第三話 迷い込んだ少女
# 第三話 迷い込んだ少女
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世界が白く変わり始めていた。
それは「雪が降った」という単純な変化ではない。ロキウスにとって、それはもっと深く、もっと複雑な情報の集合体だった。
大気中の水分が結晶となって降り注ぐ時の、独特な振動パターン。地面に積もった雪が作り出す、音の伝わり方の変化。そして何より、森全体を包む静寂の質そのものが、秋とは全く異なっているのだ。
冬が来たのだ。
自分を取り巻く世界を感じ取りながら、ロキウスは改めて時の流れを実感していた。
「もう、一年近くになるのかのう」
この異世界で目覚めてから、春の終わり、夏の盛り、秋の深まり、そして今、初めての冬。人間だった頃の時間感覚とは全く異なるゆっくりとしたリズムで、しかし確実に、季節は巡っていた。
自分自身も、それに合わせて変化していることに気づく。
最初は岩の表面にわずかに広がっていただけの緑の部分が、今では岩全体を覆い、さらにその周囲の地面にまで広がっている。根も、岩の奥深く、地中深くまで張り巡らされ、そこから得られる情報の範囲も格段に広がった。
そして——
自分の周囲に漂う、あの特別な空気。
清浄で、安らぎに満ち、どこか神聖ささえ感じさせる雰囲気。それは意図して作り出したものではないが、結果として、この場所を小さな聖域に変えていた。
秋の間にも、何度か迷子の小動物たちがここで休んでいった。傷ついた鳥たちが翼を癒していった。そのたびに、自分の存在が何かの役に立っているという実感が深まっていく。
「森の小さな園長...いや、聖域の守り手、といったところかの」
そんなことを考えながら、今日もまた静かな一日が過ぎていこうとしていた時——
いつもとは全く違う振動が、雪を通して伝わってきた。
それは今まで感じたことのない、特別な足音だった。四足歩行の動物たちとも、鳥たちの軽やかな動きとも違う。二本の足で歩く、しかし動物よりもずっと複雑で、意図的なリズムを持つ足音。
そして——
息遣い。浅く、速く、どこか苦しそうな呼吸の音が、空気の振動として伝わってくる。
「これは...」
ロキウスの意識が研ぎ澄まされた。植物学者としての記憶が、その足音と呼吸のパターンを分析する。
二足歩行。複雑な歩行パターン。そして何より、その呼吸に込められた感情——恐怖、不安、そして深い疲労。
これは、人間ではないだろうか。
しかも、かなり小さな人間。足音の間隔や重さから察するに、恐らく子供。
そして、明らかに困っている。
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その足音は、だんだんと近づいてきていた。
しかし、その歩調は次第に乱れ、時折立ち止まっては、また歩き始めるという不安定なものになっている。そして、呼吸はますます浅く、速くなっていく。
やがて、ロキウスの感知範囲に、その小さな存在が入ってきた。
体温が異常に低い。人間の正常な体温よりもずっと下がっている。そして、その身体から発せられる化学的な情報が、強い恐怖と疲労を物語っていた。
「これは...本当に危険じゃ」
ロキウスの心に、強い危機感が走った。このままでは、この小さな命は——
その時、ついにその姿が、自分の聖域の境界に現れた。
小さな、とても小さな人影。雪にまみれた薄い外套を纏い、震えながら歩いている。足取りはおぼつかなく、今にも倒れそうなほど弱々しい。
そして——
その子が、ついに力尽きたように、雪の上に膝をついた。
「お母さん...」
か細い声が、雪に吸い込まれるように響いた。それは明らかに人間の言葉だったが、ロキウスが人間だった頃に使っていた言語とは異なる響きを持っていた。
しかし、言葉が分からなくても、その声に込められた感情は痛いほど伝わってくる。
恐怖。孤独。そして、誰かを求める切ない願い。
「大丈夫じゃ。もう大丈夫じゃよ」
ロキウスは心の中でそう呼びかけながら、自分にできる全てのことを始めた。
まず、温もり。
自分の内側から、生命エネルギーを呼び起こす。それは光合成で蓄えた力ではなく、もっと深い、魂の奥底から湧き上がる暖かさ。
聖域全体が、ゆっくりと温度を上げていく。雪は溶けないまでも、刺すような寒さが和らいでいく。
次に、光。
自分の表面から、優しい緑色の光を放つ。それは松明のような強い光ではなく、蛍のようにほのかで、しかし確実に闇を照らす光。
そして、安らぎ。
自分の周囲に漂う清浄な空気を、さらに濃密にする。恐怖を和らげ、心を落ち着かせる、穏やかな雰囲気を作り出していく。
少女は、最初は気づかなかった。
しかし、やがて震えが少しずつ和らぎ、浅かった呼吸が深くなっていくのを感じ取ると、ゆっくりと顔を上げた。
「あ...」
小さな驚きの声。
そして、その小さな瞳が、ロキウスの放つ優しい光を捉えた。
恐怖に満ちていた表情が、少しずつ和らいでいく。まだ完全に安心したわけではないが、少なくとも、何か暖かく、優しいものがここにあることを理解したようだった。
少女は、おそるおそるロキウスの方向へと歩いてきた。
そして、緑の光を放つ苔の前で立ち止まると、そっと手を伸ばした。
「暖かい...」
その言葉も、やはりロキウスには理解できなかった。しかし、その声の調子に込められた安堵と感謝の気持ちは、はっきりと伝わってきた。
少女は、ロキウスの近くに座り込むと、小さく丸くなった。そして、その緑の光に包まれながら、ようやく安らかな表情を見せた。
「よかった...」
ロキウスは、深い安堵を感じていた。
間に合った。この小さな命を、寒さから守ることができた。
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夜が更けていく中、ロキウスは少女を見守り続けた。
聖域の温もりに包まれ、少女の体温は徐々に正常に戻っていく。震えも止まり、呼吸も深く安らかになった。やがて、疲れ切っていた小さな身体は、穏やかな眠りに落ちていった。
ロキウスは、一晩中その光を絶やすことなく、温もりを提供し続けた。
時折、少女が寝返りを打ったり、小さく寝言を呟いたりする度に、「大丈夫かの?」と心配になる。その寝言も、やはり理解できない言葉だったが、内容を推測することはできた。
恐らく、母親を呼んでいるのだろう。家族の名前を呟いているのだろう。
「きっと、とても心配しておられるじゃろうな」
植物園で働いていた頃、迷子になった子供を保護したことが何度かあった。その時の両親の慌てふためく様子、そして子供と再会した時の安堵と涙を、ロキウスは思い出していた。
この子の家族も、きっと同じように心配しているに違いない。
「明日の朝になったら、必ず家に帰してあげよう」
そう心に決めて、ロキウスは夜通し少女を見守り続けた。
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朝が来た。
雪雲が晴れ、久しぶりに陽光が森に降り注ぐ。その光に照らされて、聖域全体が美しく輝いて見えた。
少女は、暖かな光に誘われるように目を覚ました。
「あ...」
最初、自分がどこにいるのか分からずに戸惑っていたが、やがて昨夜のことを思い出したようだった。そして、自分を一晩中守ってくれた緑の光——ロキウスを見つめると、小さく微笑んだ。
「ありがとう」
その言葉は、やはりロキウスには理解できなかった。しかし、その表情、その声の調子、そして何より心から湧き上がる感謝の気持ちは、言葉以上にはっきりと伝わってきた。
少女は、そっとロキウスに手を触れた。
その小さく暖かな手のひらから、純真な心の温もりが伝わってくる。恐怖も不安も消え去り、代わりに深い信頼と愛情が込められている。
「君も、一人ぼっちなの?」
また理解できない言葉だったが、その問いかけるような語調から、少女が何かを尋ねているのは分かった。
ロキウスは、自分なりの方法で答えようとした。
聖域全体を、より暖かく、より優しい光で満たしていく。そして、その光に、自分の気持ちを込める。
『一人ではない。君がいてくれるから。そして、君も一人ではない。わしがついているから』
言葉では伝えられないその想いを、光と温もりに託して送る。
少女は、その変化を敏感に感じ取ったようだった。目を輝かせ、再び微笑むと、小さく頷いた。
「分かった。ありがとう」
そして、立ち上がると、名残惜しそうにロキウスを見つめた。
帰らなければならない。それは、二人とも理解していた。
ロキウスは、少女の故郷の方向を探った。風の流れ、匂いの変化、そして少女自身から漂う微かな化学的な情報を総合して、人里の方向を特定する。
そして、その方向に向かって、一筋の光の道を作り出した。
それは松明のような強い光ではなく、蛍火のように優しく、しかし確実に道を示す光の軌跡。
少女は、その光の道を見て、すぐに理解したようだった。
「あっちなのね。ありがとう!」
嬉しそうに声を上げると、もう一度ロキウスに向かって深々と頭を下げた。そして、光の道に沿って歩き始める。
数歩歩いてから、振り返ると、手を振って別れを告げた。
「また会えるよね?」
その問いかけに、ロキウスは光をひときわ強く輝かせることで答えた。
『いつでも、ここで待っているよ』
少女は、その光を見て満足そうに頷くと、今度こそ本当に歩き去っていった。その足取りは、昨夜とは見違えるほどしっかりとしていた。
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少女の姿が見えなくなった後も、ロキウスはしばらくその方向を見つめていた。
「無事に、家族の元に帰れるじゃろうか」
心配は尽きないが、きっと大丈夫だろう。あの子は強い子だ。そして、今度は道に迷うこともないはずだ。
初めての人間との出会い。
言葉は通じなかったが、心は確実に通じ合った。困っている者を助け、安らぎを与え、そして安全な場所へと導く。
「これが、わしの本当の役割なのじゃな」
森の小さな聖域の守り手として。迷子になった者たちの、最後の頼りどころとして。
これからも、きっと多くの者がここを訪れるだろう。人間だけではなく、様々な種族の、様々な事情を抱えた者たちが。
その全てを、温かく迎え入れてあげよう。
それが、今の自分にできる、最高の生き方なのだから。
「さあ、今日もまた、誰かが来るかもしれんな」
深い満足感と新たな決意を胸に、ロキウスは静かに次の来訪者を待つのだった。
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**第三話 完**
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