第174話 次の段階へ
闇の深層は、静かだった。
音はない。
風もない。
ただ、圧だけが満ちている。
ラグナは、その圧の中心で腕を組んでいた。
影の主は、姿を定めていない。
そこに“在る”という事実だけが、空間を歪めている。
「……試しは終わりだ」
影の主の声は、低く、乾いていた。
「王都は耐えた。
人間どもは踏みとどまった」
ラグナは、鼻で笑う。
「随分と甘い評価だな。
怯え、迷い、期待に縋っているだけだ」
「違うか?」
影の主は、否定しない。
「だからこそ、次だ」
闇が、わずかに濃くなる。
「次は、退路を潰す」
その言葉に、ラグナの目が細くなった。
「……全面ではないな」
「当然だ」
影の主は淡々と言う。
「全面は、まだ早い。
だが“隠れ場所”は要らない」
「昼と夜の区別を消す。
安全と危険の境界を曖昧にする」
ラグナは、ゆっくりと頷いた。
「なるほど。
人間は境界に依存する」
「門、壁、巡回、警戒段階……
それが機能しなくなった時、心は先に折れる」
影の主の気配が、僅かに揺れる。
「光の担い手は、まだ出てこない」
「だが、もう一歩だ」
ラグナは、口角を上げた。
「“選ばせる”のではない」
「“選ばざるを得ない”状況を作る」
闇が、同意するように沈黙した。
「やれ、ラグナ」
「規模は小さく、影は深く」
「痕跡は残すな。
だが、痕跡がないこと自体を、異常にしろ」
ラグナは、背を向ける。
「了解だ」
「……人間どもが、
どこまで“我慢できるか”を見せてもらおう」
闇は、何も答えない。
ただ、決定だけが、確かに刻まれた。
王都では、昼の光が街を照らしていた。
だが、その光は、どこか頼りない。
市場の喧騒は戻った。
子どもたちの声も聞こえる。
それでも、人々は空を見上げる回数が増えていた。
理由は分からない。
説明もできない。
ただ、胸の奥が落ち着かない。
「……昨日より、暑いか?」
「いや……違う。
なんか、重い」
そんな会話が、あちこちで交わされる。
昼間だというのに、
影が長く感じられる。
ギルド本部では、代表が報告書を並べていた。
夜間だけだった異常が、
昼にも、薄く混じり始めている。
致命的ではない。
だが、明らかに増えている。
「……分布が変わったな」
独り言のように呟く。
カレンが、横で頷いた。
「同時刻の報告が、複数あります」
「場所も……散っている」
代表は、地図に目を落とす。
点は、線にならない。
だが――
“膜”のように、街を覆い始めている。
「これは……」
言葉を、飲み込む。
証拠は足りない。
断定はできない。
だが、経験が告げていた。
(……段階が、上がった)
治療院では、リナが手を止めていた。
患者は安定している。
数値も、異常なし。
それなのに、胸がざわつく。
回復魔法を流すたび、
何かが“抵抗しない”感触がある。
「……抵抗が、ない?」
それは、良い兆候のはずだった。
だが、逆だ。
“拒まれない”ということは、
侵食が浅く、広いということ。
(……薄く、広がってる)
リナは、窓の外を見る。
空は晴れている。
それが、余計に不気味だった。
王都の外れ。
ユウは、歩いていた。
昼の街。
人の流れ。
平穏な景色。
それでも、足取りが自然と遅くなる。
光核が、静かに、重く鳴っている。
戦闘の兆しではない。
敵意でもない。
もっと深い、予感。
(……次は)
言葉にしなくても、分かる。
昨夜の一歩は、
確かに何かを動かした。
だが――
それは“止めた”のではない。
(……引き上げた)
相手の基準を。
隠れていたものが、
隠れなくなる段階へ。
ユウは、拳を握り、そして開く。
(……戻れないな)
恐怖はある。
迷いも、消えていない。
それでも、覚悟は揺れていなかった。
選ぶ準備は、できている。
だが――
まだ、抜かない。
その判断が、今は必要だと、
光核が静かに告げている。
王都の空を、雲が流れる。
昨日と同じ。
今日も同じ。
それでも、
見えないところで、段階は確かに上がった。
試しは終わった。
次は――
選ばされる。
その時が、
もう遠くないことだけが、
はっきりとしていた。




