スズナ、踏み込めぬ距離
「…………お前達、一位二位が揃ってこれか……」
放課後、グループ授業の課題を提出しにスズナたちは教員室に訪れていた。渡された論文を手にパラパラと目を通していくルド。そして、一通り読み終わると間をおいて大きな溜息を吐いた。
「『結論、チームは、バラバラでいい』……馬鹿か!?なんでこうなった!?おい、リース!お前がいながらなんで――」
「先生、察してください……」
リースの言葉にルドはスズナとシノの顔を交互に見る。そして、ルドはもう一度盛大に溜息を吐いた。
(私は悪くないのに……)
「お前達……せっかく同じグループになったんだから……少しは仲良くできないのか?」
「だって」「こいつが」」
ルドの言葉に反論しようとした瞬間、同時にシノもまったく同じ言葉を口にした。スズナがシノの方を見ると、彼は悪びれる様子もなく、軽々しくこちらを指差している。思わず眉をひそめる。元を正せば、こうなる原因を作ったのは反論ばかりしてくるシノ自身だ。それなのに、少しでも申し訳なさそうな顔を見せることはないのか、と心の中で呆れを漏らすスズナだった。
スズナが下からシノを睨みつけると、シノは冷酷な眼差しで上から見下ろしてきた。両者の間で一方的に火花が散るような緊張が漂う中、リースが間に入って仲裁の声を上げた。
「こらこら、二人とも喧嘩しない。はぁ……先生、とりあえずもうこれでいいのでお願いします……」
「お、おう、わかった。――お疲れさん。…………そういえば、お前らアイビーのグループ見なかったか?」
先程まで教室で論文をまとめていたスズナたちだったが、教室には自分たち以外誰もいないことを思い出す。
先日まではアイビーのグループも課題に取り組んでいたが、今日はその姿はなく、スズナたちはてっきり彼らが先に提出を済ませたのだと思い込んでいた。しかし、ルドの言葉で、アイビーのグループはまだ論文を完成させられていないことを知る。
アイビーは今日も休んでいるため、提出できなかったのだろうか。それにしては、アイビーのグループは焦っている様子もなく、教室内で話し合っているところも目にしていなかった。
「見ませんでしたけど――探してきますか?」
「――いや、いい。ありがとな、皆気をつけて帰れよ」
ルドは疲れ切った様子でそう答えた。帰りを促されたスズナ達はルドに背を向け、教員室を去ろうとする。
「スズナ、ちょっといいか?」
スズナはルドに呼び止められ、自然と足を止めた。彼の元へ歩み寄ると、ルドは淡々と一言問いかけた。
「アイビーからは何もされてないか?」
スズナは心配そうにこちらを見るルドに向かって、無言で首を横に振った。その様子を見たルドは、「なら良い」とだけ告げ、手をひらひらと振って帰りを促した。
教員室の入り口の方を見るとリアたちが待っている。ルドの言葉が引っかかりながらもスズナは教員室を後にした。
校門へと歩みを進めるスズナたち。無事に論文を提出できた安堵感に包まれていたその時、リアが心配そうな声で呟いた。
「A判定貰えるかなぁ……」
「……どうだろうね」
リアの言葉に、リースは苦笑いを浮かべつつ言葉を濁す。A判定などあり得ないことを理解していたスズナは、小さな声で呟くように言った。
「誰かさんのせいでAは無理かもね」
「あぁ、誰かさんのせいでな」
その言葉に反応したかのように、間髪入れずシノが口を開いた。視線は正面ではなく、こちらを直接見てはいないものの、明らかに自分を指しているのがわかった。
反論しようと口を開きかけた瞬間、後ろにいたジェニーが声をかけてきた。
「ス、スズナちゃんは悪くないよ」
「……ジェニー……ありがとう」
スズナはジェニーの手を取り、静かにお礼を伝えた。ジェニーは顔を赤らめ、俯いてしまう。
ジェニーは話し合いの場でも常にスズナの肩を持ってくれていた。シノとは異なり、すべてを肯定してくれる存在で、時折間違ったことを言っても肯定するため、少し盲信的な面もある。しかし、弟のように慕うその姿は、スズナにとって嬉しいものだった。
そんな思いに浸りながら顔を上げると、シノが耳元で低く呟いた。
「良かったな、信者がいて」
その冷たい声に、スズナは思わず肩をこわばらせた。咄嗟にジェニーの手を離し、耳元を抑える。シノが時折距離を詰めてくるのは、本当にやめてほしい。心臓に悪すぎるのだ。
「――何が言いたいのよ」
「そのまんまだ」
シノはすました顔でそう言い放った。ジェニーのことを「信者」だなんて、まるでスズナが何か仕掛けているかのようではないか。
そんな覚えはないと思いながらスズナはジェニーをじっと見つめると、ジェニーの顔は見る見るうちに赤く染まっていった。
「ジェニー!?大丈夫!?顔が赤いけど熱があるんじゃ――」
ジェニーの体温を確かめようと、長い前髪を掻き上げて、おでこに手を触れた。
初めて見るジェニーの顔にドキッとスズナの心臓が跳ねた。まるでお人形のような可愛らしい顔立ちに綺麗な藤色の瞳がウルウルと輝いている。長い睫毛は夕陽に照らされ影が落ちていた。
(美少女……いや、美少年…………)
ジェニーの顔をまじまじと見つめているとジェニーの顔は更に茹蛸のように真っ赤に染まり上がった。おでこに当てた手のひらからは熱は感じられない。不思議に思ったスズナは、妹にするようにおでこを当てて確認しようと顔を近づけた。
「はい、ストップ!」
「わっ」
おでこに触れる寸前でリースに腕を掴まれ引っ張られる。手が離れ、ジェニーの顔は再び髪の毛で隠されてしまう。ジェニーはというと、スズナから逃げるように距離をとり、リースの後ろへと隠れていった。
(あ、もしかして顔が見られた事が嫌で怒ってたんじゃ……)
スズナは、自分のせいでジェニーの顔が赤くなるほど怒り、嫌な思いをさせたことに申し訳なさを覚え、すぐに謝罪した。
「ジェニー、いきなりごめんね」
「う、うん…………」
ジェニーはスズナの顔を見ず、俯いたまま頷いた。
スズナは、自分が街の冒険者たちと同じような距離感で接していたことを振り返った。もしかすると、馴れ馴れしすぎたのかもしれない。それに、貴族の間では気安く相手に触れるのはマナー違反なのかもしれない。以前、シノの腕を掴んだときに、彼が腕を凍らせるほど嫌がっていたことも思い出していた。
スズナがシノの表情に目を向けると、やはり彼はしかめ面をしていた。隣にいるリアもリースも、呆れたような顔を浮かべている。それを見たスズナは、自分の行いを改めようと心の中で強く誓った。
「………………そういえば、スズナちゃん……鞄は?」
「…………?」
リアの言葉で左手に目を向ける。持っていると思っていたはずの鞄がその手にないことに気づき「あっ」と声を上げた。
「――教室に忘れてきちゃった!!」
「「「「………………」」」」
「――先帰ってて!!」
後ろから「…あほ」と呟く声が聞こえた気がしたが、スズナには気にする余裕もなく、そのまま駆け足で教室へと向かっていった。
*
「はぁっ……はぁっ……階段きつ……」
息を切らしながら教室の扉を開ける。すると、誰もいないと思っていた教室に一人のクラスメイトの姿があった。
「アイビー……えっと……久しぶり?」
数日学校を休んでいたアイビーの姿だった。紅色の髪の毛が夕焼けに照らされて更に赤く染まっている。アイビーの姿は以前よりも威厳さがなく、今にも泣き出しそうな表情に戸惑いながらも声をかけた。
「スズナさん」
「は、はひ」
突然名前を呼ばれ、返答が裏返る。アイビーはスズナを見つめ、重い空気をまといながら口を開いた。
「……………………っ、何でもないわ……」
「言いにくい事なの?」
アイビーの表情は「何でもない」と言い張るにはほど遠く、つい突っ込みたくなるほど重かった。スズナが問いかけても、アイビーは無言のままだった。沈黙に耐えかねたスズナは、鞄を手に取り、教室を去ろうとアイビーに背を向けた。
「あのっ――」
アイビーが震える声で言葉を発した。スズナが振り向くと、予想外の言葉が口から発せられた。
「…………次の中間試験だけれど、お願いだから手を抜いてくれないかしら……」
「え……?」
俯きながら言葉を紡ぐアイビーの姿は、貴族の令嬢というよりも幼い少女のように小さく見えた。身体を震わせ、手をぎゅっと握り締めるその仕草からは、私にこの言葉を伝えること自体が屈辱的であることがうかがえた。切羽詰まった様子で感情を押し殺すアイビーを、スズナはただ無言で見つめていた。
「……出来ないのならいいです、聞かなかったことにしてください」
「ちょっと――」
「さようなら」
アイビーはそう言い放つと、スズナと目を合わせることなく教室を去っていった。スズナはその背中を追うことができなかった。踏み込む勇気が、どうしても湧かなかったのだ。
アイビーが去った後、教室に一人取り残されたスズナは、複雑な感情に胸を締めつけられながら、ただその場に立ち尽くしていた。
明日になったらアイビーとまた話そう――そう思い家へと帰る。しかし、次の日もまた次の日も、アイビーは学校を休んだ。