【13】ネルの昔話(百年前の食卓)
その夜は、雨が降っていた。
寮の窓を叩く雨音が、規則正しくリズムを刻んでいる。
ミーナはとっくに寝ていて、今夜の寝言は「プリン三段重ね……」だった。どんな夢を見ているのか、ちょっと気になる。
窓をそっと開けると、びしょ濡れの灰色猫が縁に座っていた。
「ネル! 雨なのに来たの?」
「猫は雨が嫌いだという偏見をやめろ」
言いながら、部屋に入った途端にブルブルと体を震わせて水を飛ばした。わたしのパジャマに盛大にかかった。偏見ではなく事実では。
タオルでネルを拭きながら、今日の残りの焼き菓子を差し出す。
ネルはもぐもぐと食べながら、いつもより長い間黙っていた。
「どうしたの? 今日、いつもと違う」
「…………」
ネルが菓子を食べ終えて、前足を丁寧に舐めた。
それから、翡翠色の目をまっすぐにわたしに向けた。
「リーゼ。そろそろ話す時だと思っている」
「何を?」
「百年前のことを。わしの主——食の賢者、エルヴィンの話を」
胸が、きゅっと締まった。
ネルは今まで、エルヴィンの話を断片的にしか語らなかった。
食の賢者がいたこと。エッセンスを使ったこと。殺されたこと。それだけ。
でも今夜、ネルの目には、覚悟があった。
「……聞かせて」
わたしはベッドに腰を下ろし、膝の上にネルを乗せた。
ネルは珍しく抵抗せず、丸くなった。
* * *
「エルヴィン・ラウは、どこにでもいる平民の料理人だった」
ネルの声は、いつもの皮肉っぽさが消えて、静かだった。
「帝都の場末の食堂で、働いていた。客はみな貧乏人で、食材はいつも二級品。魔法の才能もなく、学院に入る金もなかった。ただ——」
「ただ?」
「あいつは、食材を見る目が異常だった」
ネルが目を細めた。遠い記憶を見つめるように。
「林檎を一つ手に取るだけで、甘さが分かった。魚を触るだけで、鮮度が分かった。土の匂いを嗅ぐだけで、そこで育った野菜の味が分かった。あいつの言葉を借りれば——『食材が話しかけてくる』のだそうだ」
食材が話しかけてくる。
前世のわたしなら、「それは長年の経験による無意識の分析力ですね」と言っただろう。
でも今は、少し違う感覚で理解できる。
「エルヴィンは、その直感を体系化しようとした。なぜこの温度で焼くと美味いのか。なぜこの組み合わせが合うのか。食材の中で何が起きているのか——あいつは、魔法ではなく、観察と実験で、それを解き明かそうとした」
「……前世のわたしと、同じだ」
「似ている。だからこそ、お前に話すのだ」
ネルが体を起こした。
「ある日、エルヴィンが作ったスープが光った。金色に」
心臓が、どくんと鳴る。
「食材の本質を完全に理解した上で、最適な調理を施した時——食材の中に眠っていた力が、目覚める。エルヴィンはそれを『エッセンス』と名付けた。食材の本質が形になったもの、という意味でな」
「エッセンスは、魔力とは違うの?」
「全く違う。魔力は、術者の体内にある力だ。外に放出して、世界に干渉する。だがエッセンスは、食材そのものに宿る力だ。術者の力ではなく、世界の力。土から芽吹き、雨を受け、太陽を浴びて育った、食材が蓄えた生命の力」
わたしは息を呑んだ。
前世の言葉で言い換えれば——食材に含まれる化学エネルギーの、魔法的な発現。
食材が持つ栄養素や成分が、「正しく理解され、正しく調理された」時に、この世界では魔法として顕現する。
「エルヴィンのエッセンス料理は、やがて評判になった」
ネルの声に、わずかな温かみが混じった。
「あいつのスープを飲むと、病人が回復した。あいつのパンを食べると、疲れた兵士が元気になった。あいつの料理には、癒しの力があった。魔力を持たない平民の料理人が作る料理に、魔法薬以上の効果があったのだ」
「すごい……」
「最初は、みな喜んだ。帝国はエルヴィンを称え、宮廷に招いた。『食の賢者』の称号を与えた。エルヴィンは宮廷料理人として、皇族から平民まで、あらゆる人の食事を作った」
ネルが、長い間、黙った。
雨音だけが部屋を満たしている。
「……何が変わったの」
「恐怖だ」
ネルの声が、冷たくなった。
「魔力を持つ者たちが、恐れ始めた。エッセンスの存在は——魔力がなくても魔法が使えることの証明だった。もし、それが広まったら。もし、誰もが食材を通じて魔法を使えるようになったら。魔力を持つ者の特権は——」
「崩壊する」
「その通り。帝国の支配体制は、魔力の有無による階級制度の上に成り立っている。魔力を持つ貴族が支配し、持たない平民が従う。エッセンスは、その根幹を揺るがすものだった」
ネルが身体を起こし、わたしの膝から降りた。
窓辺に座り、雨の降る夜空を見上げる。
「先頭に立ったのが、クラインヘルツ家だ」
ソフィアさまの——家。
「当時のクラインヘルツ侯爵は、魔術評議会の議長だった。あの男が、エッセンスを『異端の術』と宣言した。魔力によらない魔法は、世界の法則を歪める危険な力だと。エルヴィンの研究は全て押収され、弟子たちは追放され——」
ネルの声が、かすかに震えた。
「エルヴィンは、処刑された。公開の場で。魔術師たちの前で。『異端の術師』として」
言葉が出なかった。
ただ、美味しい料理を作っていただけの人が。
食材の本質を理解し、人を癒す料理を作っていただけの人が。
殺された。
「わしは——逃げた」
ネルの翡翠色の目に、何かが揺れていた。
「エルヴィンは最後に、わしに言った。『逃げろ、ネル。そして待て。いつか、食材の声を聞ける者が現れる。その時まで、この知識を守り続けてくれ』と」
「……百年」
「百年だ。わしは百年、待った」
ネルがわたしを見た。
その目には、百年分の孤独と、百年分の期待が詰まっていた。
「そして、お前が来た。エルヴィンとは違う世界の知識を持ち、エルヴィンと同じように食材の本質を理解する者が」
胸が痛い。
百年。
百年も、一匹で、誰かを待ち続けていたのか。この小さな灰色猫が。
「ネル……」
「泣くな。猫は濡れるのが嫌いだ」
「さっき嫌いじゃないって言ってたじゃん」
「あれは嘘だ。大嫌いだ」
鼻の奥がつんとする。泣きたいのをこらえて、わたしはネルの小さな頭を撫でた。
ネルは一瞬だけ、撫でられるに任せた。それから、ぱっと身を引いた。
「だから言っておく。お前がエッセンスを使い続ければ、いずれ気づかれる。百年前と同じ圧力が、お前にかかる。それでも——」
「やめない」
即答した。
「やめないよ、ネル」
「……理由を聞いてもいいか」
「殿下が、毎日ちゃんとご飯を食べてくれるようになった。ソフィアさまが、お腹いっぱいになって笑うようになった。マルクスさんが守ると言ってくれた。ゲルハルトさんが、わたしの飴色炒めを学ぼうとしてくれてる」
指を折りながら数える。
「わたしの料理で、誰かが幸せになってくれる。それをやめる理由がない」
「——殺されるかもしれんぞ」
「死なないよ。前世でも死んだけど、こうして生き返ったし」
「その理屈はおかしい」
「おかしいけど、事実だもん」
ネルが深いため息をついた。
でも、その目はどこか——安心したような色をしていた。
「……お前は、エルヴィンに似ているな」
「エルヴィンさんに?」
「あいつも、同じことを言った。『美味しいものを作るのをやめる理由がない』と。馬鹿みたいに笑って、最後まで鍋の前に立っていた」
ネルの声が、ほんの少しだけ、温かかった。
「リーゼ。わしは、お前にエルヴィンと同じ道を歩ませるつもりはない。だから、教える。エッセンスの制御法を。力の隠し方を。そして——いざという時の、戦い方を」
「戦い方? エッセンスで戦えるの?」
「食の賢者は、料理人であると同時に、帝国最強の術師の一人だった。魔力なしでな」
……え、そうなの?
料理人なのに最強?
何だその設定。
「まぁ、お前が戦う必要がないのが一番だがな。とりあえず——明日から、夜の授業を始める。エッセンスの基礎理論だ」
「うん」
「覚悟はいいか」
「覚悟っていうか——楽しみ、かも。新しいことを学ぶのって、ワクワクする」
「……相変わらず甘い猫だ」
ネルが窓辺から飛び降り、わたしの枕元に移動した。
いつもは窓辺で寝るのに、今夜は珍しく近い。
「ネル、今日はここで寝るの?」
「雨だからだ。深い意味はない」
「はいはい」
枕元で丸くなるネルの寝息を聞きながら、わたしは暗い天井を見上げた。
エルヴィン・ラウ。
百年前の食の賢者。
わたしと同じように食材の本質を理解し、エッセンスを生み出し——そして、殺された人。
怖い。
正直に言えば、怖い。
でも。
目を閉じると、浮かぶのは——殿下の空になった椀。ソフィアさまの「美味しい」という声。厨房のみんなの笑顔。
わたしは料理人だ。
前世でも、今世でも。
料理人が料理をやめたら、わたしはわたしでなくなる。
だから——やめない。
何があっても。
枕元のネルが、夢の中でもぐもぐと口を動かしていた。
百年前の食卓の夢でも見ているのだろうか。
わたしはそっとネルの頭を撫でて、目を閉じた。
雨音が子守唄のように響く夜。
百年の孤独を終わらせる約束を、わたしは静かに胸に刻んだ。




