契約を知る者
アルテリスは、生徒会室の扉を静かに叩いた。
「ムスタファ殿下、アルテリスです」
「入れ」
短い応答を受け、扉を開く。
部屋の中央には長机がひとつ。
その最奥にムスタファが座り、斜め向かいにはジャミーラの見知らぬ黒髪の青年が控えていた。
「貴女は……」
ムスタファが僅かに目を見開く。
その視線に気づいた青年が、こちらを振り返った。
「シャマル様」
驚いた声音。
面識がないはずだが、青年はジャミーラを知っているようだった。
「ジャミーラ・シャマル様は殿下のご婚約者であらせられます。ご一緒いただくのが自然かと、お連れいたしました。よろしいですね?」
「……ああ」
主に対して有無を言わせぬ強気な物言い。
それほど親しい間柄なのだろうか、とジャミーラは内心で首をかしげた。
「シャマル様、こちらへどうぞ」
ムスタファの隣の席を示すと、ジャミーラは丁寧に礼をして腰を下ろす。
ムスタファは目の前の青年を指した。
「シャマル嬢、彼は側近のライル・イルハンです」
青年が深く会釈する。
「ムスタファ殿下の側近、ライル・イルハンと申します」
「ジャミーラ・シャマルです。よろしくお願い申し上げます」
ランデュートの民に共通する、黒髪と深紅の瞳。
ライルもまた、その特徴をはっきりと備えていた。
「ここにいる者は皆、上級生です。何かあれば気兼ねなくお尋ねください」
「ありがとうございます」
ジャミーラは斜め前のアルテリスと目を合わせ、微笑みを交わした。
穏やかな時間になりそうだと感じながら、四人は各々机へ向かい、やがて静かな自習が始まった。
⚜️⚜️⚜️
「そろそろ休憩にいたしませんか」
ライルが腕を伸ばしながら声をかける。
「そうだな。……アル、お茶をお願いできるか」
「承知いたしました。ライル様、お手伝いいただけますか」
待っていましたとばかりにアルテリスが呼びかける。
ライルは「え、俺が?」と目を丸くしたが、
次の瞬間、ムスタファとジャミーラを見比べ、何かに気づいたように頷いた。
「……なるほど。はいはい」
二人は礼をして部屋を出ていった。
静けさが訪れる。
その中で、ムスタファが小さく溜息を漏らした。
「アルテリスさんが、気を利かせてくださったようですね」
「そのようですね」
ジャミーラは姿勢を正し、口を開いた。
「折角ですから、昨晩のお話について、改めて確認をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ」
ジャミーラはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「殿下のお望みは、
対外的には婚約者として振る舞うこと。
殿下からの愛情を求めないこと。
そして、この契約を他言無用とすること。
こちらの認識で間違いありませんか」
「はい」
「では、婚約者として具体的にはどこまで求められますか。社交や領地経営のお手伝いなどは……?」
「不要です。私はただ新たな縁談を避けたいだけ。シャマル様は自由にお過ごしください」
なるほど、とジャミーラは心中で納得する。
(つまり、殿下が必要としているのは “婚約者という形だけ” なのね)
「それと……この契約については、アルテリスさんもご存知ないのでしょうか?」
「アルは何も知りません」
やはり、とジャミーラの胸に確信が落ちた。
「殿下とわたくし以外で、この契約を知る方はいらっしゃいますか」
「誰一人、おりません」
「お相手の方にも?」
「……伝えておりません」
「それで……よろしいのですか?」
驚きに、ジャミーラは思わず目を丸くした。
予想を上回る秘密主義ぶりだ。
「差し出がましいようですが……せめてお相手の方には、お伝えになった方がよろしいのではないでしょうか」
「……おっしゃる通りです」
返ってきた声はどこか力を欠いていた。
(……伝える気は、なさそうね)
殿下の恋は前途多難だとジャミーラは思う。
あるいは——全部殿下の作り話という可能性まで浮かんだが、
(事情がおありでしょうし……深入りはやめておきましょう)
「この件に関して、これ以上は伺いませんわ。
最後に、わたくしから一つ、ご提案させていただいてもよろしいでしょうか?」
「何でしょう」
ジャミーラは柔らかく視線を向ける。
「殿下……どうか、わたくしにはもう少し砕けた口調でお話しくださいませ。
名前も、シャマル嬢ではなく——“ジャミーラ”と、お呼びください。
いつまでもよそよそしくては、かえって不自然に見えてしまいますわ」
一瞬、ムスタファは沈黙した。
「……不自然、ですか」
「ええ。
わたくしたちは“婚約者同士”という建前でございますでしょう?
周囲の目をごまかすためにも、親しげに振る舞った方が良いかと存じますわ」
言葉は穏やかだが、ほんの少し“いたずらめいた”鋭さも宿っていた。
ムスタファはしばし考え、ゆっくりと頷く。
「……分かった」
「ありがとうございます、殿下。
その一言だけでも、ずいぶんと印象が違いますわ」
かすかな苦笑を混ぜてジャミーラがそう言うと、ムスタファは小さく肩を落とした。
「……貴女は、思ったより遠慮がないな」
「契約の相手ですもの。遠慮ばかりでは務まりませんわ」
控えめな微笑が咲く。
コンコン、と扉が叩かれる。
アルテリスとライルの戻りだ。
こうして契約の確認は一旦幕を閉じた。
⚜️⚜️⚜️
生徒会室から寮への帰り道。
勉強会は日没とともにお開きになり、アルテリスが女子寮まで送ることになった。
「今日はありがとう」
「お勉強は捗りましたか」
「ええ。お陰様で」
「私達は毎日、放課後はここにおります。
是非またいらしてください」
毎日——。
「図書館にいたのは、わたくしを探すため?」
アルテリスは頷いた。
「やはり……わたくし、貴方方の掌で踊らされていたようね」
ジャミーラはわざと唇を尖らせる。
アルテリスは少し困ったように俯き、誠実な声で答えた。
「殿下には敵が多くいらっしゃいます。側近として、信の置けぬ者を近づけるわけには参りませんでした。……ご無礼を、お許しください」
その言葉に、少し胸が温かくなる。
彼が正直に明かしたのは、信頼の証なのだろう。
「ではお詫びとして……またお茶会をしてくださらない?もちろん、殿下とイルハン様もご一緒に。どうかしら?」
「ご提案してみます」
「ふふ……楽しみにしているわ」
女子寮の前で足を止める。
「では、また。おやすみなさい、アルテリスさん」
「おやすみなさいませ」
深く一礼するアルテリスに見送られ、
ジャミーラは静かな寮へと帰っていった。




