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―― ◆ ―― ◆ ――
「なんでワシがここまでしてやらねばならぬのだ」
黒兎の姿のヨルが大きな声で文句をたれていた。
文句の原因は響司とヨルの体勢にある。ヨルが右手で響司を尻から抱え、誰からも見られないようにヨルが人払いの結界を張りながら、ゆったりと空を飛んでいた。向かっているのは響司の家であるマンションだ。
「だって動けないんだから仕方がないよねー」
悪びれる様子もない響司はくちびるを尖らせた。
『烙炎』に前髪が燃やされ、毛先が乱れながらも、視界良好。黒兎となったヨルの不機嫌な顔が丸見えだった。
「動かなかった、の間違いであろう。倒れたまま、再契約とだけ枯れた声で連呼するからワシが渋々運んでいるのではないか」
「本当に動けないんだって。関節も筋肉も悲鳴あげてる感じなの」
『烙炎』との戦いの後、姿を消したヨルを響司は探していた。記憶はあるのにヨルがいなかったので、衣服や商品棚の下敷きになっていないか隅から隅まで確認していた。
もしかしたらと衣服の山の下にわざと隠れているのでは、と考えて濡れた衣服を取り除いていたとき、電池の切れたラジコンカーのように身体の突然動かなくなってしまったのだ。
まともに会話出来るようになったのも、ついさっきのことである。
「呪いの核としていたグラムの柄を解放するからだ。悪魔の力を人間の身に降ろして行使するなぞ自殺行為もいいところだ」
「やっぱり黒紐くんってグラムなんだ」
「グラムではない。彼奴の象徴たる剣の柄だ。ワシが回収して形を維持させていたのだよ」
「なんで回収したの?」
「……さてな。忘れてしもうたわ」
「そっか、忘れちゃったか」
頭蓋骨ではないヨルの表情の変化はわかりやすかった。だから響司は質問するのをやめた。答えを聞いたら、もらい泣きをしてしまいそうだった。
「ほれ、着いたぞ」
玄関の前で降ろされた響司は制服のズボンから家の鍵を取り出して、ドアを開けた。玄関に入って、閉まっていくドアの向こう側でヨルが立ち尽くしたまま動かなかった。ヨルの全身が半透明となっている。
響司はドアが閉まらないよう、すぐに右手で押さえた。ドアを押さえいるだけでも二の腕が震える。
「ヨル、少しだけ中で話をしない?」
「したところでどうせ再契約をしろというのだろう?」
「そうだよ」
「ほれ見ろ。ワシはもう消えると決めたのだ」
「じゃあ、ただのお話がしたい。ダメかな?」
紅い瞳をまばたきさせたヨルは無言で大きな身体を屈めて、ドアの内側に一歩入った。
「ま、消えるまでの退屈しのぎにはもってこいかもしれぬのう。のう」
のそのそとヨルは部屋の奥に入っていき、右に曲がった。そこは響司の母親の写真が飾ってある部屋だ。響司は水分を含んで重くなった靴と靴下を無造作に脱ぎ、ヨルのいる場所を確認すると、指定席とも言えるタンスと壁の隙間に右脚だけ立てて座っていた。
「キョウジよ。ワシが消える前に母親を降霊の陣で呼んでみぬか?」
喉の渇いた響司は食器棚から出したコップを片手に、麦茶のボトルを冷蔵庫から出した。コップに麦茶を注ぐ音だけが部屋に残った。
「記憶が消えればライゼンの陣がまともに使えないであろう」
「そうなんだけど、別にいいかなって」
「何故だ」
「今は一人じゃないから」
麦茶の入ったコップに口を付けたところで響司はとあることに気付く。
「あれ? 僕さ、このままヨルが消えたら『欲無し』に戻っちゃうんじゃない……?」
響司の中に芽生えた欲の根幹は『ヨルと一緒にいたい』である。ヨルがいなくなれば記憶が消えてしまう。つまり、欲そのものが消えてしまいかねないのだ。
「今の発言から再契約できることを前提にしておることは察したぞ」
「えっと、どうしよっか……」
考えることを放棄してヨルに問いかけると、ヨルの垂れていた両耳が持ち上がった。あからさまに青筋を立てたヨルが響司の前に立ちふさがった。
「だからワシはつまらぬ欲だと言ったのだ!」
ヨルは左手の長い爪の一つで響司の額を何度もつつく。
「でも魂鳴り聴いたヨルは良い音って口にしてたじゃん!」
「音に嘘は付けぬ。ワシは音の悪魔ぞ! それはそれ、これはこれだ」
真剣な顔のヨルが両手を使って見えない箱のような物を横に置くジェスチャーをする。
数日話していなかっただけなのに、響司は久しぶりの会話のように思えた。ヨルも怒っていたかと思えば口元が笑っていた。
「本当に再契約できないの?」
これが最後だと響司は心に決めて、ヨルに訊ねた。
黙ったままヨルはゆっくりと首肯する。
「是だ。ワシとキョウジでは力関係が最悪すぎるのだ。枯れた大地に草木は芽吹かぬ。今のワシと契約すればキョウジに欲があろうとなかろうと力をすべてワシに吸われて死んでしまう。誰が好き好んで、殺さねばならぬのだ」
「今までってどうやってたの?」
「ライゼンの手帳にワシの力を封じていた。もっとも『烙炎』との戦いで手帳は失われたようだがのう」
ヨルは腕を組んだヨルが響司に針で刺すような視線を送ってくる。響司は『烙炎』に制服のブレザーにライゼンの手帳を入れていたことを思い出し、目線を逸らした。
「いや、その、ごめんなさい」
「物はいつか壊れる。謝罪は不要だ」
「ライゼンさんの形見なわけだしさ……」
「生きておるキョウジとライゼンの形見ならワシは生きておるキョウジを選ぶ。だからこれで良いのだよ。のう。のう」
響司は気持ちが軽くなった気がした。ヨルの身体がさらに透けていく。透けた身体の奥にタンスとライゼンの残したオルゴール『月下の檻』が目に映る。
――そう、ライゼンの残したオルゴールだ。
「……ねぇ、ヨル。手帳以外でもいいの?」
「力の封印先の話か? なんでも良いわけではないぞ。霊的に強度が高くないといけないのだ。ワシのような上級悪魔の力を封じて壊れぬ品はそうない。ライゼンの手帳ですらギリギリだったのう」
「手帳でギリギリ、へぇー……。なら、いけるのでは……?」
「なんだその子悪党のような目は。何を見ておる」
ヨルは響司の視線の先を追うように身体を反転させた。月と黒兎が刻まれたオルゴールが確かに存在しているのだ。
目を大きくしたヨルが右手でオルゴールを指差す。響司は満面の笑みで答えた。
汗を滝のようにかき始めたヨルは大きな両耳をたたんだ。
「いやいやいやいやいやいや、アレはいかんぞ? アレだけはいかん。ワシを苦しめた『月下の檻』なぞに力を封印なんぞせぬぞ? わかっとるな? わかっておるよな?」
響司は慌てふためくヨルを無視して『月下の檻』を両手に持った。固い蓋を開けて、オルゴールの中にあるゼンマイを親指と人差し指で摘まんだ。
「えーっと、確か、力を込めたらいいんだっけ?」
オルゴールの横穴にゼンマイを差した響司は結界の陣を使う要領でオルゴールに力を注ぐ。『月下の檻』として、力が蓄積されていくのが分かった。
「おい、何をしておるのだキョウジ!」
響司は母親と一緒に聴いていたオルゴールを手慣れた動きで、動かす準備をする。巻いているゼンマイが重くなってきたので、穴からゼンマイを引き抜く。
蓋が開けっ放しのオルゴールはストッパーがかかっているらしく、まだ曲を奏でない。
「一度蓋を閉じて、もう一回開けます、っと」
オルゴールが鳴り響いた。マンションの一室で楽しく優しく音楽が鳴り響く。
――ヨルの周囲にだけ、結界を形成しながら。
「あああああああ!? 力を注いだな! それは悪魔にとって恐ろしい結界を創り出すアイテムなのだぞ! 知っているであろう!?」
結界が張られたヨルは結界を壊そうとがむしゃらに爪を立てる。結界が頑丈すぎて、ヨルの爪は弾かれるだけ。爪が折れないかの方が心配になる。だが、欲とは独善的なモノなのだから、と某悪魔から教えられたので、響司は心を鬼にする。
「再契約さ、してくれる? してくれないと消えるまでずっと鳴らすよ? 力注ぐよ?」
「ライゼンも昔似たような脅しをしてきよったわ! いらぬところばかり似おって! ワシの契約者となる者は悪魔以上に悪魔だのう!?」
「悪魔相手に交渉するんだからこっちもそれ相応でいかないといけないよねぇ。で、どうするのかな?」
この時のことを振り返ったヨルは後にこう語る。
『興がのったから茶番に付き合っただけだ。決して屈したわけではない。人間なぞに屈してはおらぬ。おらぬのだよ……』と。
まだ明日、更新あるんだよ




