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夕日が沈んですぐ、響司は神社裏の公園を神社に繋がる階段から頭だけを出して覗く。
「まだ早いけど、誰もいないよね?」
周囲に人間がいないことを念入りに確認する。遊んでいる子供がいなくなっても、ペットの散歩やランニングをしている誰かがいるかもしれないと響司は警戒していた。
「不審者という意味なら貴様がいるではないか。さっさと行くぞ」
ヨルは普通の人間に見られないのをいいことに、公園の砂場まで浮遊していく。
響司は自分が来ている黒ジャージを引っ張って、自分の行いを振り返る。黒ジャージの男が姿勢を低く階段から眼を左右に動かしている様は不審者そのものだった。
響司の顔が熱くなる。
「オカルト大好きの高校二年生として痛々しいデビューする気はないの!」
「華々しいの間違いではないか? ククク」
意地の悪いことを言って笑うヨルを尻目に、響司はジャージのポケットから四つ折りのルーズリーフを出した。
手のひらよりも長めの木の棒を右手に持って、ルーズリーフに描かれた魔法陣を砂場に写していく。
円も直線も一発で描き切ってしまう。
「描いたよ」
「陣の前に立ち、幼子の母親を呼び出してみよ。呼び出すときには幼子のことを思い浮かべるとよい」
ヨルに言われるまま、響司は砂場の前にリラックスして立つ。
交差点に囚われているマオは人を傷つけ、泣いていた。母親への愛を利用され、足に鎖が繋がっていた。人を殺すためだけに縛り付けられた悪魔の奴隷。
(僕はマオちゃんを解放してあげたい。だから、マオちゃんのお母さん。応えて!)
陣が点滅した。ヨルと契約したときと同じ光だった。明滅したあと、強く発光した。
光は電池のなくなった懐中電灯のようにゆっくりと時間をかけて消えていく。
光が消えて辺りに暗くなっていく。
響司の両手首が地面に引っ張られる。急にリストウェイトを付けられたような感覚だ。指先が痺れていて、拳を作ることもままならない。
「手がまともに動かないんだけど」
「修行をしとらん人間が人外を召喚しようとしたのだぞ。それ相応のダメージは受けるものだ」
「ヨルを召喚したときは平気だったよ」
「アレはライゼンが作った特別な悪魔契約の陣だから軽減されていただけのこと。体力そのものはしっかり奪われつくして意識を失ったのを忘れたのか」
響司はヨルを召喚した後、睡魔に襲われて寝た気になっていた。
「コーヒーを飲んでも目が覚めない眠気ってそういうことだったのか……」
ヨルは降霊の陣をのぞき込んでいた。真似するように響司も上から陣を見た。
砂場に描かれた陣に変化はない。マオの母親が陣の効果で呼び出されていれば、視界に入っているはずだ。周囲を見ても、いつもの公園の遊具しかない。
「これって失敗?」
腕が軽くなってきた響司は右腕と左腕を交差させ、十字にし、身体をひねるストレッチをした。痺れまではとれておらず、手に遠心力が強くかかるとビリビリと弱い電気を流されているような感覚が残る。
「素人の降霊で出てくるはずがなかろう」
「じゃあ、なんでやらせたのさ!」
淡々と述べるヨルに響司が吠えた。
「陣の反応を見たのだ。悪魔に喰われていれば陣はそもそも反応しない。今回は反応を示した」
「なら、マオちゃんのお母さんは!」
「喰われておらぬ。最悪の状態ではないということだ」
内心、胸を撫でおろす響司。直後、浄霊するために必要な降霊が出来ないという新しい最悪の事実に響司は頭を抱えた。
「ちょっと待って。どうやってマオちゃんとお母さんを会わせればいいの? 素人の僕じゃマオちゃんのお母さんを呼べないんじゃ無理じゃない?」
ヨルが鋭い左手の爪で、響司の額を何度もつつく。
「降霊で必要なのは、何よりも呼び出したい魂の情報だ。今の貴様は手紙を出そうとしておきながら相手の名前も住処も知らぬ状態。そんな状態では力を持った者でも降霊はままならぬ」
「なら、マオちゃんにお母さんのことを教えてもらえばいいんだ!」
つつくスピードが早くなった。
「戯けが。尋ねる前に悪魔に見つかって、じわじわと魂を吸われるぞ。まず、情報を得ても素人の貴様がやったところで呼べる可能性はゼロに近い」
つつくのを止めたヨルはふわりと浮かんだ。つつかれ続けた額はまったく痛くなかった。
「でも、これしか方法なくない?」
「もっと簡単な方法がある。貴様だけが母親を呼ぶのではなく、幼子と共に母親を呼ぶのだ。親子であれば血や思い出などの目に見えぬ数多の繋がりがある。上手くいけば母親を呼ぶことが出来よう」
「これでマオちゃんを浄化できるね」
響司はヨルに笑いかける。ヨルは空から街の方角を見ていた。
「次、あの幼子が人を襲うのは早ければ明日の朝だ。それも相当大きな事故が起こるぞ」
「え?」
「魂を喰らっている最中の雑魚を病院でワシは殺した」
階段でヨルが黒い靄を握りつぶしていたことを響司は思い出す。
「雑魚どもは少ない魂を分けながら貧しく生きとる。その中、ワシが喰うのを邪魔したのだぞ。奴らは今、飢餓状態よ。昨晩はワシらがおったからな、幼子に人間を殺す命令が出せなかったとみえる。雑魚どもは早々に動くぞ。最悪、あの幼子が喰われるな」
「助けなきゃ!」
「待て待て」
ヨルが急降下して響司の前に降りてきた。
「なんで止めるのさ!」
「今、悪魔を刺激すれば幼子がどうなるかわからんぞ。悪魔は生者を殺すほどの力を持たずとも、死者を喰らう力は等しく持っとるからな」
「でも放っていたらすぐにでも事故が起こるかもしれないじゃないか」
「悪魔が行動を起こしていれば、派手に音が聴こえるものだ。しかし、ワシを恐れておるのか朝からずっと息を潜めとる。隠れ方が下手すぎて音が漏れとるがな」
音。それは響司にも聞こえるノイズを指していた。
響司も耳を澄ます。紀里香を襲ってきた悪魔たちを察知したときと同じように集中する。
無音だった。いくら集中しても、何も聴こえない。
「全然聞こえない」
「この程度の距離ならワシはどんな音も逃さぬよ。貴様を助けたときも雑魚どもが妙に騒がしかった。行ったらあのザマだ」
ヨルが響司と向き合う。獣の頭蓋の奥にある赤い瞳が強く光っている。
「幼子が人を殺す前に止めたいのなら、深夜だ」
「なら、早めに寝て深夜に備えなきゃいけないね」
響司は手に持ったルーズリーフをまた四つ折りにして、ジャージの右ポケットに入れた。
(今から帰ってシャワーを浴びて仮眠して……。五時間は寝れるかな?)
マンションに帰るために響司は神社側の階段を下っていく。
「おい人間」
「何?」
「今回の戦いで死ねば貴様は悪魔に取り込まれて消滅する。今であれば降霊の陣を使い、死んだ母親に会うこともできるぞ」
ヨルは珍しく、穏やかな声だった。
力ではなく降霊したい魂の情報で成功するかどうかが決まる。マオ同様、響司も親であれば、素人・玄人関係なく降霊が可能だ。
――会うことができるのだ。親に。
響司は降りた階段を上って、背の高いヨルを真下から見上げた。ヨルの黒い靄の身体に響司は右手の平を触れさせる。冷たい空気が指と指の間を通り抜ける。
「母さんには、会わないよ」
ヨルは腰を曲げるように、背を低くした。
「何故だ。飾られていた写真を見た限りいい家族だったのだろうよ。貴様は写真に手を合わせてもいた。毒親が相手であればそんなことはしないはずだ。違うか」
苦笑する響司。何を口にしたらいいのか、一拍おいてから、喋り始めた。
「ライゼンさんの陣ってさ、僕が使うと体力をそこそこ持っていかれたり、身体動かなくなったりするんだよね。本番前に体力無くなって陣が発動しませんでした、ってなったら情けないじゃん」
「それが本心ではあるまい」
「一応、本心だよ。でも他にも理由はあるよ。例えば母さんに会うなら父さんも一緒の時がいいとか、もし母さんが悪魔に食べられてたら嫌だなとか。色々ありすぎて、全部終わってから考えようって決めたんだ」
「成功が前提。己の優先順位は後、か」
ヨルの声音はどこか悲しげだった。ヨルの顔が離れていく。元の身長に戻ったヨルは左手を黒い靄の中へ消した。
「一つ教え忘れていたことがあった。降霊の陣の前のページに描いてある陣は結界を張る陣だ。覚えておけば役に立つかも知れぬぞ」
声のトーンが低く、ただでさえ低いヨルの声は響司には聞き取りづらかった。ヨルの言いたかった言葉を解釈するのに数秒要した。
「そっか。教えてくれてありがとう」
「馬鹿者。悪魔に感謝なぞするではないわ」
響司が帰路につくと、ヨルは遅れて後ろをついてきた。
「ヨルは手を貸してくれないんだよね?」
階段を下りている最中に確認をとる。
ヨルがいれば頼もしい。しかし、響司は無理強いするつもりがなかった。だから確認だ。
「最初にそういったはずだ」
「わかった」
響司は自分の両頬を強く叩いて、活を入れる。
(よし、頑張ろう!)
――響司は知らない。後ろの悪魔が舌打ちをしたことを。
――響司は知らない。後ろの悪魔が歯ぎしりをしていることを。
――響司は知らない。悪魔が敵であるときの恐ろしさを。