【25】試食会
学院祭一週間前。
わたしは放課後の厨房で、本番用メニューの最終調整をしていた。
ミートパイ、クリームスープ、パン、クッキー。
全てのレシピを三回ずつ試作して、分量を確定させた。
今日はクラスメイトを集めての試食会——要するに、最終味見だ。
「じゃあ、みんな来て!」
ミーナの呼びかけで、クラスメイト十二人が厨房に集まった。テーブルの上には、わたしが朝から仕込んだ四品が並んでいる。
正直、緊張する。
マルクスさんやカイゼル殿下には食べてもらっているけれど、同い年の子たちに食べてもらうのは初めてだ。
「はい、どうぞ。まずミートパイから」
焼きたてのミートパイを切り分けて、一人一切れずつ配った。
パイ生地はバターを三十二層に折り込んである。中の具材は、牛挽肉をゼーベルとニンジンと一緒に炒めて、赤ワインとハーブで煮込んだもの。メイラード反応を丁寧に起こして、肉の旨味を最大限に引き出している。
みんなが一斉にかぶりついた。
沈黙。
三秒間の、完全な沈黙。
そして——
「うっっっま!!!!」
トーマスが椅子から立ち上がった。
「何これ!? 肉が、肉なのに甘い!? でも砂糖じゃない! 何この味!」
「メイラード反応による——」
「パイ生地がサクサクのふわふわ! なのに中はジューシー! 矛盾してるのに成立してる!!」
聞いてない。
「次、クリームスープです——」
「待って、もう一切れ食べたい」
「試食だから一切れね。はい、スープ」
クリームスープを配る。ジャガイモとゼーベルをベースに、生クリームとバターで仕上げた濃厚なポタージュだ。隠し味に、ほんの少しのナツメグ。
ハンスが一口飲んだ瞬間、目を見開いた。
「……母ちゃん……?」
「え?」
「母ちゃんが作ってくれたスープと……同じ味がする……」
ハンスの目に涙が浮かんでいた。
「えっ、ハンスくん泣いてる?」
「泣いてない! 目から汁が出てるだけだ!」
それを泣くと言うのだ。
……まずい。エッセンスを抑えたつもりだったのに。
わたしはスープを作っている時、「みんなに喜んでもらいたい」と思っていた。その気持ちが、ほんの少しだけ滲んだのかもしれない。
ハンスは故郷の母親を恋しく思っていたのだろう。スープの温かさが、その記憶を刺激してしまった。
記憶のスープほど強くはない。でも、微かにエッセンスが混じっている。
気をつけないと。
「はい、次! パンです!」
気を取り直して、焼きたてのパンを配った。
シンプルな丸パン。外はカリッと、中はもちもち。小麦の香りが立つように、発酵時間と焼成温度を精密に調整している。
マリアがパンを割った瞬間、湯気がふわっと立ち上った。
「……素敵。このパン、生きてるみたい」
「イースト菌が活発だから、焼きたてだとまだ微かに発酵の香りが——」
「リーゼちゃん! わたし、このパンと結婚したい!」
「パンとは結婚できないよ、マリアちゃん」
「じゃあリーゼちゃんと結婚する! 毎日このパン焼いて!」
「それもだめだよ!?」
クラス中が爆笑した。
* * *
最後に、クッキー。
バタークッキーに、シナモンとバニラで香りをつけたもの。型は学院の紋章型——星と月のデザインだ。
「わぁ、可愛い!」
「これ、売り物みたい!」
みんなが手に取って、ぱくり。
今度は——全員が黙った。
黙って、二枚目に手を伸ばした。
「……あのさ、リーゼ」
普段あまり喋らないエーリヒが、静かに言った。
「これ、食べると……なんか、元気出る。試験前に食べたい」
「わかる」とミーナが頷いた。「なんか、大丈夫って思える味。不思議」
——やっぱり、出てしまっている。
わたしがクッキーを焼いている時、「みんなが元気になりますように」と思った。その気持ちが、微かに、ほんの微かにエッセンスとして宿ったのだ。
科学的に説明するなら、バターの風味成分であるジアセチルと、シナモンのケイ皮アルデヒドと、バニラのバニリンの組み合わせが、脳内のセロトニン分泌を促進している——という解釈もできる。
でも、それだけではない何かが、確かにある。
わたしの「気持ち」が、味に乗っている。
嬉しい。でも、怖い。
大勢に食べさせる学院祭で、エッセンスが強く出たら——気づく人がいるかもしれない。
* * *
試食会が終わった後、わたしは厨房で一人考え込んでいた。
ネルが棚の上から降りてきた。
「どうだった」
「みんな喜んでくれた。でも——エッセンスが出てた。抑えたつもりだったのに」
「当然だ。お前は楽しんでいただろう」
「……うん」
「楽しい気持ち、嬉しい気持ち、喜んでほしいという気持ち。全部がエッセンスの源だ。感情を殺せば抑えられるが、そうすると料理の味も落ちる」
ジレンマだ。
美味しく作ろうとすれば、エッセンスが出る。エッセンスを抑えようとすれば、味が落ちる。
「……本番では、感情の強度を調整する。全力で楽しむんじゃなく、穏やかに楽しむ。そうすれば、エッセンスは『美味しいな』程度の微かなもので済むはず」
「できるのか、そんな器用なことが」
「やるしかないでしょ」
ネルは尻尾をゆらゆら揺らした。
「まぁ、少しくらい出ても問題ない。『なんか美味しかった』で済む程度なら、誰も魔法だとは思わん。問題は——」
「問題は?」
「勘の鋭い奴だ。エッセンスを知っている者、あるいは魔力に敏感な者。そういう奴の前では、どんなに微かなエッセンスでもバレる可能性がある」
勘の鋭い者。
カイゼル殿下は——もう知っている。ソフィアさまも。
問題は、それ以外の「目」だ。
学院祭には、帝都中から貴族が来る。宮廷魔術師が同行しているかもしれない。
「気をつける。本番では、本当に気をつける」
自分に言い聞かせるように、わたしは呟いた。
* * *
※
同時刻。皇族専用棟。
フィン・レーヴェンタールは、主人の部屋の前で固まっていた。
「殿下、もう一度おっしゃっていただけますか」
「学院祭に行く」
カイゼル・フォン・アステリアは、窓の外を見ながら端的に言った。
「学院祭。殿下が。自ら。行くと」
「耳が悪いのか」
「いえ、その——殿下は去年も一昨年も、学院祭には一度もお出になりませんでしたので」
カイゼルは黙った。
去年の学院祭、フィンは殿下を連れ出そうと二時間粘ったが、「興味ない」の一言で撃沈した。一昨年は粘る前に部屋の鍵を閉められた。
それが今年は——自分から行くと言っている。
「……どちらの出し物をご覧になるのですか」
「別に。全体を見回るだけだ」
嘘だ、とフィンは確信した。
殿下の耳に入っているはずだ。リーゼ・ヴァイスフェルトのクラスが食べ物の模擬店を出すという情報が。
厨房の人間関係は筒抜けだ。そしてカイゼル殿下は、あの少女の料理だけは食べる。
「かしこまりました。当日の護衛と動線を手配いたします」
「大袈裟にするな。目立つと面倒だ」
「承知しております」
フィンは一礼して部屋を出た。
廊下に出た瞬間、小さくガッツポーズをした。
殿下が、外に出る気になった。
あの引きこもり皇子が、自分から人混みに行くと言った。
全部——あの小さな料理人のおかげだ。
「リーゼちゃん、君はすごいよ……」
フィンは感動を噛み締めながら、護衛の手配に走った。
学院祭まで、あと一週間。




