沈む世界の夕日に嘆く唄~黒猫と吸血鬼の世界終末記~
紅に染まった満月
闇夜を飛び交う無数の黒羽
その両の眼もまた月と同じ鮮血の赤
紅の満月が浮かぶ夜は彼らにとっての舞踏会
人々は彼らを恐れ、固く門扉を閉ざす
最強の怪異存在
彼らこそ、闇世界の覇王であった……
かつては……
「……すーすー」
「ご主人! おはよーにゃん!」
「……すーすー」
小さな黒猫が豪奢なベッドの上にシュタンと飛び乗る。
ご機嫌な様子で自らの主人を起こす。
「……すーすー」
だが、毛布にくるまる主人はいっこうに起きる素振りを見せない。
「ごーしゅーじーんー! もうお昼だにゃー! さっさと起きるにゃー! ニャーはお腹すいたにゃー!」
黒猫は主人を包む毛布を懸命に揺するが、なかの主人は寝息をたてるだけで起きる気配はなかった。
「……むむー。こうにゃったら! 変身!」
黒猫がそう叫ぶと、黒猫の足元に魔方陣が出現し、そこから現れた光に黒猫は全身を包まれた。
「んん~! こっちになるのは久しぶりだにゃー!」
そして、光が収まると同時に現れたのは一糸纏わぬ姿の見目麗しい美少女だった。
腰まである長い黒髪は艶々と美しく、真ん丸の大きな紅い猫目がキラキラと輝く。
黒猫は人の姿になったが、なぜか耳としっぽだけはそのまま残っていた。
少女になった黒猫がん~っと体を伸ばすと、見事な双丘が豊かに揺れる。
体を伸ばしたあと、少女は猫が高いところに昇る時のように、ぐぐっと体を丸めた。
「んにゃっ!」
「ぐはっ!」
そして、バッ! っとジャンプすると、彼女は主人の上に飛び乗ってまたがった。
眠っていた主人は上に乗っかられた衝撃で、ようやく目を覚ましたようだった。
「う~ん……なんだ、サリアか」
目を覚ました主人は少年だった。
短めの銀髪に真っ赤な瞳。
整った顔は見る者を無条件に魅了するだろう。
少年は寝ぼけ眼をこすりながら上半身をゆっくりと起こす。
かけていた毛布が滑ると、細くて白い体が露になる。どうやら上半身には服を着ていないようだ。
「やっと起きたにゃー。
ていうか、なんだもなにも、ニャーしかいないにゃー」
サリアと呼ばれた少女はようやく目を覚ました主人を嬉しそうな笑顔で迎える。
「……それもそうだね」
少年は少し寂しそうな顔をしたあと、自分に乗っているサリアを優しく持ち上げてベッドから下ろした。
身長はサリアの方が高いようだが、少年はそんなことをまったく意に介さずにサリアを持ち上げていた。
「ご主人! ニャーはお腹すいたにゃー!」
サリアはお腹をさすりながら、目を細めて空腹を訴えた。
「そうだね。そろそろトマトも収穫できる頃だ。保存していた食材を使おう」
「わーい! サリア、お肉食べたいにゃー!」
「……肉か。いつから食べてないかな。魚しか確保できなかったからね。哺乳類も入れておけば良かった」
「……にゃ~。しょうがないにゃー。急にあんなことになるなんて誰も思わないにゃー」
「……そうだ。この前作った魚のオイル漬けを食べよう。そろそろ食べた方がいいだろうからね」
落ち込むサリアを見た少年が元気づけようとそう提案する。
「やったにゃー! ニャー、ツナも大好きにゃー!」
サリアが両手を挙げて、飛び跳ねて喜ぶ。
「ははっ。なら良かった」
サリアの豊かな胸が踊るが、少年はさして気にせず、穏やかに微笑んでいた。
「ニャーは先に行ってるにゃー!」
「ああ。庭で良さそうなトマトを収穫しておいてくれ。あと、ちゃんと服を着るんだよ」
サリアは「わかったにゃー!」と叫びながら部屋を出ていった。
少年が寝ていた部屋は高級な家具で統一された広くて豪華な部屋だった。
「……今日も、いい天気だ」
軽く伸びをしたあと、のんびりと窓から外を眺める少年。
空にはぶ厚い雲が広がり、昼だというのにほとんど日の光が降り注いでこない。
まるで昼と夜が混ざった世界。
いや、昼が夜に侵食された世界、というべきだろうか。
地平線まで望めるその景色には鳥の一匹すら飛んでいない。
「……ん? ……ふふっ」
眼下の庭ではサリアが全裸のままトマトを収穫していた。
楽しそうなその姿に薄く笑った少年の口からは2本の鋭く尖った牙が顔を覗かせる。
日の光が届かない常夜の世界。
それは吸血鬼である彼にとってはやはりいい天気なのだった。
「ごちそうさまですにゃ! おいしかったにゃ!」
「ああ、美味しかったよ」
メイド服を着たサリアが作った料理を2人は歓談しながら食べた。
少年はナプキンで口元を上品に拭いたあと、手元のワインを口に含む。
サリアは猫のように口の周りをペロペロと舐めたあと、人の姿なのに毛繕いを始めていた。
どうやら猫の姿での習性が抜けていないようだ。
「……さて」
ワインを飲み終わると少年は立ち上がる。
「サリア。後片付けを頼むよ。僕は書庫に行ってくる」
「わかったにゃ~」
少年はまだ毛繕いを続けているサリアにそう頼むと、静かに部屋をあとにした。
「……」
少年は広くて長い廊下を1人で歩く。
ここはとても広くて大きい屋敷。
広大な庭と、湖に近い池を擁する彼の領域。
そんな広い屋敷の、赤い絨毯が敷かれた豪奢な廊下を少年は1人で歩く。
この広大な屋敷に少年とサリアの2人だけ。
「……」
ーーサリアを造っておいて良かった。
「……」
少年はそんな想いを口にすることはせず、遠くでサリアが鼻歌を歌いながら食器を運ぶ音に頬を緩めながら書庫を目指した。
「……これと、これと、これもまだ読んでいなかったか」
書庫についた少年は、空間を歪め屋敷の広さを超えて地平まで延びた床に延々と並べられた本棚の一画に立っていた。
少年が長い長い年月をかけて集めた本だ。
劣化を防ぐ書庫に並んだ本はどれもここに持ち込んだときのままの姿をしていた。
時間はいくらでもあるし、あったのだ。
「……もう本を集められないのは残念だが、これだけあれば当分暇を持て余すことはないだろう」
両手に本を積み上げた少年は地平まで続く本棚を眺めて穏やかに微笑んだ。
「……ん? これは」
そのとき、ふと1冊の本が目に留まった。
『出現、蹂躙、支配、服従、そして、解放』
本の表紙にはそう書かれていた。
「……」
少年は積み上げた本を床に置き、その本を手に取った。
そこには、世界がこうなるまでの経緯が書かれていた。
『奴らは、突然現れた。
いや、もしかしたら奴らはずっといたのかもしれない。それこそ、我々よりもずっと前から。
奴らは我々の生き血を啜った。
奴らは強かった。
騎士団も傭兵も、みんな死んだ。
我々は奴らに滅ぼされてしまうのだろうか。
奴らには弱点があることが分かった。
まず、太陽のもとでは生きられない。
日の光を浴びると奴らは崩れ落ちるのだ。
さらに、十字架や銀の武器も効果的だということが分かった。
これは朗報だ。
我々は奴らに勝てるかもしれない。
……残念な報せだ。
奴らは下位種でしかなかった。
我々が奴らのほとんどを倒し、ようやく平穏が訪れると思った矢先、それは現れた。
奴らの上位種。奴らは真祖と呼んでいた。
真祖たちに弱点はなかった。
十字架は折られ、銀の武器は指先で弾かれ、木の杭で心の臓を刺されてもものともしなかった。
それになにより、真祖は太陽のもとでも活動を続けた。
絶望だ。
我々はもう、奴らに勝てない……。
ずいぶん死んだ。
時がたち、文明はだいぶ進んだが、それでも我々は奴らに敵わない。
奴らは我々を遺憾なく減らした。
下位種は血をすすり、真祖は我々を下位種に変えた。
我々は諦めた。
奴らに忠誠を誓い、せめて人のままでいさせてくれと懇願した。
真祖たちは少しだけ悩んだあと、こくりと頷いた。
そして、我々の従属の日々が始まったのだ。
正直、私は奴らに服従する生活をそこまで悪く思っていなかった。
ときたま下位種に血を少し吸われるぐらいで、殺されることがなくなったという安堵感が強かったからかもしれない。
他の者も同じ考えを持っていたのだろう。
奴らに付き従う日々は存外、平和に思えた。
だが、終わりはやってくるものだ。
どうやら、奴らに支配されていることに我慢ならない者がいたようだ。
彼らは密かに地下に潜み、いそいそと科学文明の発展を進めていたらしい。
だが、その結果、彼らはどうあっても奴らには勝てないと結論付けたようだ。
その結果、彼らはすべてを……』
本はそこで終わっていた。
「……」
少年は黙って本を閉じると、そっと本棚に本を戻した。
「……バカなことをしたものだ。人類も、我らも……」
少年はそれだけ呟くと、床に置いた本を再び持ち上げて近くの机に向かうのだった。
「ごっしゅじ~ん!」
少年がしばらく本を読みふけっていると、サリアがドアをバン! と開けて書庫に入ってきた。
「どーんにゃ!」
「……ん? ああ、どうした、サリア?」
少年はサリアが自分に飛び付いてきたことで、ようやく彼女の存在に気がついて顔を上げた。
「そろそろ日が傾いてきたにゃー。お屋敷の掃除も畑のお世話も終わったにゃー」
「ああ、もうそんな時間か。いつもありがとうサリア」
「にゃふふふ~ん」
少年がサリアの頭を撫でてやると、サリアは嬉しそうに少年に身を委ねた。
「ご主人。最近、本を読んでることが多いにゃ。もう外には探索に行かないにゃ?」
「……」
椅子に座る少年の膝に頭をのせて床に座るサリアは横を向きながら少年に尋ねた。
少年はサリアの頭を優しく撫で付けながら、その問いには答えなかった。自分でも答えられなかったのかもしれない。
「……ん~、ま! ニャーはここでご主人と一緒にいられるだけで楽しいから別にいいにゃ!」
「……サリア」
無邪気にそう笑うサリアを少年はいっそう慈しむように見下ろすと、優しく耳を撫でた。
「にゃにゃ! ご主人、くすぐったいにゃ~!」
耳を触られたサリアは身を捩ったが、少年はしばらくそのまま耳をいじり続けた。
「……サリア。少し出ようか」
「……にゃ? お出掛けにゃ?」
少年が声をかけると、サリアは耳をピクピクさせて顔を少年に向けた。
「外はやっぱり気持ちいいにゃー!」
屋敷の入口から出ると、サリアが大きく伸びをする。
赤いシンプルなワンピースが長いキレイな黒髪と調和している。
今は夕方のようだが、外はいつも変わらない薄暗い世界だった。
「……サリア。今日は上に行こうか」
麻のパンツに白のワイシャツというラフな格好の少年がワイシャツの一番上のボタンを外しながら、ぶ厚い雲が広がる空を見上げる。
「飛ぶのかにゃ!? わーい! ニャー! 空好きにゃ!」
少年の提案にサリアはピョンピョン跳んで喜ぶ。
「……よっ」
少年が背中に力を入れると、少年の肩甲骨のあたりから一対の翼が生えた。
真っ黒な、コウモリのような翼。
「……いいよ。サリア、乗って」
「はいにゃ!」
少年の準備が整うと、サリアは少年の背中に飛び乗った。
「じゃあ、いくよ」
「んにゃ!」
サリアが自分にしがみついたことを確認すると少年は地面を蹴り、空に向かって飛翔した。
「きもちいーにゃー!」
風を切ってぐんぐん高度を上げていく少年の背中で、サリアは気持ちよさそうに風を感じていた。
「……」
ぶ厚い雲に向かって飛びながら、少年は眼下に目を移した。
広大な敷地を擁する屋敷がポツンと小さくなっているのが見えた。
屋敷の周りの敷地と外との境界には半円のドーム状の透明な結界が張られていた。
「……」
そして、その結界の外側には荒れ果てた荒野が広がっていた。
草木一本生えていない更地。
鳥も動物も、生物の気配はまったく感じられない。
結界の中の庭と屋敷だけが時間が静止したように、ポツンとそこにはあった。
屋敷の外の世界では、地平の果てまで、どこまでも荒野が続いていた。
「ご主人! そろそろ雲に突っ込むにゃー!」
「!」
終わった外の世界をぼんやりと眺めていた少年はサリアに言われて上に目線を戻す。
暗くてぶ厚い雲がすぐ目の前に来ていた。
「サリア。しっかり掴まってるんだよ」
「んにゃにゃ!」
少年に言われてサリアはぎゅっと少年の胴に腕を回した。
「……」
雲に突っ込むと乱雑な風が少年たちを襲ったが、少年はそれを意に介さずにまっすぐ上に昇っていく。
「……ぷあっ!」
雲を抜けると、サリアがプルプルと首を振る。
「サリア。見てごらん」
「んにゃ? ……わぁっ!」
雲の上には見事な夕焼けが世界を染めていた。
黒い雲を下に潜めた白い雲が夕日色に染まっている。
「……キレイだにゃ~」
「……そうだね」
茜色の世界で、2人はしばしその光景に浸っていた。
「……こんな景色を見えなくしちゃうなんて、バカな人間もいたもんだにゃ~」
「……ホントにね」
あの日。
ヒトは吸血鬼から自らを解放するために世界を終わらせた。
すべての建物。
すべての生物。
ありとあらゆるものを吹き飛ばした。
唯一残った吸血鬼も、隠れるものをなくした下位種は太陽によって消え去った。
「そういえば、ご主人以外の残った真祖はどこに行っちゃったにゃ?」
「……彼らはもうこの世界に見切りをつけたんだ。真祖の力をもってすれば、より上位の世界に行くことは難しくない。彼らは皆、時間も空間も関係ない高位の世界へと移り住んでしまったんだよ」
そう語る少年はいささか寂しそうに見えた。
「ご主人は行かないにゃ?」
「……僕は、この世界が好きだ。あの屋敷で皆と過ごした日々を忘れないためにも、僕はここにいるよ」
「……ご主人のお世話をしてた人間が最後に死んでから、どれぐらいが経ったかにゃ」
「……もう、120年かな」
『ご主人様。私たちは幸せでした。貴方のようなお方にお仕えできて、心から幸せだと言えます。本当に、ありがとうございました』
「……まだ、人間はどっかにいるのかにゃ」
「……分からない。でも、世界はまだ生きてる。自浄期間が終われば、世界はまた必ず芽吹く。そこで生まれるのが人間かは分からないけど、僕はこの世界の行く末を見守るために、あの屋敷にいるんだ、と思う」
少年はそう言って、愛おしそうに屋敷があるであろう位置の雲を見下ろした。
「……そろそろ戻ろう。もう日が沈む」
夕日色の世界が少しずつ闇に蝕まれつつあった。
本来ならば、これからが吸血鬼である彼のパーティータイムだった。
「……ご主人が人間みたいな生活をしてるのは、人間のことを忘れないためにゃ?」
「……そうだね。そうかもしれない。だから、下に戻ってご飯を食べて、お風呂に入ったら寝よう。人間は、夜は寝るものだからね」
「んにゃ! ご飯にゃ!」
サリアはご飯という単語にたいそう喜んだ。
少年は翼をはためかせ、再び雲に潜る。
「あ、ご主人。人間みたいにしたいなら、朝はもっと早く起きるにゃ。人間は朝にはちゃんと起きてるにゃ~」
「……努力はしよう」
サリアにからかわれ、少年は肩をすくめながら屋敷に戻っていった。
「ご主人~」
「なんだい? サリア」
「ご主人にはサリアがいるにゃ。サリアはずっと、いつまでもご主人と一緒だにゃ!」
「……ふっ。そうだね。僕も、サリアとずっと一緒だ」
「にゃん!」
屋敷に降り立った2人は楽しそうに笑い合いながら中へと入っていったのだった。
「……やっぱり、もうどこにも何もないわね」
「……いや、待て。これは、結界の気配だ」
「……なんですって?」
「この練度。かなり高位の真祖だ」
「……まだ、この世界に残っている吸血鬼がいたなんて」
「おまえと同じ、酔狂なヤツかもな」
「……そうでないことを祈るわ」
会話を交わすは銀髪の少女と白い猫。
彼女たちが少年たちと出会うのはもう少し先の話。
その話はまた、別の機会に……。