【2】帝都魔術学院へようこそ(地獄へようこそ)
帝都魔術学院。
正式名称、アステリア帝国立魔術高等学院。
――でかい。
それがわたしの第一印象だった。
いや、「でかい」では言葉が足りない。「異常にでかい」が正しい。
白亜の正門は見上げると首が痛くなるほど高く、左右に並ぶ石柱には魔術紋が刻まれ、淡い光を放っている。門の奥に広がる敷地には、尖塔を載せた校舎が三棟、巨大な講堂、温室らしきガラス張りの建物、そして何十人もの生徒が行き交う石畳の中庭が見えた。
辺境のヴァイスフェルト邸が丸ごと庭の片隅に収まりそうだ。
というか、十個くらい入る。
「……すごい」
思わず呟いたわたしの横を、制服を着た生徒たちが颯爽と通り過ぎていく。
みんな仕立ての良い制服を着て、高そうな杖を腰に差して、いかにも「魔術学院の生徒」という顔をしている。
対するわたしは、辺境から持ってきた旅装束で、背中には擦り切れた革鞄一つ。
場違い感がすごい。
前世で言えば、ジャージで六本木ヒルズに乗り込んだような気分だ。
でも、わたしの胸は高鳴っていた。
この学院には、帝国中から食材が集まるという。北の凍土で獲れる霜降り鹿、南の海で揚がる黄金鯛、東の山岳地帯でしか採れない香辛茸——辺境では名前しか知らなかった食材たちが、この学院の厨房にはあるのだ。
考えるだけで、よだれが出そうになる。
いけない。貴族の令嬢として最低限の品位は保たなくては。
わたしは口元を拭いながら、指定された受付棟に向かった。
* * *
「実務奨学生の方ですか」
受付棟で案内されたのは、校舎の最上階にある学院長室だった。
扉を開けた瞬間、重厚な家具の匂いと、古い紙の匂いが鼻をついた。
部屋の奥の机に座っていたのは、白髪を隙なく結い上げた老年の女性だった。
細い銀縁の眼鏡の奥から、鋭い目がわたしを見据えている。
その視線だけで、背筋が勝手に伸びた。
「リーゼ・ヴァイスフェルト。辺境伯家の末女。聖女選定にて魔力測定不能の判定を受け、実務奨学制度による特別編入」
学院長は書類に目を落としながら、わたしの経歴を淡々と読み上げた。
一つ一つの言葉がナイフのように鋭い。特に「魔力測定不能」の部分は、二回繰り返された気がした。
……気のせいだと思いたい。
「わたくしはヘルミーナ・クラウス。この学院の長を務めております」
ヘルミーナ学院長は眼鏡の位置を直し、わたしを見た。
その目に、温かみはない。冷たいわけでもないが、徹底的に事務的だった。
「実務奨学生の制度について説明します。あなたは学院の一般生徒と同等の授業を受ける権利を有しますが、その代わりに、毎日所定の業務に従事する義務があります。授業は午前のみ。午後は全て業務に充てていただきます」
午前が授業で、午後は厨房。
つまり、朝から晩まで休みなしということだ。
……まぁ、前世の食品会社の繁忙期に比べれば、まだマシかもしれない。あの時は三日間家に帰れなかった。
「業務の怠慢、成績の著しい低下、または規律違反があった場合は、即時退学となります。弁明の機会は一度きり。ご理解いただけましたか」
「はい」
「よろしい」
ヘルミーナ学院長は書類に印を押し、わたしに一枚の紙を差し出した。
「あなたの配属先は厨房です。寮の部屋番号は地下一号室。荷物をまとめたら寮監に挨拶をしなさい」
地下。
地下一号室。
……地下?
「あの、地下というのは」
「実務奨学生の寮室は地下階です。何か問題がありますか」
ヘルミーナ学院長の目が、一切の感情なくわたしを見つめている。
この目は「問題があると言ったらどうなるか分かっているな」という目だ。
前世の上司の目に似ている。品質管理部長の岩田さんの目だ。
「いいえ、何も問題ありません」
わたしは笑顔で答えた。
地下だろうが洞窟だろうが、厨房に近いならむしろ好都合だ。
……そう思うことにしよう。
* * *
地下一号室は、想像通りひどかった。
いや、「ひどい」というのは語弊がある。「潔い」と言った方が正確かもしれない。
潔いほどに、何もない。
部屋の広さは六畳もない。天井は低く、小さな窓が一つだけ。その窓は地面すれすれの高さにあるので、外が見えるのは地面と、通りすがりの人の靴だけだ。
木製のベッドが二つと、小さな机が一つ。衣装箪笥が一つ。
以上。
しかも、壁には微かにカビの痕があり、どこからか厨房の排水の匂いがする。
……うん。控えめに言って、最悪だ。
「やっほーーーっ!!」
背後から、とんでもない声量の挨拶が飛んできた。
振り返ると、扉の前に一人の少女が立っていた。
赤みがかった茶色の髪をお下げに結んだ、そばかす顔の元気そうな女の子。わたしより少し背が高い。年は同じくらいだろう。
「あなたがわたしのルームメイト? わたしミーナ! ミーナ・レーゲンブルク! 商家の出で実務奨学生! 清掃担当! よろしくね!」
一息で全部言い切った。
情報量が多い。そして声が大きい。
「あ、えっと……リーゼ・ヴァイスフェルトです。厨房担当で……」
「リーゼちゃんね! あだ名はリーゼ? それともリーちゃん? ゼちゃん?」
「リーゼ、で……」
「りょーかい! リーゼ! ねぇ、この部屋すごくない? すごいよね? 天井低いし窓小さいしカビ臭いし最高だよね!」
最高ではない。断じて最高ではない。
でも、ミーナは本当に楽しそうだった。彼女は荷物を勝手にベッドの上にぶちまけ、あっという間に自分の領域を構築していく。
「商家の末っ子だからさ、お金ないんだよね〜。でも魔法の勉強したくて! 将来は魔法の道具を売る店をやりたいの!」
なるほど。商家の娘だから、魔法を商売に活かしたいのか。
堅実で良い夢だ。
「リーゼは? なんで厨房なの?」
「料理が、好きだから」
「えー! すごい! わたし料理まったくダメ! 目玉焼き焦がすし、お湯沸かすと鍋ごと焦がすし」
お湯で鍋を焦がすのは、ある意味才能だと思う。
ミーナは嵐のような子だったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
むしろ、この薄暗い地下室が、彼女の声のおかげで少しだけ明るく感じた。
……この子とは、うまくやっていける気がする。
* * *
翌日の入学式兼オリエンテーションは、大講堂で行われた。
新入生は約百二十名。そのうち実務奨学生は、たったの五名だった。
わたしとミーナ、それから庭園管理担当の男子が二人と、清掃担当の女子が一人。
五人は講堂の一番後ろの席に固められた。
「では、新入生代表の挨拶です。ソフィア・エーデルシュタイン」
壇上に上がったのは、金色の巻き髪をなびかせた少女だった。
整った顔立ち。仕立ての良い制服。胸元には宝石のブローチが光っている。
その立ち居振る舞いだけで、上位貴族の出だと分かる。
ソフィアは壇上で完璧な挨拶を述べた。
声は涼やかで、言葉遣いは優雅で、微笑みは計算され尽くしている。
前世で見たミスコンの出場者を思い出した。あの笑顔の裏にどれだけの努力と打算があるか知っている分、素直に感心した。
問題は、挨拶の後だった。
オリエンテーションが終わり、新入生たちが講堂から出てくる。
わたしたち実務奨学生は、寮の場所を確認するために廊下を歩いていた。
「あら」
ソフィアが足を止めた。
その翡翠色の瞳が、わたしたちを見下ろしている。
正確には、わたしたちの制服に縫い付けられた「実務奨学生」の腕章を見ている。
「実務奨学生って、あの制度のことかしら。学費が払えない子が、お手伝いさんをする代わりに学校に置いてもらえるっていう……」
周りの生徒たちが、くすくすと笑った。
ソフィアの取り巻きらしき数人が、「そうらしいわ」「大変ね」と、同情するような顔で言う。同情に見せかけた嘲笑だ。こういう手口、前世でも見たことがある。
「厨房担当もいるのね。学生なのに厨房のお手伝いだなんて、大変ですこと。でも、それがお似合いかもしれないわね」
ミーナが「なっ……!」と声を上げかけたのを、わたしはそっと腕を掴んで止めた。
「ありがとうございます。厨房、すごく楽しみなんです」
わたしは笑顔で答えた。
嫌味でも皮肉でもなく、本心だ。
ソフィアは一瞬、虚を衝かれたような顔をした。
馬鹿にされて怒ると思っていたのだろう。あるいは、悔しそうな顔を見たかったのかもしれない。
残念だけど、わたしは本当に厨房が楽しみなのだ。
侮辱されたことに怒る余裕すらないほど、楽しみなのだ。
前世の食品会社で鍛えられたメンタルを舐めてもらっては困る。
パワハラ気味の品質管理部長に比べれば、十二歳のお嬢様の嫌味なんて、そよ風のようなものだった。
ソフィアは何か言いたそうな顔をしていたが、やがて「ふん」と鼻を鳴らして去っていった。
「リーゼ、悔しくないの!?」
ミーナが頬を膨らませて詰め寄ってくる。
「うーん……正直、あんまり」
「あんまりって何!? もっと怒ろうよ!」
「だって、厨房が楽しみで……」
「そこ!?」
ミーナは呆れた顔をしていたが、わたしは嘘をついていない。
ソフィアのことなんて、正直どうでもよかった。
だって、この後、厨房を見に行けるのだ。
* * *
そして、わたしは学院の厨房に足を踏み入れた。
——息が、止まった。
広い。
とにかく、広い。
天井が高く、窓から午後の光が差し込んでいる。巨大なかまどが五つ並び、壁には銅鍋や鉄鍋が所狭しと掛けられている。分厚い樫の調理台が三列。部屋の奥には食材庫の扉が見える。
そして——食材だ。
棚に並ぶ香辛料の瓶。見たこともない色合いの乾燥ハーブ。吊るされた燻製肉。籠に山盛りになった新鮮な野菜。木箱に詰められた果物からは、甘い香りが漂っている。
前世で「うまみ成分」の研究に没頭していたあの頃。理想の食材を求めて全国の産地を回った日々。
あの時のわたしに教えてやりたい。
異世界に来れば、もっとすごい食材があると。
「……すごい」
わたしは無意識に食材庫に近づいていた。
棚の上の瓶を一つ取って蓋を開ける。鮮烈な香りが鼻腔を貫いた。
これは——カルディア胡椒だ。南方の限られた地域でしか採れない、帝国で最も高価な香辛料の一つ。
辺境では一瓶あたり銀貨十枚はするそれが、ここでは普通に棚に並んでいる。
手が震えた。
興奮で。
「おい」
背後から、低くて太い声がした。
振り返ると、巨大な男が立っていた。
身長は二メートル近い。樽のような胴体に、丸太のような腕。頭は短く刈り込まれ、顎には無精髭。革のエプロンをつけた姿は、料理人というよりも山賊に近い。
「勝手に食材庫を漁るな」
男はわたしを見下ろした。
というか、見下ろすどころの角度ではない。直角に近い。わたしの身長は、この人の腰くらいしかない。
「あ、あの、すみません。わたし、今日から厨房で……」
「知っている。実務奨学生だろう」
男はわたしを頭のてっぺんからつま先まで眺め、それから深い溜息をついた。
「お前が、新しい厨房の手伝い?」
「はい。リーゼ・ヴァイスフェルトです」
「…………」
長い沈黙。
男の目がわたしの全身を測量するように動いた。身長、体格、腕の太さ——料理人としての戦力を値踏みしているのだろう。
その結論は、端的だった。
「お前、ジャガイモ半分の大きさしかないな」
ジャガイモの半分。
前世を含めた人生で、最も斬新な身体評価をいただいた。
「マルクスだ。この厨房の料理長をしている。明日の朝から来い。遅刻したら、その日の飯は抜きだ」
マルクスはそれだけ言って、くるりと背を向けた。
その背中は、壁のように広かった。
わたしは呆然と立ち尽くしながら、けれど口元が勝手に笑みを形作っていた。
ジャガイモの半分で結構。
この厨房で、わたしは自分の価値を証明してやる。
——まずは明日、寝坊しないことが目標だけど。




