アルテリスの提案 後編
夕暮れ。
生徒会室には沈みゆく陽の赤が満ち、書類の影が細く長く伸びていた。
ムスタファは最後の報告書に署名を終えると、ペンを置き、疲労を紛らわせるように深く息を吐いた。
指先に残るインクの匂いが、今日一日の重さを静かに物語る。
「お疲れ様でございます。お茶をお淹れいたしましょうか」
控えめな声がかけられる。
アルテリスだ。主の様子を気遣うように、机の整理をしながらそっと視線を向けている。
「いや、茶はいい。少し休んだら寮に戻ろう」
ムスタファは疲れを隠さぬ声音で答える。
それでもその芯は揺らがず、張りつめた気配は崩れなかった。
アルテリスが書類の束に目を走らせる。
「……本日だけでも、生徒間の争いがかなり増えましたね」
「瘴気の影響だろう。増え方が尋常ではない」
ムスタファはこめかみを押さえた。
瘴気——悪魔がもたらす負の気。
それは人の心を乱し、些細な不安を争いへと変える。
結界石が破壊されて以来、学園内で瘴気の影響を受ける者は急増していた。
小さな口論が暴力沙汰に変わり、その度に生徒会と騎士団の名を持つ彼らが裏で火消しに走っていた。
「学園内の団員だけでは限界がございますね」
「……団長の意向も理解はするが、これは無茶な命令だ」
公にせず、秘密裏に対処しろという命。
団服を着た団員は学園に入れず、動けるのは学園と騎士団の籍を同時に持つ者——つまり彼らのみ。
火種だらけの学園を、たった数人で抑え込めというのだ。
短い沈黙が落ちたのち、アルテリスが口を開いた。
「……殿下。ひとつお願いがございます」
ムスタファは目を閉じたまま、その声に耳を傾けた。
「なんだ」
「一度、ジャミーラ・シャマル様の神聖術をご覧いただけないでしょうか」
ムスタファは静かに目を開いた。
眉間に深い皺が寄る。
「……何故だ」
「その上で、もし適任とお認めいただければ——
シャマル様を、聖騎士団の“見習い”に推薦していただきたいのです」
生徒会室に、わずかな沈黙が落ちる。
その間に、ムスタファはアルテリスの意図を理解した。
「……なるほど。
確かに、シャマル殿が戦力となれば助かる。
神聖術を扱える者が増えることは、今の状況では歓迎すべきことだ」
ムスタファは書類へ視線を落とす。
「お前は、彼女の神聖術を見たことがあるのか」
「はい。入学式典の日に、拝見いたしました」
アルテリスは丁寧に言葉を紡いだ。
「シャマル様の神聖術は独学とは思えぬほど洗練されております。
制御も正確で、何より……常に学びを怠らず、他者に手を差し伸べられる方。
シャマル様には、聖歌騎士の資質がおありになると存じます」
ムスタファは小さく笑った。
皮肉めいた笑みだが、その奥にはかすかな安心が宿っていた。
「お前は彼女を買い被りすぎだ」
「買い被りかどうかは——実際にご覧いただければお分かりいただけるかと」
アルテリスの声音は静かに揺らぎなく、真っ直ぐだった。
ムスタファはその真剣さを受け、しばし目を閉じる。
そして——静かに息を吐いた。
「……分かった。シャマル殿の実力を確認しよう。
放課後に訓練場を押さえておけ」
「承知いたしました」
アルテリスは深く一礼した。
「それと——オリヴィエ隊長にも声をかけておけ」
「よろしいのですか」
アルテリスが顔を上げ、目を見開く。
「お前の判断は信頼している。
買い被りすぎだとは言ったが……シャマル殿の実力に嘘はないのだろう。
今は悠長に構えている状況ではない。
事は、一度に運んだ方がいい」
「……ありがたきお言葉です。承知いたしました」
深く頭を下げるアルテリスの横顔には、
安堵と希望がわずかに灯っていた。
ムスタファはその姿をじっと見つめ、胸の奥で渦巻く複雑な思いを静かに押し殺した。
窓の外では、赤い夕陽がゆっくりと沈んでいく。
やがて訪れる夜の気配が、生徒会室を静かに満たしていった。




