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梅の儀②
文が迫る。異様な速さだった。
――と思った、その瞬間。
ガンッ、と鈍い衝撃音が響いた。
「っ……! な、何よ……これ……!」
文の体が、空中で押し返されるように止まっている。そこには何もない。だが確かに、見えない“何か”が、二人の間に存在していた。
「達也くん……あれ……」和政が喉を鳴らしながら言う。「郁美ちゃんと文の間にも、多分….見えない壁があるみたい」
「……みたいだな」
張りつめていた胸の奥から、ようやく息がこぼれた。
「くっ……! 何なのよ!!」
文は叫ぶと、壁に向かって拳を叩きつけた。さらに、頭を――何度も、何度も。
「この、この、この、このぉぉぉ!!」
鈍い音が連続して響く。壁に阻まれているはずなのに、痛みも構わず、狂ったように体当たりを続ける。
その顔は、もはや人間のそれじゃなかった。憎悪と焦燥が剥き出しになり、理性の欠片も見当たらない。
その光景に、俺の背筋を冷たいものが走る。
郁美は小さく息を吸い込み、怯えた子どものように、ただ体を震わせていた。
『―――はじめ!』
その声が頭に響いた瞬間、文は一切の迷いもなく、五十メートルのレーンを駆けだした。振り返りもしない。ただ、前だけを見て。




