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夢を見る朝

作者: 山崎山

 鬱屈した性格の私としては、月曜の朝はとても起きれたものではない。


 うっかり目を開けて時計を確認してしまう前に停滞した部屋の冷気を吸い込んで、くたびれた掛け布団の冷たい表面に触らないよう、いつの間にか放り出されていた手を布団の中に戻す。


 東京は寒い。慣れた東の方の田舎と違って寒さの中に冷徹さがある。コンクリートの壁も独居房のように感じる。私は世界と乖離している。


 少しはっきりしてしまった意識の中で、私は手放しかけた眠気の残滓を手繰り寄せる。


 蜥蜴(とかげ)の尻尾を掴むようだ。ぷつりと切れて簡単にどこかへ行ってしまいそうなそれを、大きく手を伸ばして優しく引き寄せ、腕の中で抱きしめる。


 だが気がつくと、私はいつの間にかそれに包み込まれてしまっている。

 眠気を掴んだ代わりに知らず知らず意識を手放している。


 そうしてまた、私は夢の淵へと落ちていった──





『受かっちゃったんだよね!』


 幾ばくかぶりに彼女の明るい声を聞いた。その大きさに耳を塞ごうかとも思った私は、それはともかくとしてつい笑ってしまった。


『待たせてごめんね! 駅前の新しいケーキ屋さん、行くの我慢しててよかったぁ』


 おめでとう、と私は短い祝福を送った。

 それを聞いた彼女も『えへへ』と小さく笑うのだった。


 私は結構、彼女のことを知っている。

 小さな頃から追い込まれないと動かないタイプで、夏休みの宿題も常に最終日に片づけていたこと。進路調査票の締め切り日にやっと相談に来て、私の行きたい大学を伝えたら「何それ面白そう!」と第一志望に書き込んだこと。十一月という受験生殺しの頃合いに高校の最寄り駅の前に新しくできたケーキ屋に行くのを我慢して、丸一ヵ月勉強漬けの日々を送り最後の模試でB判定をもらったこと。


 疑ってはいなかった。だって彼女は、これまでもそうやって上手くやってきたのだ。

 それはそれとしてすごい、と近くにいて思うが、そういう過去の実績が私の中で裏づけとなっているから、彼女が合格した嬉しさよりも安心感の方が大きかった。


『そっちはどう? 昨日またすごい雪降ったって聞いたよ』


 彼女の言うとおり、この町では例年より遅い大雪が、彼女が合格発表を見に行った翌日に降り積もった。


 東京では数センチも積もっていないらしい。こちらは白銀の大地と化している。部屋の窓から外を覗いてみると、見えるのはうず高く積もった雪とおしろいの山。


 彼女がこの景色を見ていないのが不思議だった。今さら感想もないくらい何年も同じ景色を一緒に見ているから、雪が降ったがために心配される日が来るなんて想像もしていなかった。


『あたし明日帰るんだけどさ、何か欲しいものある? お土産なんでも買ってくよ。今日は気分がいいので』


 試しに江戸切子をおねだりしてみたが、「何それ?」とのことだったので、仕方なくバナナの形をした銘菓の新しい味をお願いした。さすがにそれは知っていた。


『はーい、じゃあ楽しみに待っててねー。合格祝い用意しとけよ』


 私が受かった時は何もくれなかったのに? と言いかけたが、まあ飲み込んでやった。今日くらいは彼女の良い結果に免じて、私も一歩引こうと思う。


 翌日、私は彼女が返ってくる前にあのケーキ屋に行って、彼女の好きなモンブランとレアチーズとミルクレープを調達し、家まで届けてやった。

 するとおもむろにスマホを取り出して通販サイトで江戸切子を調べ始めたので、慌てて止めた。





「なんかさ、大学にはサークルっていうのがあるらしいよ」


 かれこれ五回目となる駅前のケーキ屋のイートインスペースで、通算五個目となるレアチーズケーキにフォークを刺しながら彼女は言った。

 それくらい知ってるわ。と言いかけたところで、彼女のどこかへ羨望を浮かべた瞳に気圧されてしまった。


「なんかいいよねー、夢の一人暮らしでしょ、バイトでしょ、サークルにいるイケメンでしょ……この見渡す限りの雪ともやっとオサラバだし。あー、期待が膨らむよねー」


 思えば、彼女には昔から都会への憧れがあった。渋谷とか原宿という言葉に妙に敏感だし、行くわけでもないのに東京の新しい小洒落た店を何故かたくさん知っていた。私なんか歩行者天国の意味を十四歳で初めて知ったというのに。

 そんな彼女が東京の大学に行くのは、もしかすると必然だったのかもしれない。とするとなるほど、私が彼女の水先案内人みたいだ。


 もうあと数週間もすれば、この町を出て上京してしまう。

 私はふと彼女に問うてみた。寂しくないの? と。


「そりゃあ、寂しいけどさあ。ここのケーキだって食べられなくなっちゃうし……」


 彼女はそう言って口を尖らせるが、すぐ微笑んで、


「でも、面白そうなことがたくさんあるのは、きっとここじゃないと思うし」


 それは私も同意見だった。


「今は別にやりたいこととかないけど、何か見つかる気がするんだよね。こう、なんていうか、ここじゃ知る機会もなかった! みたいな何かがさ」


 彼女はことごとく私の頭の中を代弁する。


 夢なんて大層なものを私は持っていない。だからそれに近しい何かを、少なくともまだ見ぬ面白い何かを探しに、私たちは東京へ行くのだ。もう見つけていたら、わざわざ上京なんてしない。


 手探りの中でその何かを見つけられたのなら、この胸に残る寂しさを克服できるだろうか。心のどこかでほんの少し迷う自分に、喝を入れられる日が来るのだろうか。


「まあ、なんとかなるっしょ!」


 そうだね、と私は答える。


 それから引越しをする日までに、彼女と私はさらに五回もイートインスペースで無駄話をし、彼女はさらに五個レアチーズケーキを食べたおかげで、心なしかちょっと丸くなった。





 一人暮らしというものをして初めて、孤独というものを知った。


 家族で分担していた家事労働を一人でこなさなければならないという大変さはさておき、この地に何の繋がりもない私がぽつんと生活していることは、数ヶ月前の私が想像していた以上に恐怖だった。


 新鮮さも薄れ、大学へ行くのがすっかりライフワークとなった今日に至っても、誰もいない家に帰ることだけは慣れない。


「あ、おかえりー」


 まあいるのだが。


 私が嘆息すると、彼女はふくれっ面で私を睨む。

 正確には嘆息ではない。安堵に近いため息なのである。


 入学してすぐ髪を短くして、色も明るくした彼女には、今や数ヶ月前の面影はない。だから何度見てもどちら様? となる。そして彼女と気づいて安心する。


「今日遅くない? ご飯も遅くない?」


 図書館で勉強してきた、と答えながら、私は手に持っていたレジ袋を掲げる。

 それを目にした彼女もニヤリと笑って、懐からまったく折れ目のついていない綺麗な千円札を取り出す。


「苦しゅうない苦しゅうない」


 私がその千円札と引き換えにコンビニのパスタサラダとサンドイッチ、レアチーズケーキをテーブルに置くと、彼女は鼻息荒く笑うのだった。


 なんとなく都合がよさそう、ということで、私たちは同じ駅の歩いて五分くらいのところにそれぞれ家を借り、結果こうして彼女が私の家に入り浸るという状況が発生している。


 その上「一律千円あげるから適当にご飯買ってきて」という契約を入学初日に結んでいるため、体裁はパシリのそれである。まあ、おかげで週に最低三回は私の懐に潤いを与えられるのであるが。


「うん、やっぱセブンは最高だわ」


 はいはい、と(たしな)めて、私は自分用に買ってきたお弁当(550円)とサラダ(390円)とロールケーキ(280円)をこれ見よがしにテーブルに広げる。


 サンドイッチを食べる手が止まった彼女に、今日はサークルなかったの? と問う。


「今日は活動日じゃないからねー。そんな毎日やってらんないっしょ、部活じゃあるまいし」


 彼女は何やらフットサルサークル? に所属しているらしい。らしいというのは、私にはまったく関係ないからだ。


 もともと体を動かすのが好きな彼女にとっては、ほどよくイケメンがいて自分も運動できる都合のいい場所がそこだった。どちらも求めていない私にとっては興味がなかった。それだけのことだ。


「よくもまあ義務でもないのに、授業終わりに集まるもんだよねー。我ながら感心するわ」


 かっこいい人見つけた? と私が聞くと、彼女は酷い顔で首を横に振って、


「面白いくらいいない」


 と吐き捨て、パスタサラダをばりばりと頬張るのだった。


 そんなものだろう、と内心思うのだが、彼女にとっては有意義であることに違いはなさそうなので、言うだけ野暮というものだ。彼女の言う通り、それはそれで面白いのだろう。私にはよく分からない。


 ただまあ、そういう琴線のずれがあるから、長い間こうして腐り果てた縁で繋がっているのかもしれない。


 やっぱり私は、結構彼女のことを知っている。





「あれ、その子誰?」


 知らない女の子が私を見てそう言った。


 彼女と昼食を食べていた所に突然現れたその女の子は、どうやら彼女と知りあいのようだった。


「え? あー、幼馴染みだよ。小さい頃から一緒なの」


「うっそ、ずっと同じ学校ってこと? やばいね」


 それは同意だ。学歴が幼稚園からシンクロしているのはなかなかやばいと思う。


 不思議ではなかった。彼女は昔から友達が多かったし、その中にはもちろん私が関知していない人が大勢いる。誰でも一緒だ。ただ彼女はその数が人並み以上に多いだけ。あまり友達と呼べる人が多くない私からすれば、そこが彼女と私の決定的に大きな差である。


 だから、何も不思議ではない。


「ていうか、そうだわ、呼びに来たんだよ! このあとミーティングだって!」


「え? ……あー! そうだった!」


 発破をかけられた彼女はテーブルに置いてあった私物をバッグに詰め込んで、


「ごめん、またね!」


 申し訳程度に申し訳なさそうにしながら、忙しなく行ってしまった。


 私は学食の前の階段を降りて見えなくなってしまうまで彼女の姿を追った。時間もないだろうに、その横顔からは笑みが零れていた。


 私くらいになると手に取るように分かるのだ。彼女が心底楽しそうにしていることくらい。あの笑顔は偽りのない、彼女の感情が表面化したもの。


 少し、胸がざわつく。


 私は思わず笑ってしまった。笑って、胸で波打つ感情を鎮めた。

 こんな幼稚なもの、笑い飛ばすしかないのだ。




「ごめんー、今日もサークルあってさあ」


 という言葉を、あれから何度聞いただろう。


 彼女が私の家に来る回数は目に見えて減った。何かのきっかけで関係が悪くなったわけでも、何か特筆すべき外的要因があったわけでもなく。ただ単純に、私と彼女は会う時間が減った。ただ、それだけ。


 いつも通り講義を一人で受けて家に帰ると、そこに彼女はいない。買ってくるお弁当も一つで十分になった。代わりにお駄賃はなくなった。


 今日来る? とメッセージを残しておくと、決まって日付が変わる前に返事が来る。「ごめん、サークルだった」


 そんな日もあるだろうと思った。

 次の日も、そんな日もあるだろうと思った。

 その次の日も、仕方ない、そういう日もあると思った。


 そうしてどちらからともなくメッセージは切れて、通知は来なくなった。


 私も彼女も、何一つ変わっていない。昔からの私と彼女のままなのに、何か見えない力で物理的に距離が遠くなって、それに引きずられて意識も離れていく。


 そうだ。私たちは何も変わっていない。友達が少ない私と、たくさんの彼女。何も変わらないからこそ、変わってしまうものの波をもろに受けてしまう。


 気づいたらそこにいたはずの彼女がいない。いつも視界にいた彼女を、いつの間にか私が追いかけるようになっていた。


 私は彼女のことを結構知っている。

 でも知っているからこそ、彼女らしいと思ってしまう。


 若い私には、それが悔しくてたまらなかった。




 ──いよいよ朝の光が瞼に降り注いで、目が覚めてしまった。


 時計は起床予定時刻よりもだいぶ前を指している。私はうんざりしながら寝ぼけた体を起こし、枕元にある煙草を手に取ってベランダに出た。


 寒いが、風はない。ここ最近はビル風が強くてまともに煙草も吸えなかったが、今日はコンディションがいい。陽射しも暖かい。


 遠くに乱立するビルの隙間からゆっくりと太陽が昇っていく。眩しさに目を細めながら、一本火をつける。


 この陽の光と煙草の火だけは東京でも暖かい。人を選ぶことなくどこにいても私を見てくれる。たとえコンクリートに囲まれていても、私を外の世界へと連れ出してくれる。


 田舎を出てからもう何年も経った。寂しさは時々感じるが、その分面白いものを見つけられた。今ではそれで食い繋げるくらいにはなった。


 私はポケットから携帯を取り出して、メッセージを開く。私からの一文に既読をつけたのを最後に途絶えた会話は、はるか昔のようにも、つい最近のようにも感じる。


 私は面白いものを見つけたよ、いいでしょ。


 今そうやって送ったら、彼女は見てくれるだろうか。


 美味しいケーキを出す喫茶店があってさ、私いつもそこで仕事してるんだけど、ちょっと寄ってみない? 私が奢るからさ。


 これは食いつきそうだ。彼女の好奇心に触れそうな言葉を上手く並べてみた。


 打つだけ打って、送信する前に全て消して、携帯をポケットに戻す。


 一服は終わりだ。夢中になるほど面白いことを見つけて、それが私に諦める勇気と前を向いて歩く力をくれた。


 私たちはどこかで、何かしらの形で繋がっている。

 濃くても薄くてもいい。その形さえあれば十分だと、今はそう思える。






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