【23】記憶のスープ
深夜の厨房。
全員が寝静まった後、わたしは一人で鍋と向き合っていた。
テーブルの上には三つの食材が並んでいる。
ゼーベル(涙の根の代用)。
アーベントクラウト(銀月草の代用として薬草園から見つけた、月光草という薬草)。
そして——フィンさんが持ってきてくれた、小瓶に入った竜の骨粉。
粉末状の竜骨は、銀色に微かに輝いている。指先に乗せると、じんわりと温かい。
命あるもの——かつて生きていた竜の残した力が、まだここに宿っている。
「ネル、見ていてくれる?」
窓辺に座っているネルが、無言で頷いた。
いつもの皮肉な態度ではなく、緊張した面持ちだった。
百年ぶりの——エッセンス料理の再現なのだから、当然か。
わたしは深呼吸をして、手帳に記されたレシピを読み返した。
『まず涙の根を、涙と共に刻め。涙こそが、記憶を呼ぶ鍵なり。次に銀月草を、最も静かな心で煮出せ。月の光のように穏やかに。最後に竜の骨粉を、感謝と共に加えよ。食材たちの命に、敬意を払え。』
……レシピというより、詩だ。
前世の科学者としては、こういう曖昧な記述は困る。「涙と共に刻め」って、具体的にどういう温度で何分刻むんだ。
でも——エッセンスは科学だけでは辿り着けないものなのかもしれない。
考えるな。感じろ。
食材と向き合え。
* * *
ゼーベルの皮を剥く。
硫化アリルの刺激で、目に涙が滲んだ。
前世の知識が頭を過ぎる。ゼーベルを切ると、細胞が壊れてアリイナーゼという酵素が働き、催涙成分のプロパンチアールSオキシドが生成される。これが目の粘膜を刺激して涙が出る。
知識として理解している。
でも今、わたしの目から流れる涙は——化学反応だけではない気がした。
お母さんのことを、思い出していた。
お母さんがゼーベルを刻む時、いつも涙を流しながら笑っていた。
「泣きながら料理すると、涙の塩分で味が変わるのよ」なんて冗談を言いながら。
……お母さん。
涙が、まな板の上のゼーベルに落ちた。
その瞬間——ゼーベルの断面が、淡い金色に輝いた。
「……!」
光っている。わたしの涙が触れた部分だけ、金色の光を帯びている。
これが——エッセンスか。
わたしの記憶が、想いが、食材に宿った。
震える手で、ゼーベルを丁寧に刻んだ。一切れ一切れ、お母さんのことを想いながら。
* * *
次に、アーベントクラウト——月光草の煮出し。
手帳は「最も静かな心で」と記している。
月光草は、前世の知識で分析するなら、バレリアン酸に似た鎮静成分を含む植物だ。低温でゆっくり煮出すことで、苦味成分を抽出せず、鎮静成分だけを引き出せるはずだ。
でも、それだけでは足りない。
静かな心。
わたしは目を閉じて、心を落ち着けた。
厨房の音。鍋の中で水がゆっくり温まる音。月光草の葉が揺れる微かな音。
全ての音に耳を傾けて、自分の呼吸を深く、静かにする。
——聞こえた。
何が聞こえたのか、言葉にするのは難しい。
でも、月光草が「声」を出している気がした。
「もうすこし、あたためて」と言っているような。
わたしは温度を僅かに上げた。
煮出した液体が、銀色に光り始めた。
月光のような、穏やかな光だ。
* * *
最後に、竜の骨粉。
「感謝と共に」。
わたしは小瓶を両手で包み、心の中で語りかけた。
この粉は、かつて生きていた竜の体の一部だ。
山を飛び、空を翔り、何百年も生きた偉大な生き物。
その命の残り火が、この粉の中に宿っている。
ありがとう。あなたの力を、借ります。
骨粉をひとつまみ、鍋に加えた。
瞬間——
鍋全体が、金色に輝いた。
眩しいほどではないけれど、暗い厨房を温かい光で満たすのに十分な、黄金の輝き。
三つの光——金色、銀色、そしてゼーベルの琥珀色——が混ざり合い、鍋の中のスープは透明な金色の液体になった。
立ち上る湯気は、甘くて懐かしい香りを運んでくる。
何の香りとも言えないのに、「知っている」と思わせる香り。
——完成した。
「ネル……」
振り返ると、ネルは窓辺で固まっていた。
翡翠色の目から、光の粒が零れ落ちている。
泣いている。
猫が、泣いている。
「……エルヴィンの匂いがする」
ネルの声は掠れていた。
「百年前の、あいつの厨房の匂いだ。……馬鹿野郎、なんで先に死にやがった……」
わたしは何も言えなかった。
ただ、スープを小さな器に注いで、ネルの前に置いた。
ネルは少しだけ、スープの表面を舐めた。
そして——ぐしゃりと顔を歪めて、わたしの膝に顔を埋めた。
「……美味い。あいつが作ったのと、同じくらい美味い」
百年間、この味を待っていた猫が、わたしの膝の上で泣いている。
わたしも泣いた。
なぜか分からないけれど、涙が止まらなかった。
スープの温かさが、二人の間に流れていた。
* * *
翌朝。
わたしは余ったスープを小瓶に詰めて、ポケットにしまった。
『記憶のスープ』——飲んだ者の最も幸福な記憶を呼び起こす。
試してみたい人がいた。
カイゼル殿下。
殿下のお母さんは、殿下が幼い頃に亡くなったと聞いた。
最期に「美味しいものを作ってあげたかった」と言っていたとも。
このスープを飲んだら——殿下は、お母さんとの幸福な記憶を思い出すだろうか。
……いや、やめよう。
殿下の心に勝手に踏み込むべきではない。
記憶は、その人のものだ。他人が勝手に呼び起こしていいものではない。
でも——いつか、殿下が自分から「飲みたい」と言ってくれたなら。
その時は、心を込めて、もう一度作ろう。
小瓶をそっとポケットにしまい直して、わたしは厨房に向かった。
今日の朝食は、殿下の好きな白粥と、焼き魚と、漬物の三品。
シンプルだけれど、一番心が落ち着くメニュー。
エッセンスを使わなくても、美味しい料理は作れる。
大切なのは——食べる人のことを、想うことだ。




