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契約

漆黒のコートを纏うムスタファと、薄紫のドレスに身を包むジャミーラ。

講堂の中央で舞うふたりの姿は幻想的で、アルテリスは壁際に控えながら静かにその光景を見守っていた。


美男美女──誰が見ても絵になる組み合わせだ。

普段は悪魔の民族と蔑む令息令嬢たちでさえ、今日はただ見惚れている。


喜ばしいはずなのに、胸の奥に複雑な気配が渦を巻いた。


「よお、アル。踊らないのか?ご令嬢たちがお前と踊りたそうにしてるぞ」


思考の海に沈んでいたところへ、ライルが飲み物を二つ持って現れた。

口の端にお菓子をつけたまま、にやにやと笑っている。


「私は殿下の側仕えですので」


「お堅いねぇ。お前も“生徒”なんだから楽しめよ。ほれ」


差し出された飲み物を、アルテリスは断りきれずに受け取る。


ライル・イルハン。

ランデュート王国イルハン侯爵家の次男。

同じ側近とはいえ、貴族の彼と庶子の自分では立場が違う。

それでも気さくに接してくれる彼の気遣いは、素直に嬉しいものだった。


「……おふたりの様子はどうだ」


「良い雰囲気だと思います」


並んで主と婚約者を眺めながら、ライルがぽつりと呟く。


「……甘いな」


その声音は、なぜかひどく重かった。


⚜️⚜️⚜️


曲が終わると、ムスタファはジャミーラを連れて庭園へ向かった。

噴水のそば──風の音と、遠くから聞こえる音楽だけが響く静かな場所。


そこでムスタファは立ち止まり、深紅の瞳でジャミーラを見据える。


そして、一呼吸置いて告げた。


「失礼を承知で申し上げます。私は貴殿を愛することはできません」


「え……?」


あまりに突然すぎる言葉に、ジャミーラは思考が止まった。


物心つく前から決められていた婚約。

妃となるために費やした時間。

努力、覚悟──それらが一瞬で崩れ落ちるような感覚。


しばらくして、やっと声が出た。


「……理由を、お伺いしても宜しいでしょうか」


噂のせい?

アルテリスから何か聞いた?

心当たりはない。だからこそ恐ろしい。


ムスタファは淡々と告げた。


「私には想い人がおります」


「そう、ですか」


どんな理由より納得のいく答えだった。

だが胸の奥がひどく冷えていくのを感じた。


「では、殿下のお話とは、わたくしとの婚約を破棄したいというお話ですのね」


だがムスタファは首を横に振った。


「いいえ。婚約は破棄せず、貴方には、対外的には私の婚約者でいていただきたい」


「は?」


あまりの身勝手さに、言葉遣いも崩れる。


「承諾していただけるのであれば、それ以外は、貴方の自由にして構いません。何不自由のない生活を保証いたします」


「意味がわかりませんわ!」


ジャミーラは不快感を隠し切れず、


「想い人がおられるのであれば、わたくしとの婚約は破談にして、正式にその方と婚約なさればいいのでは?」


冷たく言い放った。


「それは、出来ないのです」


その理由を、ジャミーラは一つだけ思い当たる。


「……その方は、貴族ではないのですね」


返答はない。それが肯定だった。


愛人にするつもりなのだ。

貴族の男にありがちな話だとわかっていても、実際に突きつけられると胸が痛む。


「この提案は、貴女にとっても悪い話ではありません」


「どういう意味でしょうか」


ムスタファは静かに言った。


「シャマル嬢は──聖歌騎士に憧れておられるのでしょう?」


ジャミーラは息を呑んだ。


「……アルテリスさんに伺ったのですね」


胸の奥がざわつく。

秘密の夢を話した相手。

その言葉を、主君が今ここで利用している──そう思えてしまった。


「婚約を破棄すれば、貴方はこの学園に留まる理由を失います。

しかし私の婚約者でいる限り、ここで学び続けられる。

見習いとして騎士団の試験を受けることも、可能でしょう」


悪魔の囁きのように甘い言葉だった。


本当に、聖歌騎士を目指していいのだと、背中を押すような。


「殿下は……反対なさらないのですか」


「貴女の人生は貴女のものです。好きに生きればよい」


「世間の評判は……?」


「悪評なら、既に数え切れない程ございます。これ以上増えたところで、気にはいたしません」


静かで、しかし揺るがない声。


ジャミーラの胸に宿っていた“不安”が、少しずつ溶けていく。


思わず、誰よりも近くにいたはずの金色の少年──アルテリスの顔が脳裏をよぎった。


(……情報を集めるために、私に近づいたの?

友達になれたと思っていたのに……)


胸の奥が少しだけ痛む。


それでも。


「殿下のお話は魅力的ですわ。けれど、これは非常に厳しい道程です。それでもお選びになるのですか」


ムスタファはきっぱりと頷いた。


「少しでも可能性がある限り、私は行動します。行動しなければ、叶うものも叶わない」


その瞳には揺るぎない意志があった。


「……殿下は本当に、その方を愛しておられるのですね」


ほんの少しだけ、羨ましいと思った。


自分もいつか──こんな風に誰かに想われる日が来るだろうか。


ジャミーラは静かに息を吸い、背筋を伸ばした。


「……かしこまりました。その契約、お受けいたしますわ」


この決断が吉となるか凶となるか。

それでも彼女は、諦めかけた夢のために立ち上がる決意を固めた。

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