第二話 小さな出会い
# 第二話 小さな出会い
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空気が変わった。
それは人間なら「涼しくなった」と表現するであろう変化だが、ロキウスにとってはもっと具体的で、もっと豊かな情報だった。
大気中の水分子の密度が下がり、風の運ぶ化学的なメッセージが変化している。枯れ葉の甘い香り、樹液の濃縮された匂い、そして何より——生き物たちの活動パターンの変化が、微細な振動となって岩を通じて伝わってくる。
秋が来たのだ。
自分の身体も、それに応じて変化していることに気づく。夏の間にゆっくりと広がった緑の部分が、今はより密に、より深く岩の表面に根を張っている。髪の毛よりも細かった根の糸は、今では岩の奥深くまで入り込み、そこから得られる養分の質も変わってきた。
「ふむ...もう、そんなに時が経ったのじゃな」
人間だった頃の時間感覚では測れないが、恐らく数十日、いや数ヶ月が過ぎているのだろう。その間、ロキウスは静かに森の一部となり、季節と共に呼吸をし、無数の小さな生命たちの営みを感じ取ってきた。
蟻たちが冬支度のために忙しく働く足音。栗鼠たちが木の実を埋める時の土の振動。渡り鳥たちが空を通り過ぎる時の気圧の変化。
すべてが、この小さな苔の存在に、豊かな物語を語りかけてくる。
「皆、頑張っておるのう」
そんなことを思いながら、今日もまた静かな一日が始まろうとしていた時——
いつもとは違う、か細い振動が伝わってきた。
それは規則正しい足音でも、力強い羽音でもない。もっと弱々しく、どこか途切れがちな動きの気配。
その時、小さな何かが自分の表面に触れた。
軽やかで、温かく、でも微かに震えているような——
「おや?」
意識を集中させると、それが一匹の小さな虫だということが分かった。触角や足の感触から察するに、恐らく蝶の仲間だろう。しかし、その動きは普通ではない。
片方の羽が傷ついているようで、飛ぶことができずに岩の上を這うように移動している。そして——
体温が低い。とても低い。
「これは...具合が悪いのかの?」
かつて植物園で働いていた頃、傷ついた昆虫たちを見かけることは珍しくなかった。その時の相田静雄は、可能な限り手助けをしていたものだ。
しかし、今の自分には手がない。声をかけることもできない。
それでも——
何かしてあげたい、という気持ちが自然に湧き上がってきた。
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どうすれば、この小さな命を助けることができるだろうか。
人間だった頃なら、そっと手で包んで温めてあげることもできた。安全な場所に移してあげることもできた。しかし、今の自分にはそれができない。
それでも——
「せめて、少しでも温かくしてあげられれば...」
そう思った瞬間、不思議なことが起こった。
自分の内側から、何かが湧き上がってくるのを感じたのだ。それは光合成で得た生命エネルギーとは違う、もっと深いところから来る暖かさ。
まるで心臓の鼓動のように、ゆっくりと、でも確実に、その暖かさが全身に広がっていく。そして——
小さな蝶が、微かに動きを見せた。
「おや?」
意識を集中させると、自分の表面がほんのりと光っていることに気づいた。人間の目には見えないほど微弱だが、確かに温かな緑色の光を放っている。
そして、その光に包まれるように、小さな蝶の体温が少しずつ上がっているのが分かった。
「これは...一体?」
植物学者としての記憶を総動員して考えてみる。光合成の過程で、余剰エネルギーが光として放出されることはある。しかし、これほど意図的に、しかも他の生命を助けるために——
まるで自分の生命力を、直接分け与えているかのような感覚。
小さな蝶は、徐々に元気を取り戻しているようだった。触角がピクピクと動き、足取りもしっかりしてきている。傷ついた羽も、完全ではないが、少し動かせるようになったようだ。
「よかった...」
深い安堵と共に、今まで感じたことのない満足感が心を満たしていく。
自分にも、誰かの役に立つことができるのだ。たとえ手足がなくても、声が出せなくても。
小さな蝶は、しばらくロキウスの表面で休んだ後、ふらつきながらも飛び立っていった。傷ついた羽で、決して力強い飛び方ではなかったが、それでも確実に空へ向かっていく。
「気をつけて行くのじゃよ」
心の中でそう呟きながら、ロキウスは小さな命の旅立ちを見送った。
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それから数日後——
今度は別の来客があった。
地面を這うように近づいてくる、小さくて丸い影。よく感じ取ってみると、それは一匹の針鼠の子供のようだった。
まだ幼く、おそらく生まれて間もないのだろう。母親とはぐれてしまったのか、不安そうに鼻をひくひくと動かしながら、岩の周りをうろうろしている。
「これはまた...迷子かの?」
針鼠の子は、やがてロキウスのいる岩の麓で立ち止まった。そして、まるで安全な場所を見つけたかのように、小さく丸まって眠り始めた。
その時、ロキウスは気づいた。
自分の周囲の空気が、他の場所とは微妙に違っているのだ。より清浄で、より安らぎに満ちている。まるで森の中に小さな聖域ができているかのように。
「そうか...わしは、この場所を安全にしているのじゃな」
意図したわけではない。ただ、この森で静かに生きているだけだった。
しかし、結果として、自分の存在がこの小さな一角を、疲れた生き物たちにとっての憩いの場所に変えているのだ。
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針鼠の子供が安らかに眠る姿を感じながら、ロキウスは深い思索に沈んでいった。
小さな蝶を助けた時。この針鼠の子が安全な場所として自分を選んでくれた時。
どちらも、意図したことではなかった。ただ、困っている命を見過ごすことができなかっただけ。ただ、この場所で静かに生きていただけ。
しかし——
「そうか...わしの役割は、これなのじゃな」
植物園で園長をしていた頃のことを思い出す。あの時も、自分がしていたのは同じことだった。
植物たちが安心して育つことができる環境を整える。訪れる人々が心安らげる空間を提供する。そして、時には傷ついた小さな命に手を差し伸べる。
今も、それは変わらない。
場所も、自分の姿も変わったが、本質的にしていることは同じなのだ。
「森の小さな園長...か」
そう考えると、不思議なものだった。人間だった頃よりも、今の方がずっと自分らしい気がする。
何かを急かされることもなく、成果を求められることもなく。ただ、そこに在って、必要とされた時にそっと手を差し伸べる。
「これこそが、わしの望んでいた生き方だったのかもしれんな」
夜が更けて、針鼠の子の呼吸がより深く、安らかになっていく。きっと、暖かな夢を見ているのだろう。
明日の朝、この子が目を覚ました時、きっと元気を取り戻しているに違いない。そして、母親を探しに行くか、あるいは一人で生きていく道を見つけるだろう。
自分にできるのは、そのための安らぎの時間を提供することだけ。
それで十分だった。
風が吹いて、遠くから様々な生き物たちの気配が伝わってくる。夜行性の動物たちが活動を始め、昼間の生き物たちは休息に入る。
この森には、まだまだ沢山の命が息づいている。その中には、きっと困っている者もいるだろう。道に迷っている者もいるだろう。傷ついている者もいるかもしれない。
その時は——
「また、お手伝いさせてもらおうかの」
ロキウスは、静かにそう決意した。
森の小さな守り神として。誰からも求められたわけではないが、自分自身が選んだ役割として。
秋の夜風が、優しく岩の上を撫でていく。その風に乗って、遠くから聞こえてくるのは、梟の鳴き声。
すべてが調和している。すべてが、あるべき場所にある。
そして自分もまた、この調和の一部なのだ。
「明日も、良い一日になりそうじゃな」
深い満足感と共に、ロキウスは夜の静寂に身を委ねていく。
小さな蝶との出会い。針鼠の子との出会い。
これは始まりに過ぎない。きっと、これからもっと多くの出会いが待っているだろう。
その全てを、温かく迎え入れてあげよう。
それが、今の自分にできる、最高の生き方なのだから。
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**第二話 完**
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