさい、社交の場に出なさい。わたしの時間は、全て家のためのもの」
ソフィアさまは、生地をもうひとつ丸めた。今度は少しだけ上手にできた。
「学院に来て——リーゼに会って、初めて思ったの。ああ、こういうのが『楽しい』っていうことなんだって」
「ソフィアさま——」
「ソフィアでいいわ。二人の時くらい」
……ソフィア。
わたしは頷いた。
「じゃあ、ソフィア。わたしも楽しいよ。一人で百二十個パイ作るのは地獄だなって思ってたから、来てくれて本当に嬉しい」
「地獄って」
「だって百二十個だよ!? 一人でやったら夜が明ける!」
ソフィアが笑った。
声を出して、お腹を抱えて。
侯爵令嬢がこんなふうに笑うところを、他の誰が知っているだろう。
わたしは——この笑顔を守りたいと思った。
友達としては、少し大げさかもしれないけれど。
* * *
深夜。
全ての仕込みが終わった。
ミートパイの具材は冷蔵庫に。パン生地は布をかけて最終発酵中。クッキーは焼き上がって箱に詰めた。
わたしとソフィアは、厨房の床に座り込んでいた。
疲れて椅子まで移動する気力がない。
「はい、これ」
わたしは余った生地で焼いた小さなパンを、ソフィアに渡した。試作の残りで作ったミニシチューと一緒に。
「夜食。食べよう」
「……床で?」
「床で」
ソフィアは一瞬だけ躊躇したけれど、すぐにパンをちぎって口に入れた。
「…………美味しい」
「うん。疲れた後に食べると、何でも美味しいよね」
「そういう問題じゃないわ。リーゼの料理は——なんていうか、安心するの。食べると、全部大丈夫って思える」
全部大丈夫。
その言葉が、わたしの胸に温かく沁みた。
「ソフィアの家——クラインヘルツ家は、百年前に食の賢者エルヴィンを告発した一族なんだよね」
「ええ」
「……怖くないの? わたしの料理が、普通じゃないって知ってて」
ソフィアは少し考えてから、首を横に振った。
「怖くない。だって、リーゼの料理を食べて、悪いことが起きたことは一度もないもの」
「でも、家の人に知られたら——」
「知られたら、わたしが全力で守る。わたしはクラインヘルツの次期当主よ。多少の無理は通せるわ」
さらっと言った。
でも、その目は本気だった。
「……ありがとう、ソフィア」
「お礼は要らないわ。その代わり」
「代わり?」
「明日のパイ、一つわたしに取っておいてね。焼きたてのを」
食いしん坊令嬢だ。
「もちろん。一番最初に焼けたやつを」
「約束よ」
わたしたちは床に座ったまま、パンを齧り、シチューをすすった。
厨房の窓から、月明かりが差し込んでいた。
前世でも、今世でも——友達と夜更かしして何かを食べるのは、最高の贅沢だ。
* * *
厨房の影から、ネルがじっとこちらを見ていた。
二人の少女が床に座って笑い合っている姿を、翡翠色の目で。
「……エルヴィンにも、こういう友達がいればよかったのにな」
百年前、食の賢者は孤独だった。
彼の力を理解する者は少なく、恐れる者は多かった。唯一の理解者だったフリードリヒも、学者としてエッセンスを研究することはできたが、共に台所に立つことはなかった。
エルヴィンはいつも一人で料理を作り、一人で食べていた。
あの愚か者。人の心を動かす料理を作れるくせに、自分の孤独だけはどうにもできなかった。
でも——今、この小さな料理人には、友がいる。
侯爵家の令嬢が、床に座ってパンをちぎっている。笑いながら。
リーゼ・ヴァイスフェルトは、エルヴィンとは違う道を歩けるかもしれない。
ネルは小さく欠伸をして、窓辺に丸くなった。
明日は——きっと、良い日になる。
そんな予感がしていた。




