【17】魔術理論の授業で、やらかしました
魔術理論概論。
帝都魔術学院の全学生が受講する必修科目であり、わたしにとっては最大の鬼門である。
理由は単純で、魔力がゼロの人間に魔術理論を教えるというのは、泳げない人間に流体力学を教えるようなものだからだ。
理屈は分かる。でも、実感がない。
いや、正確には——つい最近まで実感がなかった。
今は違う。
自分の料理にエッセンスが宿ることを知ってしまった今、魔術理論の授業はまるで違う意味を持ち始めていた。
そして今日の授業は——最悪のテーマだった。
* * *
「本日は、魔術の根本原理について復習しよう」
教壇に立つのは、ヴェルナー教授。
白髪に丸眼鏡、腰が少し曲がった老紳士だ。学院でもっとも古株の教授で、魔術理論の権威。見た目は穏やかなおじいちゃんだけれど、授業は厳密で容赦がないことで有名だった。
「魔術とは何か。それは、術者の魔力を触媒として、世界の法則に干渉する技術である。ここで重要なのは『触媒』という概念だ」
ヴェルナー教授が黒板に図を描く。
人間 → 魔力(触媒)→ 世界法則への干渉 → 魔術現象
「魔力は、人間が持つ固有のエネルギーだ。魔力なくして魔術なし。これは帝国魔術学における大前提であり、覆されたことのない絶対法則だ」
魔力なくして魔術なし。
わたしは背筋を伸ばして、ノートにペンを走らせた。
隣の席ではミーナが早くも船を漕いでいる。
「では——魔力を持たない者が、魔術現象を起こすことは可能か?」
教授が唐突に問いかけた。
教室がざわつく。
「もちろん、不可能だ。触媒なきところに反応なし。これは錬金術の基本法則と同じである」
不可能。
その一言が、胸に突き刺さった。
「歴史的に、魔力なしでも魔法が使えると主張した者は何人かいた。しかし、それらはすべて——例外なく——詐欺か、誤認か、あるいは測定ミスであった」
すべて。例外なく。
「百年ほど前にも、そのような主張をした者がいたが、帝国魔術院の調査により虚偽と断定されている。名前を挙げるまでもない、歴史の脚注に過ぎん」
——歴史の脚注。
食の賢者エルヴィンのことだ。
わたしの料理に宿る力と、同じ系統の力を持っていた人。
ネルの、かつての主人。
教授は淡々と講義を続けた。
「魔力は生まれ持った資質であり、後天的に獲得することは不可能だ。したがって、魔力測定で数値が出ない者が魔術現象を起こすことは、理論的にあり得ない。もしそのような現象が観測されたとしたら、それは——」
わたしの口が、勝手に動いた。
「——それは、魔力とは別の触媒が存在する可能性は、ないんですか?」
教室が静まり返った。
ヴェルナー教授の丸眼鏡の奥の目が、すっとわたしを見た。
「……ほう。今の発言は?」
「あ、いえ、その……」
しまった。
思わず声に出してしまった。
前世の科学者としての癖だ。「絶対にあり得ない」と断言されると、つい反証を探してしまう。
科学において「絶対」はない——それが前世の信条だったのに、この場でそれを出してどうする。
「名前は」
「リーゼ・ヴァイスフェルトです。実務奨学生の……」
「ヴァイスフェルト。……辺境伯領の出か。つまり、魔力測定不能の生徒だな」
教授の声に棘はない。けれど、教室中の視線がわたしに集まった。
ひそひそと囁く声が聞こえる。
「魔力ゼロの子が何言ってんの」
「身の程知らず……」
「まぁ、厨房の子だし」
顔が熱くなる。
やってしまった。完全にやってしまった。
「ヴァイスフェルト。その質問の意図を聞こうか。魔力以外の触媒とは、具体的に何を想定している?」
教授の目は笑っていない。純粋に学術的な興味で——しかし、非常に鋭く、わたしを見ている。
答えに窮していると——
「教授」
涼やかな声が割り込んだ。ソフィアだった。
「彼女は先日、わたくしが貸した古い文献を読んで、そこに書かれていた仮説に興味を持ったのだと思います。クレメンツ著『魔術辺境論』の第七章に、触媒多元性仮説という学説が紹介されています。現在は否定されていますが、学術的好奇心として質問しただけでしょう」
完璧なフォローだった。
実在するかどうかも分からない文献名を、さも当然のように引用する侯爵令嬢の度胸がすごい。
ヴェルナー教授の眉がぴくりと動いた。
「クレメンツの触媒多元性仮説か。たしかに、五十年ほど前に一部の学者が唱えた説だな。現在では棄却されているが……まぁ、古典に触れることは悪いことではない」
教授は丸眼鏡を押し上げて、わたしから視線を外した。
「とはいえ、ヴァイスフェルト。授業中の発言は、もう少し考えてからにしたまえ」
「は、はい。すみませんでした」
わたしは深く頭を下げた。
心臓がまだバクバクしている。
隣でミーナが、いつの間にか起きてわたしを心配そうに見ていた。
「リーゼ、大丈夫……?」
「う、うん。ちょっと口が滑っただけ……」
授業が再開された。
わたしはそれ以降、一言も発さず、ただノートを取ることに集中した。
* * *
授業後。
教室を出たわたしの腕を、ソフィアが素早く掴んだ。
にこやかな笑顔のまま、中庭の人目のない場所まで引っ張っていく。
角を曲がった瞬間、笑顔が消えた。
「あなた、馬鹿なの?」
低い声。怖い。侯爵令嬢、怒ると怖い。
「ご、ごめんなさい……」
「『魔力以外の触媒』なんて、まさにあなたのエッセンスのことじゃない。あの場でそれを言ったら、ヴェルナー教授に目をつけられるわ」
「つい……前世の癖で……」
「前世?」
しまった。もう一個口が滑った。
「あ、いや、何でもない。とにかく、ごめん。気をつける」
「気をつけて。あなたが目立つと、わたくしたちの研究にも支障が出るの」
ソフィアの言葉は厳しかったけれど、その目にはちゃんと心配の色があった。
叱ってくれる人がいるというのは、ありがたいことだ。
「今後、授業中に疑問が浮かんだら、わたくしに紙で渡して。わたくしが適切な形で質問するから」
「ソフィア……」
「何」
「ありがとう。助かった」
「当然よ。共犯者が捕まったら、わたくしも困るもの」
ツンとした口調で言って、ソフィアは髪をかき上げた。
その仕草がちょっと可愛いと思ったけれど、言ったら怒られそうなので黙っておいた。
* * *
その夜。
ヴェルナー教授の研究室は、学院の最上階にあった。
窓から見える帝都の夜景には目もくれず、老教授は机に向かっていた。
丸眼鏡の奥の灰色の瞳が、引き出しから取り出した古い書簡を見つめている。
黄ばんだ紙。褪せたインク。四十年以上前の日付。
『ヴェルナーよ。お前にだけは伝えておく。わしの研究は、魔術理論の根底を覆すものだ。魔力は唯一の触媒ではない。食材の本質を引き出す時、そこに宿る力——わしはそれを「エッセンス」と名付けた』
差出人の名は、エルヴィン。
百年の時を経て「歴史の脚注」と呼ばれるようになった男。
かつての——友の名だ。
ヴェルナーは若い頃、帝国魔術院でエルヴィンと同期だった。
エルヴィンが異端として告発された時、ヴェルナーは何もできなかった。若輩の一研究者に、帝国の権威に逆らう力はなかった。
あれから六十年。
ヴェルナーは帝都最高の魔術理論家になったが、エルヴィンの研究を公の場で語ることは一度もなかった。
今日——あの少女が発した問い。
「魔力とは別の触媒が存在する可能性は、ないんですか」
教壇で一笑に付した。
学者として、そうするしかなかった。
だが。
ヴェルナーは書簡を机に置き、丸眼鏡を外して目頭を押さえた。
あの少女の目。
あの問いを発した時の、まっすぐな目。
仮説を信じている者の目だった。知っている者の目だった。
「リーゼ・ヴァイスフェルト……辺境伯領出身。魔力測定不能。実務奨学生——厨房配属」
呟きながら、ヴェルナーは別の引き出しを開けた。
そこには、もう一通の書簡がある。エルヴィンが告発される直前に送ってきた、最後の手紙。
『いつか、わしの後に続く者が現れるだろう。その時は——どうか、見守ってやってくれ。お前にしか頼めない』
六十年間、果たせなかった約束。
ヴェルナーは手紙をそっと引き出しに戻し、窓の外を見た。
「……まさかな。六十年も経って、今さら」
否定の言葉を口にしながら、ヴェルナーの手は無意識に、もう一つのものに触れていた。
机の隅に置かれた、古い料理本。
表紙はすり切れ、頁は黄ばんでいるが、中には——エルヴィンが記した、エッセンス調理の覚書が挟まれている。
ヴェルナーは、しばらくそれを見つめていた。
「エルヴィン。お前の言った通りだったのかもしれんな」
老教授は丸眼鏡をかけ直し、灯りを消した。
暗くなった研究室の中で、古い書簡の上に——ほんの一瞬、金色の粒子が舞った気がした。
しかし、それはあまりにも微かで、ヴェルナーが振り返った時には、もう何も見えなかった。




