【16】秘密
――あなたの料理、普通じゃないでしょう?
ソフィアさまの声が、夕暮れの厨房裏に静かに響いた。
わたしの心臓は、もう何周目かの全力疾走をしていた。
落ち着け。落ち着くんだ、リーゼ・ヴァイスフェルト。
ここで動揺したら負けだ。前世で学会発表の質疑応答を乗り切った根性を見せろ。
「あ、あはは……普通じゃないって、何のことでしょう? わたし、ただ丁寧に作ってるだけで」
「嘘ね」
一刀両断だった。
ソフィアさまの琥珀色の瞳が、真っ直ぐにわたしを射抜いている。
完璧な侯爵令嬢の微笑みは消えて、そこにあるのは——研究者の目だった。
仮説を検証する時の、冷静で、鋭くて、容赦のない目。
「わたくし、先週からずっと調べていたの」
ソフィアさまが、ポケットから小さな結晶を取り出した。
透明な六角柱で、長さは小指の先ほど。内部にかすかな光が脈打っている。
「これは?」
「魔術残留検知結晶。ある物体に魔術的な影響が残っているかどうかを調べる道具よ。魔術鑑定学の授業で使うものだけれど、わたくしは自前のものを持っているの」
ソフィアさまが結晶をわたしの方に向けた。
「あなた自身には、反応しない。魔力測定不能の実務奨学生——それは本当ね」
それはそうだ。わたしの魔力はゼロなのだから。
「でも」
ソフィアさまが、懐からもう一つ何かを取り出した。
小さな布に包まれたそれは——昨日わたしが焼いたクッキーの欠片だった。
結晶をクッキーに近づけた瞬間、透明だった結晶が——淡い金色に輝いた。
「……え」
「見て。この反応。既知の魔術属性のどれとも一致しないの。火でも、水でも、風でも、光でもない。魔術理論で分類できない、未知の残留反応」
ソフィアさまの声が、わずかに震えていた。
怒りではない。興奮だ。
「魔力ゼロの少女が作った食べ物に、未知の魔術反応が宿っている。これが『普通』だと思う?」
わたしは黙った。
言い逃れはできない。
証拠を突きつけられている。物理的な、再現可能な証拠を。
逃げるか?
でも、どこに?
ネルの言葉が頭をよぎる。
クラインヘルツ家は、百年前に食の賢者を告発した家系——
ソフィアさまが口を開いた。
「安心して。報告するつもりはないわ」
「……え?」
「ただし、条件がある」
条件。
来た。やっぱり来た。
交渉だ。侯爵令嬢との、絶対に不利な交渉。
わたしは唾を飲み込んで、ソフィアさまの次の言葉を待った。
「わたくしに教えなさい。あなたがやっていることを」
「……教える?」
「あなたの料理に何が起きているのか。あの反応は何なのか。理論的に、体系的に。わたくしはそれを知りたい」
予想外の条件だった。
脅されるのかと思っていた。口止め料を取られるのかと思っていた。
でも、ソフィアさまが求めたのは——知識だった。
「……どうして?」
気づいたら、訊いていた。
「どうして、報告しないんですか。クラインヘルツ家は——」
言いかけて、口をつぐんだ。
百年前のことを知っていると悟られるのはまずい。
でも、ソフィアさまは察したようだった。
「わたくしの家が、百年前に食の賢者を告発したことは知っているのね」
隠しても無駄か。わたしは小さく頷いた。
ソフィアさまの表情が、ほんの一瞬だけ翳った。
完璧な仮面の下に、何か複雑な感情が走ったのが見えた。
「……わたくしの家には、あの時代の記録が残っているわ。食の賢者エルヴィンに関する公式記録。帝国に仇なす危険な異端者を、クラインヘルツ家が正義のもとに告発した——という内容のもの」
「……」
「でもね、リーゼ。わたくしはその記録を何度も読んだの。何度も、何度も」
ソフィアさまが窓の外に目を向けた。夕日が沈みかけた中庭が、橙色に染まっている。
「記録には矛盾が多すぎる。都合の悪い部分が消されている。まるで——真実を隠すために書かれた記録のよう」
その言葉に、わたしの心臓が跳ねた。
「食の賢者は本当に危険人物だったのか。エッセンスという力は、本当に禁じるべきものだったのか。わたくしは、ずっと疑問に思っていた」
ソフィアさまがわたしに向き直った。
「そして今、目の前に答えがある。あなたの料理に宿る、あの金色の力。あれが何なのか分かれば、百年前の真実に辿り着けるかもしれない」
完璧な侯爵令嬢の目に、静かな炎が灯っている。
それは、学術的好奇心と——もうひとつ、もっと切実な何かが混ざった炎だった。
「わたくしは、自分の家の歴史を知りたいの。たとえそれが、美しくないものであっても」
ソフィアさまの声は揺るがなかった。
わたしは、しばらく黙って考えた。
リスクはある。ソフィアさまに全てを話すのは危険かもしれない。
でも——味方がいないのは、もっと危険だ。
わたし一人で抱え込んでいても、いずれ限界が来る。
ネルは色々教えてくれるけれど、猫だ。学院の中で動くには限界がある。
そして何より——ソフィアさまの目は、本物だった。
嘘をついている目ではない。
「……全部は、まだお話しできません」
「構わないわ」
「わたし自身、分からないことだらけなんです。自分の料理に何が起きているのか、正直、まだ全然理解できていなくて」
「だからこそ、よ。二人で調べましょう。わたくしは魔術理論に関しては、この学院で誰よりも詳しい自信がある。あなたは実践面を担当して、わたくしは理論面を担当する。きっと一人では見えないものが見えるようになるわ」
それは——前世の共同研究そのものだ。
実験担当と理論担当。
食品科学者にとって、最も馴染み深い研究の形。
「……分かりました。一緒に調べましょう、ソフィアさま」
「よろしい」
ソフィアさまが、すっと手を差し出した。
侯爵令嬢の白い指。爪の先まで手入れが行き届いている。
わたしは、切り傷だらけの自分の手をちらりと見下ろした。
包丁ダコと火傷の跡がある、料理人の手。
ソフィアさまの手とは、あまりにも違う。
でも——
わたしはその手を握った。
「よろしくお願いします、ソフィアさま」
「ソフィアでいいわ。共犯者に敬称は不要よ」
共犯者。
侯爵令嬢と厨房小娘の、秘密の共犯関係。
何だか、ちょっとワクワクする。
* * *
翌日の放課後。
記念すべき第一回「秘密研究会」は、ソフィアさまの——いや、ソフィアの個室で開催された。
特待生であるソフィアには個室が与えられている。広さはわたしとミーナの相部屋の三倍はある。天蓋付きベッド、立派な書棚、大きな窓。
侯爵令嬢の部屋は格が違った。
「さて、まずは実験データの収集からね」
ソフィアが机の上に羊皮紙を広げた。几帳面な文字で、項目がずらりと並んでいる。
「検証項目一覧」
一、対象食品の種類と調理法
二、魔術残留の強度と持続時間
三、摂取者への効果の種類と程度
四、調理者の精神状態との相関
五、使用食材の産地・品質との相関
……本格的だ。さすが全教科首席。
「リーゼ、まずはあなたの料理を複数作ってもらえるかしら。条件を変えて」
「うん、それはいいけど……ここで作れるかな」
「個室に魔法式の小型加熱炉があるわ。湯を沸かす程度のものだけれど」
「それなら、簡単なお菓子くらいは作れるかも」
わたしは持参した食材を取り出した。
小麦粉、砂糖、ミルヒ脂、卵、バニラに似たヴァニーユの鞘。
ソフィアの部屋の小さな加熱炉で、シンプルなクッキーを焼く。
三種類。普通に作ったもの、食材の特性を最大限に引き出すように作ったもの、そしてわざと雑に作ったもの。
ソフィアが一つ一つに検知結晶を当てていく。
「普通のもの——反応なし。雑に作ったもの——反応なし。丁寧に作ったもの……」
結晶が、金色に輝いた。
「やはり。食材の性質を理解して最適な処理をした時だけ、反応が出る」
「ということは、わたしの気持ちとか精神状態じゃなくて、調理の精度が関係している?」
「そうね。少なくとも、精神論ではない。再現性がある。科学的だわ」
ソフィアが興奮した声で言った——のだけれど、その目は結晶ではなく、クッキーに釘付けになっていた。
「……ソフィア?」
「なに」
「クッキー、食べていいよ」
「べ、別にそんなこと——」
侯爵令嬢の腹の虫が、盛大に鳴った。
三秒の沈黙。
「……いただきます」
ソフィアは一枚目のクッキーを口に入れた。
咀嚼。
目を見開く。
「何よこれ。外はさっくり、中はほろっと崩れて、ヴァニーユの香りが——おかわり」
「一枚目の感想もまだ終わってないんだけど」
二枚目。三枚目。四枚目。
記録を取る手が完全に止まっている。
「ソフィア、それ実験用……」
「実験データの摂取テストよ。被験者はわたくし」
都合のいい被験者だった。
結局、用意した実験用クッキーの半分以上をソフィアが食べ尽くし、第一回秘密研究会は「データ不足のため次回に継続」という結論になった。
「次回はもっとたくさん作ってきて」
「それはデータが必要なの? ソフィアのお腹が必要なの?」
「両方よ」
悪びれもしない侯爵令嬢だった。
部屋を出る時、ソフィアが小さな声で言った。
「リーゼ」
「ん?」
「……ありがとう」
振り返ると、ソフィアは窓の外を見ていた。
夕焼けに照らされた横顔が、少しだけ柔らかくなっている。
「学院に来てから、こんなふうに誰かと過ごしたの、初めてなの。完璧でいなくていい時間が、こんなに楽でいいなんて知らなかった」
わたしは、ちょっと泣きそうになった。
「わたしこそ。秘密を一人で抱えるの、けっこうキツかったから」
「じゃあ、これからは二人で抱えましょう。半分こよ」
半分こ。
秘密の半分こ。
完璧な侯爵令嬢と、魔力ゼロの厨房小娘の。
わたしは笑って頷いた。
「うん。半分こ」
部屋に戻ると、窓辺でネルが待っていた。
「遅かったな。どこに行っていた」
「ソフィアの部屋。秘密の研究会をしてた」
「……あのクラインヘルツの娘にバレたのか」
「バレたっていうか、自分で調べてた。検知結晶まで使って」
ネルが片目を細めた。
「で、どうする気だ」
「一緒に調べることにしたよ。ソフィアは理論担当、わたしは実験担当」
「お前は——」
ネルが何かを言いかけて、やめた。
長い溜息をついて、窓辺で丸くなる。
「……まぁ、いい。あの令嬢は頭が切れる。使えるだろう」
「使えるって……味方だよ」
「同じことだ」
ネルはそれきり黙って、尻尾で顔を隠した。
でも、その尻尾の先がほんの少しだけ揺れていたのを、わたしは見逃さなかった。
手帖を開いて、今日の実験記録をまとめる。
食材の性質を正しく理解し、最適な調理法を選んだ時——エッセンスが宿る。
再現性あり。条件次第で強度が変わる。
百年前の食の賢者も、同じことをしていたのだろうか。
ペンを走らせながら、わたしは思った。
一人より二人。
秘密は重いけれど、分け合えば、少しだけ軽くなる。
明日の研究会のために、クッキーを多めに焼こう。
実験用と、ソフィアのお腹用と。
——どう考えてもお腹用の方が多くなりそうだけれど。




