【21】ヴェルナー教授の秘密の書架
食中毒事件から一週間。
学院は平穏を取り戻していた。厨房は再開し、犯人は学院の出入り業者に紛れていた工作員だったと判明した。背後関係の調査は帝国騎士団に引き継がれ、学院内では終わった話として処理されている。
でも、わたしの中では終わっていない。
あの事件の最中、わたしは病気の学生のために粥を炊いた。
いつも通り、丁寧に、食材の本質を理解しながら。
その粥は——かなりはっきりと、金色に光った。
光ったのだ。鍋の中で。
今までは「気のせいかも」「見間違いかも」で済ませていたけれど、もう誤魔化しきれない。
わたしの料理には、何かが宿っている。
ネルはそれを「エッセンス」と呼ぶ。
食材の本質を理解する者だけが引き出せる、失われた魔法の力。
百年前に抹殺された、禁忌の力。
* * *
「リーゼさん、少しお時間よろしいですか」
放課後。
魔術理論の教室から出ようとしたわたしに、ヴェルナー教授が声をかけた。
白髪に丸眼鏡の老教授。穏やかな笑顔をいつも浮かべているけれど、魔術理論の知識は帝国随一と言われている。
「はい、何でしょうか」
「先日の授業で、面白い質問をしましたね。『魔力を介さず食材の本質に直接働きかける魔法は理論的に可能か』——あれは、自分で考えた問いですか?」
まずい。
ソフィアさまに「余計なことを言うな」と叱られたばかりなのに、また尻尾を出しかけている。
「えっと……古い本で読んだ気がして……」
「ほう。どの本ですか」
どの本。困った。適当なことを言ったら、嘘がバレる。
「……覚えてないです。すみません」
ヴェルナー教授は、丸眼鏡の奥で目を細めた。
その表情が——探るようなものではなく、どこか懐かしそうな色を帯びていることに、わたしは少し驚いた。
「リーゼさん。よかったら、私の研究室に来ませんか。見せたいものがあるのです」
普通なら警戒するところだ。
でも、ヴェルナー教授の目には、悪意がなかった。
わたしはこくりと頷いた。
* * *
ヴェルナー教授の研究室は、学院の東棟の最上階にあった。
扉を開けた瞬間、本の匂いがどっと押し寄せてきた。
壁一面の書架。床に積まれた資料。机の上にも本、本、本。
本好きの人が見たら失神しそうな光景だ。
「散らかっていて、すみません。妻にはいつも叱られるのですが、なかなか片付けられなくて」
教授はわたしを書架の奥に案内した。
そこに、他の書架とは明らかに趣の違う、古い木製の戸棚があった。
教授が懐から鍵を取り出して、戸棚を開ける。
中には——一冊の古い手帳と、色褪せた数枚の紙が入っていた。
「これは……?」
「百年前のものです」
教授が、手帳をそっと取り出した。
革の表紙は黒ずんで、ページの端は朽ちかけている。
「これは、私の曽祖父が遺したものです。曽祖父は——食の賢者エルヴィンの友人でした」
心臓が跳ねた。
「食の賢者……」
「ご存知ですか」
「……名前だけ」
嘘は言っていない。ネルから名前だけは聞いた。
教授はゆっくりと手帳を開いた。
「曽祖父は魔術理論の研究者でした。エルヴィンとは学生時代からの友人で、エルヴィンの『エッセンス理論』を最も早く理解した支持者の一人でした」
教授が手帳のページをめくる。
黄ばんだ紙に、細かい字でびっしりと書かれた文章。数式のようなものも混じっている。
「エッセンスとは、食材の——いや、あらゆる物質の根源的な性質に働きかけることで生じる現象です。通常の魔法が『魔力を燃料にして結果を得る』のに対し、エッセンスは『物質の本質を理解することで、物質自身に変化を促す』」
「物質自身に……変化を促す」
「はい。たとえば、水を氷にしたい場合。通常の魔法は、魔力を使って水の温度を下げます。しかしエッセンスは——水の分子構造を理解し、水自身に『凍りたい』と思わせる」
……それは。
「……触媒」
「え?」
「あ、いえ、なんでもないです」
触媒だ。化学反応において、自身は変化せず、反応を促進する物質——触媒。
エッセンスの使い手は、食材にとっての触媒なのだ。
自分の魔力を使うのではなく、食材自身の力を引き出す。
前世の化学の知識と、この世界の魔法理論が、ここで繋がった。
「教授、なぜこれをわたしに……」
ヴェルナー教授は、丸眼鏡を外して拭きながら、静かに言った。
「食中毒事件の時、あなたが作った粥を見ました。厨房の前を通りかかった時に、鍋の中身が金色に光っていた」
見られていた。
「あの光は、曽祖父の手記に描かれていたものと同じです。エルヴィンの料理が放っていたと記された、金色の光」
教授が、わたしの目を真っすぐに見つめた。
「リーゼさん。あなたは——食の賢者の後継者ですね」
沈黙が、部屋を満たした。
嘘をつくべきか。否定するべきか。
でも、教授の目には——脅しも、恐れも、敵意もなかった。
あったのは、百年分の後悔と、ほんの少しの希望だった。
「曽祖父は、エルヴィンを救えなかったことを、死ぬまで悔いていました。『エッセンスは人類の希望だった。あれを潰したのは、我々魔術師の最大の罪だ』と」
「……」
「私は曽祖父の遺志を継いで、エッセンスの研究を——公にはできませんが——密かに続けてきました。でも、理論だけでは限界がある。実践者がいなければ、研究は進まない」
教授が、手帳をわたしに差し出した。
「これを、読んでください。エルヴィンの理論の断片が記されています。あなたなら、理解できるはずだ」
わたしは、震える手で手帳を受け取った。
ずっしりと重い。百年分の知識の重さだ。
「教授。わたし……まだ、エッセンスのことを全然理解してません。自分の料理が光ることすら、最近知ったばかりで」
「それでいい。エルヴィンも最初はそうだった。彼も、最初はただの料理好きの青年だったのですから」
教授が微笑んだ。
「ただし——気をつけてください。エッセンスの存在を知る者は、味方だけではありません」
クラインヘルツ家。ソフィアさまの家。
百年前にエルヴィンを告発した家。
教授はその名を口にしなかったけれど、意味は伝わった。
「はい。気をつけます」
手帳を胸に抱えて、わたしは研究室を後にした。
* * *
寮に戻ると、ネルが窓辺にいた。
「おい、その手帳——」
わたしが手帳を見せた瞬間、ネルの翡翠色の目が大きく見開かれた。
「それは……フリードリヒの手記か」
「フリードリヒ?」
「エルヴィンの友人の名前だ。あいつがこれを遺していたのか……」
ネルの声が、珍しく震えていた。
「百年。百年、待った。この日を」
老猫が、わたしの膝に飛び乗った。
いつもの皮肉屋の顔ではなく、どこか泣きそうな顔で。
「リーゼ。読め。全部読め。そして——エルヴィンが成し遂げられなかったことを、お前が成し遂げろ」
「成し遂げるって……何を?」
「この世界に、もう一度、エッセンスの光を取り戻すことだ」
大きなことを言われた。
正直、荷が重い。
でも——手帳の表紙に触れると、かすかに温かかった。
百年前のエルヴィンの想いが、まだここに残っている気がした。
「……とりあえず、読んでみるよ」
「ああ」
「でもまず、殿下の夕食を作らないと」
「…………お前な」
「だって、おなか空いてるかもしれないでしょ」
百年の使命も大事だけれど、目の前のおなかを空かせた人も大事だ。
わたしは手帳をベッドの下に大切にしまって、厨房に向かった。
今夜の殿下の夕食は、鶏と根菜の煮込み。
ソフィアさまの分は、同じ食材で作るクリームシチュー。
百年の歴史を背負いながら、鍋を振る。
なんだか、ちょっと笑えてきた。
わたしの人生、前世も今世も、結局は鍋の前で始まるのだ。




