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時計の秒針が動く。響司の部屋からは寝息が聞こえていた。
ヨルは響司の部屋につながる扉に顔を突っ込んだ。扉をすり抜けた頭を動かして、様子をうかがう。響司の部屋には机と本棚。ベッドの上には寝返りをうつ響司がいた。青い布団の下で、動いていた。
公園から帰ってきた響司は風呂に入った後、仮眠をとると言って部屋に入ったきり出てこなかった。本当に寝ているとヨルは思ってもみなかった
ヨルは百を超える人間と契約してきた。戦争中、命をかけて戦う人間と契約したこともあった。精神が立ってしまい、眠れずにいるものだと勝手に決めつけていた。
戦いの前に熟睡する人間は数名しか知らない。そういった人物の人生は極端だった。
「大物なのか、ただの馬鹿なのか判断しかねるな」
顔を引き抜いて、ヨルは響司の母親の写真が飾られているタンスに足を運ぶ。
タンスの一番上の引き出しを引く。響司が決して使うことのないであろう口紅や指輪の入った小箱が収納されていた。奥にヨルの目的のものが眠っていた。
黒くて、三日月の模様がある箱。ライゼンの作ったオルゴールだ。
ヨルはオルゴールを傷つけぬように優しく左手で掴む。オルゴールを舐めるように見回す。保管状態がよかったのか、大きな傷は見当たらない。
ライゼンのオルゴールを持ったままヨルはマンションのベランダの鍵を静かに開けた。音もなく飛び、マンションの屋上へと向かう。
清掃なんてされることのない屋上は一面、黒い砂で汚れている。
ヨルは砂の少ないところを探す。アンテナに目をつけて、また空を飛び、アンテナの上に腰を下ろした。
黒い靄にしか見えない脚の上にオルゴールをのせる。
――忌々しいオルゴール。名を『月下の檻』という。
普通の悪魔であれば、すぐに破壊したくなる一品だが、ヨルにとっては嫌悪以上に愛着があった。
「ライゼンよ。お前と見た夜空は星が輝いていて美しかったな」
昔、ライゼンと見た空を思い出す。
何もない草原に並んで寝転び、無言で星を見た空。無数にある星々の輝きが一つ一つ、はっきりとしていた。温かい風に吹かれ、時間を忘れた。そのままライゼンが寝てしまうことはざらだった。
ライゼンが寝落ちしたとき、ヨルは起きるまで横でずっと待っていた。
待つべき者はもういない。
「ワシは手は出さんよ。何があろうと手は出さぬさ。他の悪魔に食われるぐらいならば、ワシが喰ってやるがな」
響司との契約は偶然だ。日も浅い。
気にかける要素はまったくないはずだった。
ライゼンの残した、ヨルとの契約をするための陣。悪魔にしか読めない文字で余計な一文が魔法陣に刻まれていなければ、ヨルはきっと響司を怒鳴りつけることも助けることもなかった。
「何が『ありがとう。すまない』だ。ワシの忠告を無視して死地に向かっておいて……。死後に謝罪なぞしおって……」
ヨルは砂場にあった魔法陣を読んだとき、正直に言うと怒鳴りたかった。死んでしまった元契約者へ聞こえることのない怒りをぶつけたかった。しかし、新しい契約者の手前、飲み込んだ。
「恨むなよ、ライゼン。貴様の願いは、また叶うことがなさそうだ」
報告に近いものを夜空に呟いた。
ヨルに答えるように夜風が吹く。
――賭けをしよう。賭けなら恨みっこなしだ。だろ? ヨル!
ライゼンの透き通った声が夜風と共に聞こえた気がした。ヨルの耳にこびりついて離れないライゼンの悪い口癖だ。どうしても譲れないことがあるとライゼンは賭けと称して無理やりヨルを巻き込む。
八割方、ヨルが賭けに勝っていた。ただ、ライゼンが魂鳴りを鳴らしたときだけは勝てたことがなかった。
今、ライゼンが隣にいたら魂鳴りを鳴らしていただろう。
呆れながらヨルは言い慣れた返答を夜空に返す。
「勝負から逃げるのは恥、よな」
ヨルはオルゴールの中にある小さなゼンマイを手にする。箱の横に空いた小さな穴にゼンマイを差し込み、ゆっくりと回す。
歯車が噛みあい、回転する音がマンションの屋上に響く。数度回したところで三日月の描かれた蓋を開けた。
中のシリンダーが回り、懐かしい曲を響かせる。
優しくて、落ち着きを促す曲。時々、ウサギが跳ねまわるように高い音が混じる。
本来の『月下の檻』であれば、音が鳴った時点で悪魔に対してのみ、力が発動するはずだ。音を聴いているのに悪魔であるヨルに対して何も起こらない。
響司がオルゴールを見せてきたとき、最初は驚いた。しかし、よくよく見ると以前のように溢れ出ていた力強さがオルゴールになかった。
試しに音を聴いた結果、これである。
「ふむ。やはり燃料切れか……」
ヨルは曲の途中でオルゴールを閉じる。曲は強制終了させられた。
腰をあげてヨルはアンテナから浮かび上がり、響司のいるマンションから離れ、風鈴の音が聞こえる方へと空中を散歩する。
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