第184話 一歩、踏み込む
前線は、もはや崩壊寸前だった。
闇核変異体第二号は、明確に攻勢へと移っている。
その巨体が一歩踏み出すたび、地面が悲鳴を上げ、騎士団の防衛線は押し潰されていった。
盾は砕け、魔法は逸れ、叫び声が夜に溶ける。
市街地までの距離は、もう遠くない。
この数分を落とせば、王都は呑み込まれる。
ユウは、歯を食いしばって拳を構えていた。
腕は重く、呼吸は浅い。
第三段階を使っていないのに、身体はすでに限界に近かった。
そのとき、レオが前に出た。
明らかに無理をしている。
足取りは重く、血が鎧の隙間から滴っている。
「……まだだ」
ユウが叫ぶ。
だが、レオは止まらない。
第二号の攻撃が、ユウに向かって振り下ろされる。
それを、レオが身を投げ出して受けた。
鈍い衝撃音。
レオの身体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。
「レオッ!」
ユウが駆け寄ろうとした瞬間、レオは片膝をつきながらも、こちらを睨んだ。
「……立ってろ」
声は掠れている。
「お前が倒れたら……全部、終わる」
それだけ言って、レオは再び構えた。
無茶だ。
誰の目にも分かる。
それでも、退かない。
視界の端に、人影が映った。
崩れかけた建物の向こう。
逃げ遅れた市民だ。
瓦礫の下敷きになりかけた老人。
泣き叫ぶ子供。
ここは、戦場じゃない。
街だ。
ユウの胸の奥で、光核が変わった反応を見せた。
今までのような衝動じゃない。
力を吐き出せと叫ぶ声でもない。
問いかけに、近い。
(……本当に、行くのか)
第三段階は、ただ強くなることじゃない。
覚悟を、選び続ける状態だ。
そして――
代償がある。
その輪郭が、初めてはっきりと見えた。
視界の端が、欠ける感覚。
一瞬、自分がどこに立っているのか分からなくなる。
記憶が、曖昧になる予感。
身体が、自分のものじゃなくなる恐怖。
それでも。
ユウは、拳を下ろさなかった。
「……一歩だけだ」
誰に言うでもなく、呟く。
全部は、踏み込まない。
完全解放もしない。
ただ、一歩だけ。
守るために。
光核が、深く、静かに応えた。
世界が、一瞬だけ静止したように感じた。
音が遠のき、空気が張り詰める。
闇核変異体第二号の動きが、ほんの一拍、止まる。
ユウは、踏み込んだ。
拳が、再び叩き込まれる。
今度は、違った。
表皮を打ち抜く感触の奥で、
“中に響く”衝撃があった。
第二号の肉塊が、明確に歪む。
低い、唸り声のような音。
初めての、確かなダメージ反応。
だが――
ユウの身体が、軋んだ。
呼吸が乱れ、胸が締め付けられる。
視界が、白く飛ぶ。
ほんの数秒。
だが、確かに“抜け落ちた”感覚。
戻ったとき、拳は構えたままだった。
周囲の音が、遅れて戻ってくる。
レオの声。
騎士団の叫び。
闇核変異体第二号は、こちらをじっと見ている。
完全に、ユウを脅威として認識した目だ。
闇の深層。
ラグナが、低く笑った。
「……踏み込んだか」
「だが、そこまでだ」
ユウは、息を整えながら、呟いた。
「……これが、代償か」
勝てるわけじゃない。
終わってもいない。
それでも――
もう、届かない拳ではない。
一歩、踏み込んだ現実だけが、
重く、確かにそこにあった。




