表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

クールでカタブツなOLお姉さんには『推し』のWEB小説家がいます!

作者: 神邪エリス

 都内某所の、とある企業のオフィス内にて。

 男性社員3人が椅子を並べて仕事もそっちのけで他愛ない雑談をしていた。


「でさぁ、この前合コンした相手が……」

「マジかよ。やべーな」

「ハズレくじ引いたってか! ははっ!」


 周りの社員もオフィス内の雰囲気に流されるように背伸びをしたり、あくびをしたり。あるいは仕事の関係ない話を始める。


 そんな時。ひとりの女性社員がそんな緩みきった空気を切り裂くように言う。


「──そこ。仕事中は私語を慎みなさい」

「は、はいっ」

「すみませんっ!」

「ひぇ!」


 女性社員の放った言葉は。まるでピンと張った琴の音を弾いたような場の空気が引き締まる声だった。男性社員達はその威圧感にビクリと怯える。

 

 鷲津わしづ 美沙みさ。28歳バツイチ。

 スラリと高い170センチの長身に。いつも真一文字に固く結んだ唇の下にはセクシーな黒ボクロが一点だけポツリと付いている。いつも眉間にシワを寄せており。濃青色の肩まで掛かるデコ出しセミロングの髪をふわりとなびかせ。既存の女性像など知ったものかと服装は細くて長い脚が引き立つ紺色のパンツスーツ姿だ。


 いかにも『お堅い』印象の丸メガネを掛け。獲物を狙う鷲のように鋭い目つきをしている彼女を周りの社員は『イーグル・レディ』と呼ぶ。 ちなみに一部のマゾっけのある社員から陰ながら熱狂的な支持を受けていることを本人は知らない。


 注意された男性社員達は。

 小さな声でブツブツと文句を言う


「別にちょっと話すくらいいいじゃん……」

「鷲津先輩って、すげー美人だけど……なんつーか、おかたいよな」

「分かる。っていうかさ、なんかあの人って『お節介焼き』だよな」


 美沙は獲物を狩るわしのように鋭利な眼差しを陰口を言う男性社員達に向けながら言う。


「何か問題があるかしら」


「ひっ」

「やばいやばい。仕事戻るぞ……!」

「でもちょっと興奮するかも……」


 この一件で社内の空気が引き締まり。

 無事、今日の分の仕事が終わるのだった。


※※※


「はぁ……疲れた」


 カツカツと地面を蹴り。

 帰宅するため駅前を歩く美沙みさ

 今日も一日激務であった。肩は凝るし、メイクは汗で落ちるし、それに──。


(そんなに怖いのかしら、私って……)


 美沙の脳裏には男性社員の恐怖に脅えた顔が張り付いていた。

 猛獣でも見るかのような戦々恐々とした眼差し。

 仕事上どんな困難に出会っても乗り越えてきた美沙でも流石に落ち込んでしまう。


 スマホを取り出し。自身の顔を確かめる。

 ……愛想のない仏頂面だと思った。まるで血の通っていない蝋人形みたいな顔。美沙は自分の容姿が好きではなかった。


 この強面のせいで社内では孤立している。

 お昼ご飯を一緒に誘われたこともないし、下心以外で飲みに誘われたことも皆無である。


 ため息をつきながら駅前に着き。

 美沙は近くのコンビニに立ち寄る。

 カゴにカップ麺とウイスキーのグラスを入れ。レジに向かう。しかし店員の姿はなく。仕方なく声をかけて呼び出す美沙である。


「あの、すみません」


 ……反応がない。美沙は辺りを見渡す。

 しかし客がまばらにいるのみで、肝心かんじんの店員の姿はない。もう一度呼び出す美沙である。


「あの。レジお願いします」

「……っしゃーす」


 のそのそっと若い男の店員がレジの向こうからやってきた。ふぁぁっとアクビなんかしながら。ダルそうに首を捻っている。クセっ毛の前髪が目元を隠し、重ったるしくふわふわとバウンドしていた。


(なんなの……この店員さん)


 第一印象は最悪だった。

 美沙のそんな気持ちなど知る由もなく。

 店員は商品をバーコードに読み取らせ。

 気だるそうにしながらも慣れた手つきでレジの仕事を進めていく。


「おかいけー。420円になります」

「電子決済で……」

「バーコード、いいっすかぁー?」


 気だるそうな声で店員が言う。

 何か言いたくなる気持ちを抑え、美沙はスマホを店員の前に差し出す。店員は画面に表示されたバーコードを読み取り、やはり気だるそうな声で。


「はい、おっけーです。あ、レシートは要りますか?」

「……いえ」

「そうですか。あざっしたー」


 会社に勤める身としては。

 こういったトラブルの原因となるような接客に引っかかりを覚える美沙。だから店員にこう言う。


「あの」

「はい?」

「私は別に構わないけど、そういう接客はあまり良くないと思うわ」

「……俺、ただのバイトだし。そこまで求められても」


 ぶつくさと言う店員に。

 自分の部下でもないのに注意する『お節介焼き』の美沙だ。


「そういう問題じゃないわ。トラブルの原因になるって話よ。アナタも無駄な争いを生みたくないでしょ」

「……」

「分かりましたか?」

「……はい」


 肩を落とし。反省した様子の店員。

 と、思ったら。クスッと笑い。


「……ははっ」

「何がおかしいのかしら」


 怒りの感情を抑えながら美沙が言うと。

 店員はこう言った。


「いや、お節介焼きだなと」

「いい迷惑かしら。別にどう思われても構わな──」

「いや、そうは思ってないっすよ」

「嘘よ。どうせアナタも……っ」


 そこまで言って。言葉を詰まらせる美沙。

 今日初めて会ったコンビニ店員に何を怒っているのか。

 きっと、ストレスが溜まっているのだ。

 美沙はそう思い、下唇を噛み締める。


 すると店員はまたクスクスと笑う。

 思わず言い返してしまう美沙である。


「笑わないで頂戴」

「笑いますよ。だって……ふふ」

「何がおかしいの。私はいつだって……真剣なのに」

「お客さんって、なんつーか。『お堅い』ですよね」


 『お堅い』その一言にますます怒りを掻き立てられる美沙。こっちは真剣に相手と向き合っているのに、軽く流され、あまつさえ陰口を言われたり笑われたりするのだ。そんなの理不尽すぎて許せない。


 それもこれも。自分の生真面目な性格のせいだ。

 こんな性格が嫌だ。こんな人生望んでいない。


「お客さん。あの」

「何かしら」


 いつにも増してムスッとした顔で美沙が言うと。

 店員は──頬をかきながら。少し恥ずかしそうに。


「ありがとうございます……優しいんですね」

「え……?」

「俺の今後のために注意してくれたんですよね。分かりますよ。だって……お客さんからは、悪意を一切感じないから」

「……」


 店員は「ははっ」と漏れ出すような笑みをこぼす。

 呆気にとられる美沙。だって、初めて相手に真意が伝わったから。だが、冷静になって考えると妙に恥ずかしくなって。つい美沙は無愛想な返事をする。


「別に……大人として当然のことよ」

「へぇ……そういうこと言うんだ」

「な、なによっ」

「いや? なんでもないですよ」


 店員のその言いかたに腹が立つ美沙。

 どこか余裕ぶって高みから覗いている感じが鼻につく。

 だから「ふんっ」と鼻を鳴らし。


「じゃあ……今度から気をつけることね」

「ふふ、分かりました。ありがとうございます」


(二度とこのコンビニには行かないわ……)


 美沙はそう思い。その場を去るのだった。

 

※※※


 電車に乗りこみ。美沙はスマホを開く。

 すると1件の通知が数時間前に来ていることに気付いた。

 朝からスマホを起動させていないので気付かなかった。


(あ……進沢すすみざわアユム先生の最新話投稿されてる……)


 人気小説投稿サイトの「小説家になりてぇ」に作品を投稿しているWeb小説家の「進沢すすみざわアユム」

 美沙はこの作家の書くラブコメが密かに好きだった。


 学生時代は恋愛経験など皆無で。社会人になってから何かの気の迷いで身体を許した男とも長く続かず。

 勉強や仕事に明け暮れた美沙にとって、進沢アユムの作品はまるで夢物語のように映るのだ。

 1年近く「アユム」を推し続けている大きな理由のひとつだ。


 家に帰り。スーツをハンガーに掛け。

 緩やかな部屋着姿になると。美沙はパソコンを起動させる。テーブルにはカップ麺と、それからウイスキーがグラスに一杯だけ注がれている。


 「アユム」の小説を読む際はいつもこうしている美沙である。カップ麺をすすりながら、ウイスキーを飲み。作品の世界に浸る。彼女のささやかな楽しみだった。


 ──しばらく経ってから。


「んん……今回も面白かった」


 大きく背伸びをして。心地いい読後感に浸る美沙。

 やはり「アユム」の作品は面白い。ハズレ回がない。

 最新話では主人公がヒロインに告白をして。今後は甘くてとろける恋人生活が始まることが予想された。


 こんな素敵な作品を書く進沢アユム。

 どんな人なんだろう。普段はどんな風に暮らしているのだろうか。そんな疑問が尽きない美沙だ。


(会ってみたい、かも……でも、恥ずかしいわ)


 ベッドに身体を倒しながら。

 眠い目をパチパチと開け閉めしながらそんなことを考え。ふとスマホを起動させSNSを開くと、「アユム」が呟きを更新していた。昼間に予約投稿した最新話を投稿したという内容だ。


 美沙は画面をタップして。文字を入力する。

 トン……と送信ボタンを押して。


『最新話も面白かったです』


 気が抜けたようにベッドに寝たままスマホを胸元に置き。目を閉じる美沙。ずむむっと豊満な乳肉に固いスマホが埋まる。

 返信が返ってくるのを待っていたいが、激務によって強烈な睡魔が襲ってきた。


 1分も経たずに気絶するように眠る美沙。

 夢の中では「アユム」が描く世界のキャラクターになっていた。


※※※


 次の日は休日だった。

 私生活はだらしのない女の美沙。昼の12時過ぎになってようやく身体を起こし始めた。ボサボサの髪を弾ませながら、夢の世界に片足を突っ込んでいる。ベッドの上でボーッとすることも忘れてはいない。


 ハッと気付き。SNSをチェックする。

 通知が2件来ていた。ツイートや返信に反応したことを意味する「いいね」と。それから。


『ミーサさん、いつも読んで下さってありがとうございます』


 深呼吸のあと。再びベッドに身体を倒す美沙。

 「ミーサ」とは美沙みさのアカウント名だ。

 最推しの「アユム」の世界に一時でも自分と関わる時間があったことに。狂いそうなほどの喜びを感じる。


 そうなると。会ってみたい欲求が収まらなくなる。

 いやしかし、実際に会ってどうするというのか。

 「いつも作品読んでいます」「ずっと応援しています」そんなチープな言葉しか浮かびそうにない。何のための高学歴なのかと頭を抱える美沙である。


 「アユム」の呟きをさかのぼる美沙。

 まるでネットストーカーのようだ。

 実際、美沙は「アユム」の盲信者といっても過言ではなかった。だって彼の作品は美沙にとって辛く苦しい仕事を生きる上での活力になっているし、自分の乾き切った独身生活を潤してくれる「神様」のような存在だから。そんな「神様」の事をもっと知りたいと思うのはしょうがないことだった。


「あれ……これって」


 目に止まったのは「アユム」が投稿したある呟き。

 カフェに行って執筆をしているという内容に、真上から撮られた珈琲カップの画像が添付されている。たったそれだけの内容だ。しかし美沙の目にはあるものが映し出されていた。随分昔に投稿された呟きなので見逃していた。


 珈琲カップのそばに置かれたスプーンに反射して。

 映っているのだ。人の顔が。

 話題になっていないので、恐らく気付いたのは美沙だけだろう。それに、なにも「アユム」は書籍化しているわけでも、誰もが知っている人気作家なわけでもない。Web小説が好きな人達の間で陰ながら人気を得ているだけの、言ってしまえば「素人作家」だ。だから今さら顔がバレようと何があろうとも、さほど盛り上がることはないのだ。


 ……しかし美沙は違った。

 だって何を隠そう彼女は「アユム」の盲信者だから。

 「アユム」の作品を生き甲斐にする、「アユム」に人生を救われたキャリアウーマンで、何よりオタクだから。


 「推し」の顔バレというのは、喉から手が出るほど欲しい情報だった。だから目を血眼にしてスプーンに反射した男の画像を食い入るように見る美沙である。


 流石に顔立ちまでは分からないが、髪型はなんとなくパーマがかった今風の髪型だと特定できた。いや、元からクセっ毛という可能性もある。


 ふと、美沙の脳裏に少し前に会ったコンビニ店員の顔が過ぎる。そう。例えるならあんな感じのクセのある髪だ。


(……なんでこんな時にあの男のことなんか思い出しちゃうのかしら)


 せっかく愛しの「アユム」のご尊顔を想像していたのに、あの忌まわしいコンビニ店員のことを考えるだなんて。美沙は首を横に振って彼のことを忘れようとした。


(進沢アユム先生……お会いしたいです)


 高鳴る胸の鼓動を手で抑え。

 頬を緩ませる美沙だった。


※※※


 せっかくの休日だというのに。

 美沙は部屋にこもってパソコンを起動させ「アユム」の作品を読み漁っていた。「アユム」は連載作品の他に短編小説もいくつか投稿しており、美沙にとっては何度読んでも足りないほど心が踊るものだった。


 ふとスマホを手に取り。

 SNSを起動させる。「アユム」の呟きが更新されていないかチェックするのだ。

 すると……1件の呟きが更新されていた。それも、画像つきの。


「え……!? ここって……」


 友達とカフェで執筆しているという内容の呟きだった。

 珈琲の写真も添付されている。

 しかし……いつもと違うことがあった。それは「アユム」が来ているカフェの場所だ。


 そこは、美沙の自宅のすぐ近くだった。

 個人経営の店なので同じ名前のカフェは2つとない。歩いて5分ほどの距離にある、美沙も何度か行ったことのある場所だ。


(アユム先生が……そこにいらっしゃる……?!)


 すぐ近くに「推し」がいるという事実。

 オタクお姉さんの美沙を興奮させるには十分だった。

 意味もなく部屋中を歩いたり止まったりを繰り返し。

 「はぁ……はぁ……」と、まるでイケナイことの最中のように息を荒らげる。


 10分ほどソワソワして。ようやく覚悟が決まった。

 行くしかない。行った先でどうするかなんて考えない。

 「推し」が「目の前」にいて、同じ空気を吸いたい。

 それだけが美沙を身体を突き動かした。


 ドタバタしながら着替えを済ませ。

 メイクにも時間をかけ。

 家を出るバツイチオタクお姉さんだった。 


※※※


 サングラスを掛け。目深に帽子を被り。

 美沙は「アユム」がいるとされるカフェに到着した。

 店の扉を開けると「カランコロン」と来客を知らせる鈴の音色が鳴り、にこやかな顔の店員が出迎えてくれる。


「いらっしゃいませ。1名様でしょうか?」

「……ッ」

「あの、お客様……?」

「……ッ。ごほんごほんっ。……ひとりで」

「はい。かしこまりました。ではお席までご案内します」


 同じ空間に「推し」がいるかもしれない。

 そんな事実が美沙の喉を詰まらせる。

 もし「アユム」に声を聞かれたら。自分が来たことに気付いたら。そんなことを考えると呼吸が荒くなる。


 店員に空いている席まで案内され。

 椅子に腰かける美沙。と、そこである重大な誤りに気付く。


(アユム先生がいる席が分からないわ……!)


 ガーンとショックを受ける美沙。

 これでは来た意味がない。そもそも本当にいるのかも分からないのに、まんまと現場に駆けつけた自分は間抜けなのではないか。だなんてことを考え、そして絶望した。


 しょうがない。適当に珈琲でも飲んで帰るか。

 そう美沙が思っていると。

 通路を挟んで隣側の席で若者2人が話している声が聞こえた。


「──ホント、あゆむって小説バカだよなぁ」

「うっせ。お前には関係ないだろ」

「この話になると口が悪くなるところとか、まさに小説バカじゃん」


 「あゆむ」と呼ばれた青年の声に。

 美沙は聞き覚えがあった。

 だってつい昨日話した相手だから。

 

(やっぱり……あのコンビニ店員さんだわ)


 サングラス越しにチラリと相手の顔を覗いて。

 昨日の記憶と照らし合わせた結果。99.98パーセントの確率で同一人物だと美沙の脳内コンピュータは予想した。

 

 せっかくの休日にも関わらずまた会うことになるとは。

 美沙は昨日の腹立たしい出来事を思い出し、ぐぬぬと拳を固く握りしめた。


 ……と、遅れてきて。ようやく美沙の脳内コンピュータはある可能性を美沙に投げかけてきた。

 店員の名前は「あゆむ」。話している中で飛び交う「小説」という単語。スプーンに反射した「アユム」の髪型と類似するこの青年。


 心臓の鼓動音が美沙の身体中に響く。

 呼吸も荒くなり。いつの間にか出された水も喉を通らない。それに何より認めたくなかったから。あのコンビニ店員と……推しが同一人物だと。


(嘘よ……そんなの、絶対……!)


 嘘であることを暴くために。

 美沙は珈琲を一杯だけ注文し。

 隣の席に座る青年達の話に耳を傾けることにした。


「……で、どうするんだよ。この先の展開」

「それなんだけどさ……そろそろかなって」

「そろそろ?」

「いや、そろそろ頃合いかなって」

「ってことはなんだ、完結させるのか」


 歩と呼ばれる青年はコクリと頷き。


「うん。企画に応募出来る文字数は超えてるからな。次回で最終話にするよ」

「マジか。なんか感慨深いな」

「お前にもアイデア考えてもらったからな」

「ホント、お疲れさん。アユムせんせー」


 美沙は震える手でコーヒーカップを取る。

 目の前では大変物騒な話をしており、それが美沙の心臓をバクバクと鳴らす。目の前の青年が自分の推しだと認めたくないのに、信じざるを得ない情報が飛び交っている。


(アユム先生の作品が関係するなんて……嘘よっ。信じないわ……!)


 ギリッとサングラス越しに鋭い目つきになり。

 イカついオーラを放ちながら。スマホを手に取り。

 SNSを開き。文字を入力する美沙である。


「あ、通知来た」

「噂の熱狂的ファンって人じゃねぇの?」


 美沙は「アユム」の呟きに「そこのカフェは珈琲よりもホットココアが美味しいですよ」という一見すると何気ないリプライを送った。これで目の前の男がどう反応するのか確かめるのだ。


 歩と呼ばれる青年はスマホを見つめ。

 タンタン……と画面をタップして文字を入力する。

 しばらくして。打ち終わったのかスマホから目を離す。

 すると友人は歩に別の話を振る。


「そういやさ、この前俺の彼女がさぁ、家に来たんだけど」

「なんだまた自慢か。ノロケなのか?」

「いや、事実を話してるのさ。てかさ、歩だって顔はいいんだから、彼女のひとりくらい作れよなー? 小説家目指すのもいいけどさ、学生は学生らしく恋しようぜ?」

「俺はパス。今は夢追うのに精一杯だし」

「お堅い男だな……昔は結構遊んでたクセに」

「はいはい。分かったっての……」


(もうっ。早くホットココアを頼みなさいよっ。これじゃあ本人か確認できないじゃないの……)


 心の中でぷりぷりと怒る美沙。

 若い男の色恋話なんて興味もない。

 なんで自分はせっかくの休みにこんな無駄な時間を過ごしているのだろうか。美沙はそう考え、ため息をついた。


 ふと、SNSに通知が来ていることに気付く。

 美沙がチェックすると。


『そうなんですね。今度頼んでみます。教えて下さってありがとうございます』


「〜〜〜〜〜っっ♡♡♡」


 アユムからの返信だった。

 美沙は身を悶えさせて喜びに狂う。

 脳内を真っピンクに染め上げ。息を荒らげながらこう思う。


(アユム先生から返信来た♡アユム先生に感謝された♡アユム先生の行動の中に私の提案が混じっちゃった♡すき♡すき♡アユム先生すき♡♡だいすき♡♡♡)


 目の奥をハート型にして。喜びに狂い悶える28歳バツイチお姉さんの鷲津わしづ美沙みさ。傍から見ると不審者にしか見えない。


 そんなことをしている間に歩と友人は帰る支度を始める。


「っと。そろそろ帰るかぁ。忘れもんすんなよ、歩」

「はいはい。分かったよ」


 美沙が我を忘れて狂い悶えている間に。

 2人は会計を済ませ。店を出てしまった。

 はっと気付き。美沙は思う。


(結局あの子がアユム先生なのか分からなかったわ……)


 モヤモヤした気持ちの中。

 美沙はひとりで冷めきった珈琲に口をつけるのだった。


※※※


 次の日。美沙はいつにもまして鋭い目つきで仕事をしていた。まるで獲物を逃して飢えに苦しむ鷲のような。そんな鋭利で禍々しいオーラを身にまとった彼女に、周りの社員はビクビクと怯える。


「今日の鷲津先輩(イーグル・レディ)……なんかいつもより怖くないか……」

「ああ……殺気立ってるよな……あまり刺激しないほうが良さそうだ」


 美沙が苛立っている理由は昨日の件についてだった。

 あの青年が自分の推しの「進沢アユム」なのか。それが気になって気になって仕方ないのだ。


 パソコンのキーボードを打つ音もいつにも増して乱暴だ。そんなにイラついた態度で仕事をすれば社内の空気も悪くなるというのに。しかし美沙はその事実に気付かないのだ。


 ──今日の仕事が終わり。美沙は退勤する。

 駅に向かって夜の道を歩く。今日はアユムのこと……いや、正確にはあのあゆむという青年のことで頭がいっぱいだった。

 そんな中でもミスなく最低限の仕事量はこなせるバリキャリの美沙である。


 考え事をしながら道を歩いていると。

 ふと、駅前のコンビニに目が止まった。

 先日と同じ時間。同じコンビニ。

 今日はあの店員がいるだろうか。美沙は目の前で夜の道をランランと照らしているコンビニをじっと見つめる。


(確認するだけ……もう一度……たった一度だけ)


 自分は『安心』したいだけ。

 あの男が自分の推しではないのだと。

 そう安心して、心置きなく業務にてっすることができるように。だからもう一度この場に足を踏み入れるのだ。


 そう自分を納得させながら。

 美沙は先日訪れたコンビニに足を踏み入れる。

 自動ドアを開けると安っぽい入店音がして、店員の声が聞こえる。


「いらっしゃいませー」


 あの男の声だ。美沙は唇をキュッと噛み締め。

 前髪を指で弄って手直しをしながら。店内に入る。

 すると──例の男。あゆむが品物の整理をしていた。

 美沙に気付くと、目線を合わせてペコリとお辞儀をする。笑顔を見せるのも忘れてはいない。


(何よ……ちゃんとしようと思えばできるんじゃない)


 そうなると先日のダラしない態度はなんだったのかとモヤモヤする美沙である。

 店内を意味もなく歩き回り。その度にチラッチラッと歩のことを見る。何度も行き来していると、流石に変だと思ったのか。歩が美沙にこう言う。


「あの……お客さん」

「……何か用かしら」

「用ってか……そっちが何か用事があるんじゃ……」

「別に……アナタと話すことなんてないわ」

「じゃあチラチラ見るのを止めてもらっていいすか?」

「……ッ」


 何も言い返せない美沙みさ

 ぐぬぬ……と歩を睨みつけていると。

 歩はクスッとイタズラそうに笑い。


「もしかして、俺に会いに来たとか……?」

「……は?」

「冗談っすよ。本気にしたんですか?」

「……お、大人をからかうんじゃありませんっ」

「別にからかってないですよ。ひとつの仮説です。俺はいつだって『大真面目』なんすから」

「……ッ」


 やはりこの男は嫌いだ。

 変に女心を刺激してきて。自分の魅力を理解しているような余裕ぶった雰囲気が何度会っても鼻につく。


 美沙は精一杯強気に振る舞いながら。


「私は……アナタのこと、忘れたいのっ」

「なら、忘れればいいのに」

「そうもいかないのっ。なぜだかアナタのことを思い出しちゃって……だ、だから……」

「へぇ。それってさ、お客さん」


 クスクスと笑いながら。歩は言う。


「俺に惚れちゃったんじゃないすか?」

「は、はぁぁ???」

「でも今は無理です。ごめんなさいね。実は夢があって、ここでバイトしてて。だから……夢を叶えるまでは恋とか愛とか……距離を置いてるんです」

「わ、私は別に……」

「あ、俺レジ行かなきゃ。じゃ、またね。お客さん」

「ちょっと……!」


 タッタと駆け出し。歩はレジに向かい仕事を始めた。

 圧倒的な敗北感を感じた美沙である。

 幾度となく修羅場をくぐりぬけ。どんな困難にも立ち向かってきた自分が、たかがコンビニ店員に負けるなんて……。いや、仕事で優劣を付けるべきではないのだが。


(……なんなの、この気持ち)


 胸が苦しい。チクチクする。

 歩のことが忘れられない。忘れようと記憶から消そうとしても、いとも簡単に蘇ってくる。イタズラそうに笑った時のえくぼが、美沙を上から見下ろすように高い長身が、心を撫でるように優しく刺激してくる話し声が、ずっとずっと忘れられないのだ。


 この気持ちがなんなのか。

 美沙だって薄らと気付いている。だけど、言葉には出したくなかった。だって、もし言ってしまったら認めてしまったみたいだから。そんなこと、プライドの高い美沙にできるわけがなかった。


 圧倒的な敗北感を覚えながら。

 美沙は何も買わずにコンビニを出るのだった。

 その様子を見て、歩はクスッと笑うのである。

 

※※※


「うーー。なんなのよぉ。なんなの、あの男は……」


 今日はウイスキーの瓶をまるまる一本開けてしまった。

 こんなに飲み明かしたのは、取引先の社長にセクハラを受けた日の夜以来だ。


 薄々もう確信している。歩が自分の推しの「進沢アユム」だと。認めたくはないけれど。

 

 家に帰っても胸の苦しみは収まらなかった。

 心臓の主導権が他人に握られたかのように意志とは関係なくバクバクと激しくなり。身体中が火照って仕方がない。火照りを冷まそうとお風呂に入ったりお酒を飲んだりするが、それでも収まることはない。


「アユム先生……」


 美沙はウイスキーが注がれたグラスのふちをなぞりながら物思いにふける。


 前の旦那に散々もてあそばれたあと、離婚を言い渡され。

 美沙はすっかり傷心して、仕事も手に付かなかった。

 いっそのこと何もかも投げ出して。どこか遠いところで死んでしまおうか。そう考えたほどだ。


 そんな時にアユムの作品に出会って。

 本当に、心の底から美沙は救われたのだ。

 あんなに辛かった人生が、進沢アユムという『推し』が現れたことで、何もかもが最高になったのだ。


 ずっと考えていた。もし「アユム」に会えたらどうするか。

 「いつも作品読んでます」「ずっと応援しています」そんなチープな言葉では説明できないくらい作品を愛しているから、だから何を言えばいいのか分からなかった。


 けど、今なら分かる。

 歩はちゃんと言ったから。今度は自分が言うべきなんだ。面倒臭いオタクだと思われてもいい。お節介焼きだと思われても構わない。ちゃんと目を見て言おう。


 その時、スマホに通知が来る。

 『最新話』が投稿されたのだ。

 いや、正確には『最終話』である。


 美沙はパソコンを起動させ。

 カップ麺とウイスキーをキッチンから持ってきて。

 アユムの作品を読む。一文字一文字噛み締めるように。


「……アユム先生」


 最後の一文を読み終え。

 改めて決意した。「アユム」に……いや、歩に伝えなければいけない。ずっとずっと伝えたくて堪らなかった気持ち。こんなチープな言葉で片付けて許して欲しいと思う。でも、美沙はオタクだから、推しに対しては語彙力が無くなってしまうのはしょうがないことだった。


(ありがとう……って、伝えなきゃ)


 美沙はグラスを傾け。

 溶けた氷によって薄くなった冷たいウイスキーを飲むのだった。


※※※


「いらっしゃいませー」


 今年で20歳になった月沢つきさわあゆむはその日。

 いつものように夜のコンビニでバイトをしていた。

 シフトは夕方の5時から8時までの3時間。

 それ以外の日は小説執筆に明け暮れている。

 ペンネームは「進沢アユム」だ。どこまでも「進むように」という意味と、自身の名前から取った。


 少し前まで、歩はごくごくありふれたやる気のない青年だった。友人と講義をサボり、なまじ顔がいいものだから女をたらしこみ。日々自堕落な生活を送っていた。


 歩が心を荒ませていたそんな時。

 一冊の恋愛小説を書店で見つけた。

 何となくタイトルと表紙に惹かれ、買ってみた。

 読み切るつもりなんて一切無かった。一行だけ読んでつまらなかったら部屋の装飾品にでもしようと、そのくらいの軽い気持ちだった。


 ……1時間もかからずに読み終えた。

 あっという間の時間だった。心地よい読後感に包まれ、脳ミソの中がちり一つなく綺麗に浄化され、そこにはただひたすらに広い青空色の世界が広がっていた。


 プロの小説家に心底憧れた。

 こんな物語を自分でも書いてみたい。

 そう思い、歩は小説投稿サイトに自身の作品を掲載することに決めた。


 最初は誰も読んでくれなかった。

 当然だ。全くの素人の駄文で書かれた素人小説など。誰が読んでくれようか。

 悔しかった。いつだって少しの努力で上手くいった歩の人生に初めて大きな壁が立ちはだかったのだから


 避けて通ろうとは思わなかった。

 だって、初めて本気で向き合いたい目標ができたから。

 しかしそう簡単に上手くいかず。心が折れそうになっていた。


 ──そんな時、SNSにある一件のリプレイが来た。

 自分の作品を読んだというアカウントからだった。

 「ミーサ」と名乗るその人物は、歩が作品を投稿する度に毎回感想をくれた。それがどれだけ歩を励ましたことか。


 あくまで自分と「ミーサ」は作者と読者という関係。

 「ミーサ」は自分のことが好きなんじゃなくて、作品が好きなのだ。そうは思っていても、いつしか歩は「ミーサ」に対して特別な気持ちを抱くようになって。


(ミーサさん。今何してんだろうな……)


 長年の女遊びの勘で「ミーサ」が女性だということはなんとなく分かってはいるが。どんな人物なのかは不明だった。だって彼女は「アユム」に関する呟きしかしないから。


 アユムは商品の品出しをしながら。

 ぼんやりと「ミーサ」のことを考える。

 いけない。ボーッとしていると、またあの人に怒られる。歩はそう思い、気を引き締めて仕事に臨む。


 あの人……そう、先日の夜に歩を叱った女性。

 何人もの女性を見てきた歩でさえ、気を抜けば見惚れてしまいそうなくらい美しい顔立ちをしている。

 

 ……その女性は今日も歩のところにやってきた。


「……あの」

「……じー」

「あの、お客さん」

「じーーー」

「お客さん。棚の陰から丸見えですよ」

「……ッ」


 睨みつけるように歩を見つめていたのは。

 例の女性。そう、鷲津わしづ美沙みさである。

 決まりが悪そうに棚の陰から出てきて。

 美沙はこう言う。


「奇遇……ね。また会うなんて」

「ちょうどお客さんが来る時間とシフトが被るみたいっすね」

「ええ……」


 そう言ってから。美沙は何も言わずにモジモジとしていた。告白でもされるのか? と歩は思ったが、なぜだかそういう雰囲気でもないと感じた。

 なにか、大事なことを言いたいかのような。そんな空気を彼女から感じ取る歩である。


「あの……」

「なにか」

「……アナタ、夢があるのよね」

「前に話しましたっけ。そうですよ」


 美沙は唇をもにょりと擦らせる。

 そのあと。やや緊張気味に。


「伝えたいことがあるの。大丈夫、すぐに終わるから」

「今、ですか?」

「……なるべく早くがいいわ」


 真剣そうな美沙の表情。

 恋をする乙女……という表情とはまた違うような。

 色々な感情の混じりがうかがえる顔つきだった。

 なんだか断りきれずに、歩はこう答えた。


「ちょうどシフト終わるんで、待っててください」

「ええ……」


 歩は着替えをするためいったんその場をあとにする。

 美沙は店の外で彼が来るのを待つことにした。

 頭の中で何度も会話のシュミレーションをしながら。


※※※


「お待たせしました」

「ええ」


 着替えを済ませ、歩は店の外で待つ美沙に声をかける。

 他人の目から見ると、まるでバイト終わりの弟と、それを待っていた姉のように映るだろう。少なくとも恋人同士……などという甘い関係には見えない年齢差だ。


「それで、話って……?」

「……えっと」


 目線を一瞬だけ泳がせる美沙。

 歩は気を利かせてこう言う。


「場所、変えたほうがいいですか?」

「……そうね」

「分かりました。じゃあ、行きましょう」

「行く……?」

「人がいない静かなところです。嫌でした?」

「……っ。ええと」


 戸惑ったように自身の人差し指同士をクルクルと絡ませる美沙。男性経験の少ない彼女にとって、仮に推しだとしても男性と2人っきりになるのは怖いのだ。


「俺が怖いですか?」

「……ッ」


 図星なのでギクリとする美沙。

 最初に会った時は大人ぶって叱ってきたのに。

 不覚にも可愛らしいと思ってしまう歩である。


「じゃあ、カフェとかはどうですか?」

「カフェ……?」

「そこなら他の人もいるから怖くないでしょ。それも無理そうなら……」

「いいわよ……」

「え……?」


 キッと睨むように美沙は歩を見て。


「行きましょう。カフェに……」

「乗り気っすね。場所は……どこがいいかな」

「駅前の〇〇ってカフェはどう?」

「あれ、お姉さんも知ってるんすか。俺、この前行ったんすよ」

「そう……なら、都合がいいわ。行きましょう」


 二人は先日行ったカフェに向かうのだった。


※※※


「えーーっと……メニューは何にしようかな」


 カフェに到着して。

 2人で向かい合って席に座る。

 夜中ということもあり、客の数はまばらだ。

 ムードを盛り上げるように店内では落ち着いた雰囲気のジャズ音楽が流れる。美沙は興奮とも不安とも言い表せない気持ちに包まれた。だって、目の前にはずっと尊敬していた推しがいて。こうして一緒の空間にいられるのだから。


 歩がメニューを見て悩んでいると。

 美沙はポツリとこう言う。


「ホットココア……」

「え?」

「ここのオススメはホットココアよ。……珈琲なんか頼んだら、お金の無駄よ」

「……そうですか」


 歩の脳裏に「ミーサ」の存在がよぎる。

 彼女も同じようにホットココアがオススメだと教えてくれた。


 そんなに美味しいのかと思いながら。

 歩はメニュー表を見ながらこう言った。


「じゃあ、ホットココアを頼もうかな。お姉さんは?」

「……カフェラテにするわ」

「え、ホットココアじゃないんすか?」

「……ッ。だって……」


 美沙は目線を泳がせながら。

 わずかに聞き取れる小さな声で。


「恐れ多いわ……同じのを頼むなんて……」

「あの、お姉さん?」

「なんでもないわ」

「なんでもないってことはないでしょ」

「……ッ。ここはカフェラテも美味しいのよっ。ただそれだけだから……」

「そうなんですね」


(まさかな……そんな偶然……)


 歩はひとつの『可能性』を考えながら。

 ベルを押して店員を呼び。ホットココアとカフェラテを注文した。


 注文した飲み物が来る間。

 美沙はモジモジと身体を擦らせるばかりで何も言おうとはしなかった。

 歩は落ち着かせようと、他愛ない話を美沙に振る。


「そういえば、名前聞いてなかったっすね」

「……確かに、そうね」

「俺は月沢つきさわあゆむです。もし良ければ、お姉さんの名前も教えてくれませんか?」

「……鷲津わしづ美沙みさよ」

美沙みさ……?」

「……ええ、美沙みさ……よ」


 脳裏に浮かんだ「ミーサ」の存在が強くなっていく。

 そんな偶然があるわけないと。自分を納得させようとするが、やはり一度泡を立てて発生した『可能性』を完全に消し去ることはできなくて。歩は困ったように眉をひそめながら。


「じゃあ……鷲津わしづさんって呼べばいいのかな……」

「好きに……呼んで頂戴」

「はい。好きに呼びますね……」


 女性経験はそれなりにあるのに。

 なんだか緊張してしまう歩だ。

 

 やがて注文した飲み物がやってきて。

 歩の前にホットココアが、美沙の前にカフェラテが置かれる。


「……じゃあ、鷲津わしづさんオススメのホットココア、飲んでみようかな」


 歩はマグカップに注がれたホットココアを一口飲む。

 控えめな甘さと心地いい苦味がタッグを組んでおり、ぬる過ぎず、かといって暑すぎない飲みやすい温度に保たれているのが好印象だった。素直に感想を言う歩である。


「……これ、すごい美味しいですね」


 ムスッとしていた顔の美沙は。

 その言葉を聞いて。微かに表情を緩ませる。


「そう。良かったわ……」

「……」

「? あの……」

「……あ、いや。なんでもないです」


 見惚れていた、だなんて。

 言えるわけがなかった。すっかり美沙の幸せそうな笑みに心を鷲掴みにされたなんて。

 悔しかったが、それ以上に心地よかった。なぜかは本人でさえ分からなかったが。


 静かな時間が流れる中。

 ふと、歩がこう話し始める。


「……俺、夢があるって言ったでしょ」

「ええ、言ったわね……」

「俺、多分なんとなく分かると思うんですけど、結構ロクでもない男だったんですよ。いや、今も大して変わってないですけど……」


 歩はホットココアを一口飲んだあと。


「そんな俺でも、夢ができて、でも……そう簡単にはいかなくて。最初は何クソ畜生ってガムシャラに頑張ってたんですけど……正直心が折れそうになってきて」


 辛そうな表情から一転して。

 歩は心で噛み締めるような幸せな笑みを浮かべ。


「そんな俺を……ずっと応援して下さるかたがいて。その人に……お礼が言えたらって……ずっと思ってるんです」

「……そう、なのね」

「突然なんの話だって思いますよね。すみません……てか、俺みたいなクズが下手に夢を追うとか……変ですよね」

「……そんなこと、言わないで頂戴」

「え……?」


 美沙はうつむきながら。

 カフェラテの注がれたマグカップの縁を指でなぞりながら言う。


「アナタを応援してくれるその人は……きっと、アナタのそんな言葉、望んでいないわ」

「……まるで本人みたいな物の言いようですね」

「……そうね。まるで、そうみたい……」


 少し間があり。今度は美沙が話し始める。


「私もね、ずっと応援してる人がいて。その人は、私の辛い人生をいとも簡単に潤してくれたの。死にたいくらい悩んでたのがバカバカしくなるくらいね」

「……簡単じゃないと思いますよ」

「そうね。そこに行き着くまでには、相当な苦労があったと思うわ。もしこの場にいたら……ねぎらいの言葉でもかけたいわ」

「きっと喜びますよ。なんなら今ここでシュミレーションをしてみては……?」


 美沙はクスッと笑い。


「今日は止めておくわ。そういう気分じゃないの」

「そうですか。残念です」

「……でもね、いつか……もし、あのお方に会えたら、言いたいことがあるの。ずっとずっと言えなかった……簡単な言葉なのだけど」

「奇遇ですね。俺も……言いたいことがあるんです」


 それから2人は何も言わずに。

 マグカップを傾け合うのだった。


※※※


「外、寒いっすね……」

「ええ……」


 夜も更け。2人は寒空の下を歩く。

 しばらく歩いていると。怪しいお店が並ぶディープな街に出た。暗い夜道を眩しいくらいにネオンの光が照らしている。


 ラブホテルの前を通った。

 美沙はつい視界に入れてしまい、キュッと桜色の唇を固く結ばせる。すると歩はからかうように。


「少し休んでいきます?」

「……からかわないで頂戴」

「冗談ですよ……半分」

「イヤラしい子ね……本当に」

「褒め言葉だと受け取っておきますよ」


 美沙の家にたどり着く。

 夜道は危険なので、家まで歩が付き添ったのだ。

 歩はニコッと笑いながら美沙に言う。


「じゃ、俺はここで……おやすみなさい」

「ええ……」


 その先の会話が思いつかなかった。

 お互いに、薄々気付いている。自分達がSNSで繋がっているのだと。だけど、最後まで口に出すことはなかった。なんだか恥ずかしくて。


 カツカツ……というあゆむが歩き始めた足元が聞こえると共に、長いようで短い一日が終わったのだと美沙は気付かされた。


(言えなかったな……ありがとうって)


 少しの後悔が残る美沙。

 なんだか恥ずかしくって言えなかった。

 次はいつ話せるのかも分からない。

 コンビニに毎回来ていたのも、歩の正体を探るため。

 彼が自分の推しである「進沢アユム」だと知った今、美沙があのコンビニにわざわざ行く理由はない。


 そんな時。後ろから声がする。


「『ミーサ』さん……!」

「……ッ」


 とっさに振り向こうとする美沙……いや、「ミーサ」。

 しかし声の主はそれを認めない。


「振り返らないで下さい。その、恥ずいんで……」

「……はい」


 「ミーサ」は前を向いたまま。

 後ろにいる人物を見ずにそう返事をした。

 声の主はこう続ける。


「アナタに伝えることがあります」

「……ッ」

「嫌、ですか……?」


 ミーサは声を震わせながら。


「そんなこと、ありません……」

「なら良かったです」

「わ、私も……アナタに、先生にお伝えしたいことが……」

「ダメです。まずは俺から……いいですよね?」


 高鳴る自身の心臓の音を耳で聞きながら。

 ミーサはこう返す。


「先生になら……どんな言葉も、喜んで聞き入れます……」

「なら、好きなだけ言いますね……」


 声の主──進沢アユムは深く頭を下げて。


「ありがとうございました……ずっと、応援してくれて」

「……先生」

「やっと言えた。ずっと伝えたかったんです。アナタに」

「先生……せんせい」

 

 振り返りたい衝動にかられながら。

 ミーサはボロポロと涙を流す。

 震える声のまま。ミーサは言う。


「アユム先生……いつも作品読んでます……ずっと応援しています……私を……救って下さり、ありがとうございました……健康に気を付けてください……」

「はい。健康に過ごさせて頂きますね」


 アユムはもう一度だけミーサの後ろで頭を下げる。

 さっきよりも深々と。そして、その場を去るのだった。


「……はぁ」


 肩の力が抜けたように。その場にしゃがみこむ美沙。

 後ろを振り向くと、そこにはただひたすらに夜道が広がっているだけだった。


「……ズルい人。いつもアナタのほうが先にお礼を言う……」


 夜空を見上げ。美沙は家の中に入る。

 その日のウイスキーはいつもより美味く感じるのだった。


※※※


「はぁぁ。やっと仕事終わったー」

「マジで疲れたんだけど……」

「肩凝ったー」


 都内某所の、とある企業のオフィス内にて。

 3人の男性社員が口々にそう言った。

 他の社員はほとんど帰っており、窓の外はすっかり暗い。


 そんな時、ふと。

 ある女性社員が3人の立っていて。


「田中さん、加藤さん、鈴木さん」

「ひっ。な、なんですか……鷲津わしづ先輩……」


 怒られるのかとビクビクする男性社員達。

 すると、女性社員──鷲津美沙(イーグル・レディ)の手には缶コーヒーが三本あり。


「お疲れ様。頑張ったわね。これ……良かったら」

「え……? いいんですか」

「ええ。私の奢りだから……それと、いつも怖い顔してごめんなさい。それじゃあ……」


 そう言って美沙はその場を後にした。

 男性社員はヒソヒソと話を始める。


「……なんか鷲津先輩ってさ、最近優しくなったよな」

「ああ、毒気が抜けたっていうか」

「でもさ、わざわざ缶コーヒー買ってくれるとか……やっぱりあの人って『お堅い』し、それに『お節介焼き』だわ……」


 その声を背後に聞きながら。

 美沙はこう思った。


(私の顔……怖くなかったかしら……)


 ドキドキしながら自身の頬に手を当てる美沙なのだった。



 






 


読んで下さりありがとうございます。

初めて企画に出します。

緊張します。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ