【10】侯爵令嬢は腹ペコである
ソフィア・フォン・クラインヘルツ。
帝国有数の名門クラインヘルツ侯爵家の長女にして、帝都魔術学院の特待生。
全教科首席。光と風の二属性魔法を操る天才。容姿端麗。成績優秀。品行方正。
学院の女生徒の頂点に立つ、完璧な令嬢——
と、周囲からは思われている。
実態は、ちょっと違う。
* * *
午後の授業が終わった後。
ソフィアは自室に戻り、扉を閉めた瞬間、完璧な姿勢を崩してベッドに倒れ込んだ。
「……おなかすいた」
侯爵令嬢にあるまじき呟きである。
ソフィアの悩みは、学院の食事が不味いことだった。
クラインヘルツ侯爵家は美食で知られる家柄だ。専属の料理長は帝都でも指折りの腕前で、ソフィアは物心ついた頃から最高級の料理を食べて育った。
その舌が、学院の食事を受け付けない。
不味いのだ。致命的に。
もちろん、学院の料理は「普通」のレベルで、他の生徒たちは不満なく食べている。ソフィアの基準が高すぎるだけだ。
けれど、高すぎる基準に慣れた舌は、低い水準の食事を「食べ物」として認識してくれない。
結果、ソフィアの食事量は学院に来てから激減していた。
朝食はパンの端をかじるだけ。昼食はスープを数口。夕食はサラダを少々。
それでお腹が空かないわけがない。
「侯爵令嬢が『おなかすいた』って、言うわけにいかないし……」
プライドが邪魔をする。
「学院の料理が口に合わない」などと言えば、我儘な令嬢だと思われる。それは、クラインヘルツ家の名に傷をつけることになる。
だから、ソフィアは黙って空腹に耐えている。
ぐぅ。
腹の虫が、容赦なく鳴った。
ソフィアは枕に顔を埋めて、静かに泣いた。
* * *
翌日の昼休み。
ソフィアは食堂でいつものように、スープを数口飲んで席を立とうとした。
その時——ふわりと、風に乗って香りが届いた。
何の香りかは分からない。
でも、それはソフィアの本能を直撃する、抗いがたい香りだった。
甘くて、温かくて、どこか懐かしい。
幼い頃、実家の厨房で料理長がこっそり作ってくれた、あの味を思い出させる——
「……何、この匂い」
立ち上がりかけた足が止まる。
匂いの元を辿ると、食堂の奥の方——厨房との境目あたりから漂ってきている。
侯爵令嬢として、食堂の裏手になど行くべきではない。
分かっている。
でも、足が勝手に動いた。
食堂の奥、厨房の裏口に回り込むと——小さな少女が、鍋の前に立っていた。
銀白色の髪をひとつに結んだ、痩せっぽっちの少女。確か、実務奨学生の一人だ。
名前は——リーゼ、だったか。
あの少女は、鍋の中身をゆっくりとかき混ぜていた。
その手つきは、子供のものではなかった。迷いがなく、無駄がなく、一つ一つの動作に意味がある。
そして、あの匂い。
鍋から立ち上る湯気に乗って、信じられないほど良い香りがする。
「……何を、作っているの」
気づいたら声をかけていた。
少女——リーゼが振り向いた。
琥珀色の目が驚きで丸くなっている。
「え、あ、ソフィアさま……? えっと、これは、殿下の……」
「殿下?」
「第二皇子カイゼル殿下の昼食です。合わせ出汁のスープで……」
「あわせだし?」
聞いたことのない言葉だ。
鍋の中を覗き込む。
澄んだ琥珀色の液体がゆらゆらと揺れていて、そこから立ち上る香りは——もう、たまらなかった。
ぐぅぅぅぅ。
腹の虫が、盛大に鳴った。
ソフィアは凍りついた。
リーゼも凍りついた。
数秒の沈黙。
「い、今のは! 聞かなかったことに!」
「え、あ、はい。聞いてません」
顔が燃えるように熱い。
侯爵令嬢が、こんな場所で、こんな音を——
「あの……ソフィアさま。もしよかったら」
リーゼがおずおずと、小さな椀にスープを注いだ。
「一口、味見してみませんか? 殿下の分はもう取り分けてあるので」
「わ、わたくしが、こんなところで、立ち食いなんて——」
プライドが拒否する。
でも、胃袋が受諾する。
ソフィアは震える手で椀を受け取り、一口飲んだ。
——世界が、変わった。
澄んだスープの中に、信じられないほど深い味わいが凝縮されている。
鶏の旨味。茸の香り。海の風味。それらが一つに溶け合って、口の中に広がる。
濃厚なのに、しつこくない。複雑なのに、澄んでいる。
ソフィアは知っている。この味を。
いや、正確には——この「レベル」の料理を。
実家の料理長が、特別な日だけに作ってくれた、あの最高のスープ。
そのスープと同じ次元の味が、学院の厨房の、こんな小さな鍋の中にあった。
「どう、ですか……?」
リーゼが不安そうに訊いてくる。
ソフィアは椀を両手で包んで、残りを一気に飲み干した。
そして、空になった椀を見つめて——
「…………おかわり」
口から出た言葉に、ソフィア自身が一番驚いた。
侯爵令嬢が、厨房の裏口で、実務奨学生にスープのおかわりを要求している。
父上に知れたら卒倒するだろう。
でも、空腹だったのだ。
二週間以上、まともに食事ができていなかったのだ。
リーゼが嬉しそうに——本当に、心底嬉しそうに——椀にスープを注いでくれた。
「もちろんです。たくさんありますから」
二杯目。三杯目。
気がつけば、ソフィアはパンまで受け取って、スープに浸して食べていた。
信じられないほど柔らかいパンが、スープを吸って——もう、言葉にならない。
「……なぜ」
「はい?」
「なぜ、こんなに美味しいの。この食材は、学院のものでしょう? 同じ食材で、なぜこんなに……」
「食材の扱い方を変えただけです。出汁の取り方、温度管理、素材の組み合わせ……基本をちゃんとやれば、食材は必ず応えてくれます」
リーゼの声は穏やかで、温かかった。
料理の話をする時だけ、この少女は別人になる。自信に満ちて、堂々としている。
ソフィアは椀を置いて、リーゼの目を見つめた。
「……わたくしの分も、作ってくれないかしら」
「えっ」
「毎日。毎食。……お願い」
「お願い」。
ソフィア・フォン・クラインヘルツが、誰かに「お願い」と言ったのは、いつ以来だろう。
リーゼが困った顔をした。
「えっと、わたし、もう殿下の専属で手一杯で……」
「殿下の食事と一緒に、わたくしの分も作ればいいだけでしょう? 一人分も二人分も、手間はそう変わらないわ」
これは暴論だ。侯爵令嬢の分を勝手に作るわけにはいかない。
だが、ソフィアの目は本気だった。空腹に耐え続けた二週間の執念が、琥珀色の瞳に炎として燃えている。
「……考えさせてください」
「明日までに返事を頂戴」
言うだけ言って、ソフィアは踵を返した。
背筋をピンと伸ばして、優雅に歩き去る。
完璧な侯爵令嬢の足取りで。
——ただし、右手には、こっそりパンをもう一個握りしめていた。
* * *
その夜。
「ねぇネル。侯爵令嬢のソフィアさまに、毎食作ってって頼まれたんだけど」
「断れ」
即答だった。
「えぇ……」
「お前はすでに、あの小僧の食事で手一杯だろう。これ以上仕事を増やしてどうする」
「でも、ソフィアさま、すごくお腹空いてたみたいで。学院の食事が口に合わなくて、まともに食べてないっぽいの」
「知るか。金持ちの我儘だ」
「我儘じゃないよ。食べられないのと食べないのは違うもの」
ネルが黙った。
「……お前は、甘い」
「甘いかな」
「甘い。砂糖より甘い。蜂蜜より甘い。あの世界の——何だったか、『わたがし』とかいう食い物より甘い」
「わたがし知ってるの!?」
「お前の寝言で覚えた」
わたし、寝言でわたがしの話をしていたのか。
「……まぁ、好きにしろ。ただし、注意しておくことがある」
「何?」
「あの令嬢——クラインヘルツ家は、百年前に食の賢者を告発した家系の末裔だ」
心臓が、どくんと跳ねた。
「……え」
「クラインヘルツ侯爵家は、代々魔術師の名門だ。百年前、食の賢者が『魔力なしでも魔法が使える』と主張した時、最も強く反対したのがクラインヘルツ家だった。エッセンスの存在は、魔力による階級制度を脅かすものだったからな」
ソフィアさまの家が——食の賢者を殺した側。
「……でも、それは百年前のことでしょ。ソフィアさま本人には関係ない」
「そうだな。だが、クラインヘルツ家のイデオロギーは変わっていないかもしれん。お前のエッセンスを知ったら、どう反応するか。それだけは注意しろ」
ネルの忠告は理解できる。
でも——
あの時のソフィアさまの顔を思い出す。
空腹に耐えかねて、プライドをかなぐり捨てて、「おかわり」と言った顔。
あの顔は、演技ではなかった。
「ネル。わたし、ソフィアさまの食事も作るよ」
「……好きにしろ」
ネルは呆れたように鼻を鳴らして、窓辺で丸くなった。
わたしは手帖を開いて、明日のメニューを二人分考え始めた。
殿下の分は旨味重視の和風テイスト。
ソフィアさまの分は、侯爵家の洗練された味覚に合う、繊細なフレンチテイスト。
同じ食材で、二つの全く異なる料理を作る。
大変だけれど——ワクワクする。
だって、食べてくれる人が増えるのは、料理人にとって最高の幸福なのだから。




