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響司が五階を目指して階段を昇っていると、四階で不可解な動きをしている光源があった。非常階段から盗み見ると、人のような手と足がある紅蓮の炎。見えているのは背中らしく、荒々しくモノを蹴って、どかして、何かを探している様子だった。
探し物はみつかったらしく、人型の炎が燃えている右手で拾い上げる。手のひらサイズの紙が燃えていた。紙が燃焼した後、燃焼速度が遅い黒い物体が煙を上げて燃えていく。
「もぬけの殻になってらぁ」
炎がゴミをポイ捨てするように投げたのは響司が『預かっていた古い手帳』の欠片だった。
「物に本体を封印しちゃいけねぇ。自分で動かせねぇし、力も満足に発揮できない。良いことなんて一つもねぇのにな。そうは思わねぇか? 玩具」
人型の炎が振り向くと、人間の顔にあたる部分に複眼のような濃い紫の目が輝いていた。
響司は人型の炎を見た瞬間、頭痛が走る。
『足長おじさん』が戦った『化け物』で、高塚と千佳に火傷を負わせた張本人だと記憶が囁きかけてくる。
「『化け物』、『足長おじさん』はどこ?」
頭痛が収まったところで、響司は人型の炎に近づく。
「『化け物』だぁ? おいおい散々オレ様のこと『烙炎』って呼んでたじゃねぇかよ」
『烙炎』という言葉でまた頭が痛くなる。麻酔なしで頭を直接いじられているような感覚が止まらない。響司は歯を食いしばり、痛みに耐えていた。
「『烙炎』……そうだ。お前は『烙炎』って名前だった」
「そうか。『クソ兎』が消滅して記憶が消えてるのか。じゃあ、覚えてないのも当然か」
敵意はないと言うように両手を挙げた『烙炎』が響司に歩み寄ってくる。
「可哀そうな『夜兎』だねぇ。守りたかった人間には忘れ去られてなぁ。オレ様も残念だぜ? 『夜兎』が消えて恨みの鋭い視線を向けてくる玩具を拝んでみたかったのに、平然とされてるんだからな」
『烙炎』が話すと響司の頭痛が酷くなる。頭の中に新しい情報が無理やりねじ込まれるように『足長おじさん』の姿が響司の脳裏に焼き込まれていく。
(性格に似合わない白銀製のウサギのネクタイピン。右腕が事故で失ったのか、左腕だけだった? ネクタイピンはともかく、腕の事なんて忘れる?)
『足長おじさん』の記憶が再生されている間に『烙炎』は目の前までやってきていた。
「すぐ壊すことは簡単だ。だから少し遊ぼうじゃないか」
両手をパンッと『烙炎』が叩くと、響司の逃げ場を奪うように、非常階段で火柱が上がる。四階すべての壁と天井が火柱に染められ、煉獄の階と化した。
熱気で響司は汗が止まらなくなる。
「この部屋の中で五分逃げろ! オレ様が玩具を捕まえられなかったら、その死人同然の魂、喰わずに生かしてやるよ。オラ、さっさと逃げろよ!」
『烙炎』が響司の眼前で火球を作り始める。大きくなっていく火の球に響司は目を奪われる。『足長おじさん』を焼き殺したであろう炎は灼熱の赤から禍々しく紫へと変色していく。
(これは、逃げられない)
響司が死を直感したとき、右腕が引っ張られた。ただ引っ張られたのかと思えば、遊園地の絶叫系アトラクションかと思うような曲線を描いて響司の身体を連れ去っていく。
紫色の炎は響司の立っていた場所に着弾し、溶かすのでも燃やすのでもなく、触れたモノを灰へと変えていた。
「おいおい、こりゃ驚いた。なんでまだその黒いのが存在してんだよ! 『夜兎』は消滅してるんだぞ!?」
響司の右腕には艶のある黒い物体が巻き付いていた。
「黒紐くん……?」
黒い物体は二回小さく頷いた。奇怪な黒い物体に響司は驚きながら、知らないはずの物体を知っていたかのように呼んだ自分の口を触る。
「そうかいそうかい。そこまでして……契約者を生かすために『呪い』かけてまで守りたかったのかよっ。『クソ兎』の前で殺せないのが残念でならねぇ! 壊す順番を間違えたぜ! 先に玩具で、メインに『クソ兎』にすべきだった!」
両手で顔を覆った『烙炎』が悶えていた。指の隙間から隠しきれていない紫の複眼から狂気の視線を響司は感じ取る。
「ハンデをつけりゃ、楽しめるかもな」
『烙炎』が一歩前に進むと、野球のボールサイズの紫の火球が作られる。二歩で二つ。三歩で三つ。
火球が三つ完成すると、火球は真っすぐ飛び、響司の足元を灰にした。
「オレ様は走らねぇ。だが、火の球三つ溜まると今みたいに攻撃する。灰になりたくなけりゃ呪いと一緒に足掻いて見せろ!」
響司は『烙炎』の掛け声で走り出す。無様に『烙炎』へ背中を向ける形で。
(『足長おじさん』がここにいないってことは勝てなかったんだ。僕が勝てるはずがないじゃないか!)
後ろを振り向くと紫の火の球が三つ、響司へ直撃コースで飛んできていた。炎が響司に触れる前に黒紐が炎をすべて叩き落した。
黒紐は灰にならず、右腕に巻き付いている。
「その黒いので防ぐのかよ! 『ライゼン』の技はどうしたぁ!」
収まったと思った頭痛がまたやってくる。それも今までの中で一番の痛み。トンカチで殴られたような痛みだった。
視界が歪み、息が出来なくなる。見ていた炎の景色が横転する。
(酸欠……?)
一酸化炭素中毒。
炎の中で活動できるように人間の身体は出来ていない。だというのに、走った。限界そのものは高塚と千佳を逃がした時にもう近かったのだろう。
響司は自分が転んだことを自覚したときには、腕と足が痺れて、動けなかった。
動けない人間に火の球は飛んでくる。黒紐が弾いてくれているから響司は灰になっていないだけだ。
横たわっている響司の目の前に自分のスマホが転がっていた。
(死ぬなら、最後に父さんと逢沢さんに何か、メッセージを……)
震える指でスマホのメモアプリを開いた。
見覚えのないメモが目に入る。部分的に文字化けしてしまっていて、すんなりと読める文章ではなくなっている。
交差点で、学校で、病院で、何かをしていたらしい記録たち。すべてに『足長おじさん』が関わっていたことを響司は覚えている。何度も出会い、会話をしたはずなのに顔と名前だけが抜け落ちている。パズルのピースが見つからない。
――黒い靄がかかっていた。
(あれ?)
スマホが水で見えなくなった。温かい水滴は顔の皮膚をつたう。
「なんで、涙が止まらないんだ……」
立ち上がる元気もないのにあふれ出てくる涙。泣くような怪我をしているわけではないのに止まらない。感情が揺さぶられ、あふれてきている涙だった。しかし、響司はどんな感情が刺激されて涙を流しているのかわからなかった。感情だけが先走っている。
「死にたく、ないな」
ふと、蘇る『足長おじさん』の背中。黒くて大きい背中。退屈で死んでしまう体質を理解してくれた唯一の人。
顔の黒い靄が取れない。
(思い出せない……どうして!)
浅い呼吸をしながら悔しがっていると、響司の顔の前に炎の足がすぐそこにあった。
「一分もってないじゃねぇか。脆い! 脆いねぇ人間は!」
大げさに騒ぐ『烙炎』を床に張り付いたまま響司は見上げる。
「逃げもしねぇ、足掻く気もねぇなら、死んどけや『欲無し』」
『烙炎』が足を上げて踏みつぶすポーズをとった。
響司の右腕が動いた。黒紐が『直線の多い妙な模様』を作って、『烙炎』の前に叩きつけた。
「ライゼンの陣!」
慌てた声を出して一気に後退する『烙炎』。
黒紐はすぐに『直線の多い妙な模様』を解いて、伸びた。際限なく伸び続けた黒紐は響司の身体全体を包み、跳ねるように上下していた。
響司と黒紐が陸を跳ねる魚のように移動していく。
「あの紐! ブラフかよ!」
『烙炎』の叫びのあと、ガラスが割れる音がした。
響司を身体が黒紐によって、投げ出される。投げ捨てられたのは、地上十メートル近く離れた空中だった。
響司は新鮮な空気を吸い込んで、悪い空気を吐き出す。
「黒紐くんさ、空気はいいけどコレ僕どっちみち死ぬくない?」
野次馬がビルに入らないようにしている警察官たち。そして、火を消そうとする消防隊が地上に見える。
重力に従った落下が始まる。
「僕、たくさんの人の前で肉片になりたくないんだけど」
もう言ってもしょうがないと思いつつ、黒紐に文句を言う響司。
黒紐はずっと形が定まっていなかった。スライムのようになった黒紐が響司の右腕に巻き付いて、子供がねだるように引っ張る。
「何をしろって言うのさ」
――描いてクダサイ。
どこかで聴いた澄んだ声が頭に入ってくる。
――ワタクシの『契約』を、代価を支払いマショウ。
『契約』の二文字が頭の中の黒い靄を払っていく。
響司の頭に浮かんだのは、面白い草食動物の骸骨をのせた黒い靄だった。
(そうだった。始まりは公園だった)
右腕が動いた。それは黒紐によってではなく、響司の意志だ。
指先から黒いインクのように黒紐が空中で伸びていく。円と曲線が交差していく。ありったけの力を込めて、読めない文字を描く。
(僕の命をあげるから、もう一度名前を教えてくれないか?)
野次馬たちが上を見上げて、指をさす。落ちている響司を見つけたらしかった。
「人が落ちてるぞ!」
「逃げろ!」
円形に広がる野次馬たちは悲鳴を上げた。
誰も響司を助けようとはしない。きっとそれは正しいのだ。落下で加速した人間をキャッチしようなんて考えない。生きるために必死に逃げる。
響司は絶望していなかった。人生で二度も描くと思っていなかった『陣』は完成したのだから――。
青白く光った陣を見て、響司は口角を上げた。
「――まったく、後悔している時間をワシに与えぬとは、悪魔使いが荒い契約者もいたものだのう。のう」
低い声が特徴的な言葉で締めた。
地面のコンクリートとぶつかる直前、響司は黒い影に連れさらわれた。さっきまで落下していた身体が上昇をしていく。響司は柔らかい毛のような感触を肌で感じていた。腰から下を大きな毛布で支えられている。傍から見れば、片腕のお姫様だっこだった。
響司を助けたのは、黒い毛だらけの中でルビーのように輝く赤く大きな瞳だった。ひくひくと動く小さな鼻の周りには長いひげが数本生えている。
成人男性二人が縦にならんでようやくつり合いそうな身長。身長が高い原因は二つの垂れている長い耳だ。食いちぎられたような傷がある両耳の付け根が頭の頂点の左右にあるので、必然的に身長が高く感じる。
人の頭ほどの金色の鈴が右耳にだけついている。黒い毛の中で揺れる鈴は夜空で輝く満月に見間違えそうだった。
(真っ黒な……兎……)
左手と右手はそれぞれ形状が違っている。右手は傷だらけで獣っぽいのに対して、左手はバイオリンの弦を弾くときに使う弓と呼ばれる棒か、オーケストラの指揮者が持つ指揮棒のような黒くて細長い爪がついている。
ただ爪を見ているだけでそのような印象を与えてくるのは、上半身がタキシードスーツのような衣服に包まれているからだろう。
「舞台を下りた者をまた引きずり出すには少々早すぎると思わぬか――馬鹿キョウジ」
不敵に笑う長身の黒兎。響司はその名前を知っていた。
「僕の苗字は刹那だよ――ヨル」
「知っとるわ、馬鹿キョウジ」
長身の黒兎の悪魔――ヨルは赤い瞳を閉じて、くくく、と嬉しそうに笑った。




