【11】味の方程式
ソフィアさまの食事を引き受けて、三日目。
わたしは早くも壁にぶつかっていた。
問題は単純で、そして致命的だった。
カイゼル殿下とソフィアさまの好みが、真逆なのだ。
* * *
殿下の味覚傾向は、すでに把握している。
旨味重視。引き算の料理。食材の純粋な味を、限りなくシンプルに抽出する方向性。
前世で言えば、和食の美学そのものだ。
一方、ソフィアさまは——
「リーゼ。この前のスープは美味しかったけれど、もう少し重層的な味わいがほしいわ」
四日目の昼休み。厨房の裏口に、今日もソフィアさまが来ている。
侯爵令嬢が厨房裏に通い詰めるのはいかがなものかと思うが、本人が「人目を避けて食事をとりたいのだから合理的でしょう」と言い張るので、もうそういうことにしている。
「重層的、ですか」
「ええ。味に深みがあるのは分かるの。でも、もう一段階、奥行きがほしい。素材の味が一つずつ順番に舌の上で展開するような——分かるかしら」
分かる。
めちゃくちゃ分かる。
ソフィアさまが求めているのは、フレンチの味覚構造だ。
前世で言うところの「ミルフィーユのような味の重なり」。ベースの味、ミドルの味、トップの味が時間差で広がっていく、あの複雑な構成。
侯爵家の料理長が作る料理に慣れた舌は、単純な旨味だけでは満足できない。
一方で殿下は、複雑な味を「雑味」として拒絶する。
つまり——
殿下:引き算。雑味を削ぎ落とし、純粋な旨味だけを残す。
ソフィアさま:足し算。味を層状に重ね、複雑さの中に調和を作る。
引き算と足し算を、同じ食材から、同じ時間内に作り分ける。
「……これ、方程式だ」
「方程式?」
あ、声に出してた。
「い、いえ! 何でもないです。ソフィアさま、明日のお昼、ちょっと実験させてください」
「実験? わたくしの食事で実験するの?」
ソフィアさまが眉をひそめる。
しまった、言い方が悪かった。
「えっと、新しい調理法を試したいんです。きっと、ソフィアさまのお口に合うと思います」
「……まぁ、いいわ。期待しているわよ」
ソフィアさまは残ったパンのかけらをさりげなく——本人はさりげないつもりなのだろう——ポケットに入れて、優雅に立ち去った。
その背中を見送りながら、わたしは手帖を広げた。
同じ食材。異なる仕上がり。
解くべき方程式の変数は——調理温度、加熱時間、調味料の投入順序、仕上げの手法。
前世の食品科学の知識が、頭の中でパズルのように組み合わさっていく。
* * *
翌日。
わたしは朝の仕込み時間を使って、ある実験をした。
食材は、鶏のもも肉、イムル芋、ルーテ、ゼーベル、トロッケン茸、ミルヒ脂。
学院の厨房にある、ごく普通の食材だ。
これらを使って、二つの全く異なる料理を作る。
まず、鶏もも肉を二等分する。
殿下用の鶏肉は、塩のみで下味をつけて、水と鶏骨と一緒に低温でゆっくり煮る。六十度から七十度の間を維持して、四十分。タンパク質が凝固する手前の温度帯で加熱することで、しっとりとした食感を保ちながら旨味を引き出す。
前世で言うところの「低温調理」だ。鍋の温度管理が少し面倒だけれど、厨房の端にある炭火の遠火を使えば、意外と安定する。
ソフィアさま用の鶏肉は、まずミルヒ脂で表面をこんがりと焼く。高温でメイラード反応を起こし、香ばしい焦げ目をつける。それから、ゼーベルとルーテを加えて炒め合わせ、トロッケン茸の戻し汁を注いで蓋をして蒸し煮にする。
仕上げに、ミルヒ脂をもうひとかけら落として、とろみがつくまで煮詰める。
同じ鶏肉。同じ時間。
でも、出来上がりは全く違う。
殿下用:澄んだスープに沈む、しっとりとした白い鶏肉。味は素材そのもの。純粋で、余韻が長い。添えるのは、裏ごしして絹のように滑らかにしたイムル芋だけ。
ソフィアさま用:こんがりと黄金色に焼けた鶏肉に、茸と野菜の濃厚なソースがとろりとかかっている。味は多層的で、噛むたびにゼーベルの甘み、茸の風味、鶏の旨味が順番に広がる。添えるのは、ミルヒ脂でソテーしたルーテとイムル芋のグラタン。
……グラタン。
正確には、グラタンに「近い」ものだ。
この世界にはグラタンという概念がない。でも、ミルヒ脂とイムル芋の澱粉と山羊乳があれば、ベシャメルソースに似たものが作れる。それを野菜にかけて、厨房の石窯の余熱で焼き上げれば——
「……よし、できた」
二人分の昼食が完成した。
わたしは銀の盆に殿下の分を、陶器の皿にソフィアさまの分を盛りつけた。
殿下の料理は、白と淡い琥珀色の静かな世界。
ソフィアさまの料理は、黄金色と茶色の華やかな世界。
同じ食材なのに、別の宇宙みたいだ。
* * *
殿下の食事は、いつも通りフィンさん経由で二番調理室に届ける。
問題は、ソフィアさまだ。
昼休み、厨房の裏口にソフィアさまがやってきた。
今日は白い手袋をしていない。食事の時に汚れるから外してきたのだろう。ちゃんと学習している。
「今日はグラタン——あ、えっと、こちらの世界にはない料理なんですが、野菜のミルヒ焼きと、鶏肉の茸蒸し煮です」
わたしが皿を差し出すと、ソフィアさまは一瞬、目を見張った。
「……これ、本当に学院の食材で作ったの?」
「はい。全部、今朝の仕入れにあったものです」
ソフィアさまが銀の匙で、まずグラタンをすくった。
ミルヒ脂のソースがとろりと糸を引く。石窯で焼いた表面は、うっすらときつね色に色づいている。
口に運ぶ。
ソフィアさまの動きが、止まった。
琥珀色の目が見開かれる。匙を持つ手が、かすかに震えている。
「ソ、ソフィアさま? お口に合いませんでしたか——」
「黙って」
え。
「黙って。今、味わっているの」
ソフィアさまは目を閉じた。
唇が、微かに動いている。味を言語化しようとしているのだ。
五秒。十秒。
目を開けた時、ソフィアさまの瞳には——涙が浮かんでいた。
「……ソフィアさま!?」
「う、うるさいわね、泣いてないわよ!」
泣いてる。明らかに泣いてる。
「こ、これ——このソース。ミルヒ脂の下に、イムル芋の甘みがあって、その奥にルーテの風味が……そこに焼き目の香ばしさが重なって……最後に、鶏の旨味がじわりと——」
ソフィアさまが早口で味を分析し始めた。
その精度に、わたしの方が驚く。一口で、ソースの構成要素をほぼ完璧に言い当てている。
「なぜ。なぜこんなものが作れるの。あなた、魔法が使えないのでしょう? 魔法を使わずに、この多層的な味をどうやって——」
「温度です」
「温度?」
「食材には、それぞれ美味しくなる温度帯があるんです。ゼーベルは弱火でじっくり炒めると甘くなる。イムル芋は低温で長く加熱するとデンプンが糖に変わる。ルーテは高温で短く炒めると香りが立つ。同じ食材でも、温度と時間を変えるだけで——」
「……それは、錬金術の理論と同じだわ」
ソフィアさまの目が、学者のそれに変わった。
「錬金術?」
「ええ。錬金術では、同じ素材でも加熱温度と時間によって生成物が変わる。あなたが言っていることは、まさに——」
ソフィアさまは言葉を切って、もう一口グラタンを食べた。
今度は分析ではなく、純粋に味わうように。
「……美味しい」
小さな声だった。
侯爵令嬢の完璧な仮面の下から漏れた、たったひと言。
その一言で、わたしの心は十分すぎるほど満たされた。
* * *
——同時刻。
二番調理室にて。
カイゼル・フォン・アステリアは、鶏肉の最後のひと切れを口に運んだ。
いつも通り、余計な味がしない。
鶏肉の旨味だけが、澄んだスープとともに舌の上を流れていく。
添えられたイムル芋は、絹よりも滑らかで、鶏の風味を邪魔しない。
この味に慣れてはいけないと、カイゼルは思う。
慣れてしまえば、失った時の衝撃が大きくなる。
だが——もう遅いかもしれなかった。
空になった椀を見下ろしていると、従者のフィンがそっと口を開いた。
「殿下。本日、クラインヘルツ侯爵令嬢が厨房裏に来ていたようです」
「……知っている」
二番調理室の窓から、厨房の裏口は見える。
ソフィアが銀の匙を握りしめて泣きそうな顔をしていたのを、カイゼルは目撃していた。
あの完璧な侯爵令嬢が、厨房裏で立ったまま食事をしている。
プライドの塊のような女が、味に感動して目に涙を浮かべている。
馬鹿馬鹿しい。
馬鹿馬鹿しいが——
カイゼルの唇が、ほんの一瞬、かすかに歪んだ。
フィンはそれが、主人の極めて稀な「笑み」であることを知っている。
「……殿下、もしかして面白がってらっしゃいます?」
「黙れ」
いつもの冷たい一言。
だが、フィンには分かっていた。カイゼル殿下は、ほんの少しだけ機嫌が良い。
それが、あの厨房の少女の料理のおかげなのか、侯爵令嬢の醜態を見たせいなのかは、判断がつかなかったけれど。
* * *
夜。寮の部屋にて。
「ネル、聞いて」
「何だ。また飯の話か」
「飯の話だよ」
「ふん。聞いてやる」
窓辺でミルヒ脂入りの焼き菓子をもぐもぐしながら、ネルがこちらを見た。
この猫、最近すっかり太った気がする。
「今日、ソフィアさまにグラタンもどきを出したの。そしたらソフィアさまが、わたしの料理の理屈は錬金術と同じだって言ったの」
「ほう」
「わたし、前世で食品科学を研究してたでしょ。食材の化学組成とか、加熱による成分変化とか。それってこの世界では——」
「錬金術だ。当然だろう」
ネルが当たり前のように言った。
「当然?」
「食の賢者は、元々は錬金術師だった。物質の本質を理解し、変換する技術——それを食材に応用したのがエッセンスの始まりだ」
つまり、わたしの食品科学の知識は、この世界の錬金術に相当する。
温度による成分変化。
化学反応の制御。
素材の組み合わせによる相乗効果。
全部、前世では「科学」だったものが、この世界では「魔法」なのだ。
「ネル。もしかして、わたしの料理にエッセンスが宿るのって——」
「お前が食材の本質を、科学的に理解しているからだ。この世界の料理人は、経験則で食材を扱う。だが、お前は理屈で理解している。その『理解の深さ』がエッセンスを生む」
背筋がぞわりとした。
つまり——わたしが前世の知識を使えば使うほど、エッセンスは強くなる。
料理人として腕を上げれば上げるほど、この世界では「異端」に近づいていく。
「……怖くないか」
ネルが、珍しく真面目な目でわたしを見た。
「怖くないよ」
嘘だ。少し怖い。
「でもね、今日ソフィアさまが泣きそうな顔で『美味しい』って言ってくれたの。殿下も、毎日ちゃんと完食してくれるの。わたしの料理で、誰かのお腹が満たされる。それを怖がる理由がない」
「……甘い猫だ」
「猫じゃないよ、人間だよ」
「お前は猫だ。善意だけで動く、甘い猫だ」
ネルは鼻を鳴らして、窓辺で丸くなった。
手帖を開いて、今日の記録をつける。
味の方程式。
変数は温度、時間、組み合わせ。
解は、食べる人の笑顔。
——なんて、研究者としては失格な結論だけれど。
明日は何を作ろうかな。
殿下には旨味を重ねた茸の炊き込みご飯風のもの。ソフィアさまには、ミルヒ脂たっぷりの鶏のクリーム煮。
手帖にメニュー案を書きながら、わたしは前世と今世の知識を重ね合わせていく。
食品科学と錬金術。
科学と魔法。
この世界で、わたしだけが解ける方程式がある。
ペンの先で手帖に触れた瞬間、文字の上にぽつりと金色の光が灯ったけれど——ミーナの盛大な寝言(「チョコレートケーキにもう一段クリームを……」)に気を取られて、やっぱり気づかなかった。




