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魔力ゼロで聖女試験に落ちましたが、私の作るごはんは魔法より効くみたいです ~味のわからない皇子殿下の専属料理人になりました~  作者: 河合ゆうじ


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【18】学院の食中毒事件(前編)

 その日の朝は、いつも通りに始まった。


 五時起床。顔を洗って、髪を結んで、厨房へ。

 朝食の仕込みを手伝いながら、殿下の朝食を別に準備する。今日のメニューは、鶏出汁の雑炊と、蒸し野菜の盛り合わせ、焼きたてのパン。


 いつも通りの朝。

 いつも通りの厨房。


 ——のはずだった。



 * * *



 異変が起きたのは、昼食の後だった。


「リーゼ! 大変!」


 ミーナが厨房に飛び込んできた。

 顔が真っ青だ。


「どうしたの、ミーナ」


「食堂で、生徒がバタバタ倒れてる! 十人以上!」


「——え?」


 厨房から食堂を覗くと、確かに大変なことになっていた。


 テーブルに突っ伏す生徒。床にうずくまる生徒。顔を真っ青にして口元を押さえる生徒。

 教員たちが慌てて駆けつけ、医務室への搬送が始まっている。


「腹が痛い……」

「気持ち悪い……吐きそう……」

「何、何が起きてるの……」


 食堂は阿鼻叫喚だった。


 マルクスさんの顔色も、見たことがないほど険しい。


「リーゼ、ここにいろ。厨房から出るな」


「マルクスさん、これは——」


「食中毒だ。間違いない」


 食中毒。


 その二文字が、わたしの前世の知識を一気に呼び覚ました。


 昼食のメニューを思い返す。根菜のシチュー、パン、サラダ、そして——メインは、昨日入荷した豚の角煮風の煮込みだった。


「マルクスさん、昼食を食べた生徒全員が倒れてますか?」


「いや、全員じゃない。倒れているのは、肉の煮込みを食べた者だけのようだ。パンとサラダだけの者は無事だ」


 肉。

 やっぱり肉だ。


「その肉は、いつ入荷したものですか」


「昨日の朝だ。冷蔵庫——冷却魔法の保管庫に入れてある」


 わたしの頭の中で、食品衛生のアラームが全力で鳴り始めた。


「保管庫を確認させてください」


「おい、今は——」


「お願いします。原因を特定しないと、被害が広がるかもしれません」


 マルクスさんが一瞬ためらって、頷いた。


「行け。だが、気をつけろ」



 * * *



 学院の食材保管庫は、厨房の奥にある大きな石室だ。


 この世界には冷蔵庫がない代わりに、冷却魔法の術式が刻まれた石板が保管庫の壁に嵌め込まれている。常時氷属性の魔力が循環して、室温を低く保つ仕組みだ。


 わたしは保管庫の扉を開けた。


 冷気が——来ない。


「……ぬるい」


 保管庫の中は、本来なら息が白くなるほど冷えているはずだ。

 でも今、わたしが感じるのは、せいぜい秋の夜くらいの温度。


 壁の術式石板に手を触れた。魔力がないわたしには魔法の状態は分からないけれど、表面が結露していない。本来なら石板が冷えて水滴がつくはずなのに。


 棚に並んだ食材を確認する。


 野菜——問題なさそうだ。

 乳製品——ミルヒの表面に薄い膜ができている。温度が上がった証拠。

 そして肉——


 布に包まれた豚肉の塊を持ち上げた。


 鼻を近づけて、匂いを嗅ぐ。


 ……微かに、酸っぱい臭い。

 これは、タンパク質の腐敗初期に出る臭いだ。目に見える変色はまだないけれど、細菌は確実に増殖している。


 前世の知識が頭の中を駆け巡る。


 食中毒の原因菌——おそらく、この世界にもサルモネラ属やウェルシュ菌に相当する細菌がいるはず。

 豚肉が適切な温度で保管されなければ、十二時間もあれば危険な水準まで菌が増える。


 保管庫が冷えていない。

 つまり、肉が常温に近い環境に長時間放置されたということだ。


 問題は——なぜ保管庫が冷えていないのか。


 わたしは壁の術式石板をもう一度じっくり観察した。


 魔力を感知できないわたしには、術式の状態は見えない。

 でも——物理的な痕跡なら見える。


 石板の表面に、かすかな傷があった。


 前からあった古い傷ではない。新しい、直線的な傷。まるで、硬いもので意図的に引っ掻いたような——


「リーゼ? 何を見ている」


 振り返ると、マルクスさんが入り口に立っていた。


「マルクスさん。この保管庫、冷却魔法が止まっています」


「何だと?」


「肉の温度が上がっています。腐敗の初期段階に入っていて、昼食に使った分はもう危険な状態だったはずです」


 マルクスさんが保管庫に入ってきて、壁の石板に手を当てた。マルクスさんは魔力を持つ人間だから、術式の状態が分かる。


「……本当だ。冷却術式が停止している。いつからだ」


「少なくとも、肉の状態から見て十二時間以上前。つまり、昨夜のうちに止まったと思われます」


「馬鹿な。この術式は三重の安全機構が組まれている。自然に故障するはずがない」


「自然に故障したんじゃないと思います」


 わたしは壁の傷をマルクスさんに示した。


「この傷。術式石板の上に、新しい傷がつけられています。わたしは魔法は分かりませんけど……もしこの傷が術式の回路を断線させるものだとしたら?」


 マルクスさんが石板に顔を近づけた。

 その目が、見開かれた。


「……これは。術式刻印の導力線が、意図的に切断されている」


「つまり」


「誰かが——故意に冷却魔法を壊した」


 厨房の空気が、ぴりっと張り詰めた。


 食中毒は、事故ではない。

 誰かが、意図的に食材保管庫の冷却を止めた。


 何十人もの生徒が腹痛で苦しんでいるのは——人為的な工作の結果だ。



 * * *



 食堂は午後から閉鎖された。


 倒れた生徒の数は、最終的に三十二名に上った。

 全員が昼食の豚肉煮込みを食べた者で、症状は腹痛、嘔吐、発熱。命に別状はないが、しばらく寝込むことになるだろう。


 学院は騒然としていた。


「食堂閉鎖って、ご飯どうするの……」

「厨房の連中がやらかしたんだろ」

「食中毒なんて、管理がなってない証拠じゃない」


 生徒たちの非難の矛先は、厨房に向いていた。

 当然だ。食中毒が出たのだから、厨房の責任を問う声が上がるのは自然なことだ。


 でも、これは厨房のせいじゃない。

 誰かが、わざとやったんだ。


 マルクスさんは学院の運営事務室に呼び出され、厨房のスタッフは全員、事情聴取を受けることになった。

 わたしも例外ではない。


 ただ——わたしには、もう一つ気になることがあった。


「ネル」


 夕方、人気のない中庭で、わたしは窓辺の灰色猫に声をかけた。


「何だ」


「保管庫の術式を壊せる人間って、限られてない?」


「当然だ。あの手の冷却術式は、中級以上の魔術知識がなければ解析できない。さらに、導力線を正確に切断するには、術式構造を理解している者でなければ不可能だ」


「つまり、犯人は魔術に詳しい人間」


「加えて、保管庫に入れる人間は限られる。厨房関係者か、あるいは——鍵を持つ者だ」


 わたしは唇を噛んだ。


 誰かが、学院の食事を台無しにしようとした。

 三十二人もの生徒を犠牲にして。


 前世なら、これは重大な食品テロだ。

 動機は何だ。誰が得をする。


 考え込むわたしの肩に、ネルが前足を乗せた。


「深入りするなよ、リーゼ」


「でも——」


「お前は厨房の小娘だ。事件の捜査は学院の仕事だ。お前がしゃしゃり出れば、余計な注目を集める」


 ネルの言うことは正しい。

 でも、厨房の仲間たちが濡れ衣を着せられるのを、黙って見ていられるだろうか。


 マルクスさんは何も悪くない。ハンスさんも、他のスタッフも。

 みんな、毎日真面目に料理を作っていただけだ。


「……ネル。わたし、黙ってられない」


「知ってる。だから言ったんだ。お前は砂糖より甘い」


 ネルは溜息混じりに尻尾を振った。


「やるなら、せめて慎重にやれ。お前一人で動くな。あの皇子の小僧か、クラインヘルツの娘を使え」


「使えって言い方……」


「頼れ。味方を頼れ。お前の最大の弱点は、一人で何でもやろうとすることだ」


 ネルの翡翠色の目が、真剣にわたしを見つめていた。


 頼る、か。


 わたしは頷いた。


「分かった。マルクスさんに、ちゃんと報告する。保管庫の傷のことも、冷却魔法が故意に壊されたことも」


「それでいい。あとは大人の仕事だ」


 大人の仕事。


 前世では三十四歳だったわたしも、今は十二歳の子供だ。

 子供にできることには限りがある。


 でも——子供だからこそ気づけたこともある。

 前世の食品安全の知識がなければ、あの肉の微かな腐敗臭に気づくことはできなかっただろう。


 わたしは立ち上がって、事務棟に向かった。

 マルクスさんに、全てを報告するために。


 背中で、ネルが小さく呟いた声が聞こえた。


「……百年前と同じだ。厨房を狙うのは、いつだって——」


 その先は、風に消えた。

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