18
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『烙炎』のいる階から響司を逃げ出させることに成功したヨルは背中に当たる熱気に嫌気がさしていた。
「小僧を狙うならワシを消してからにしろ」
左足のない人型の炎がビルの中を浮遊している。人間の顔に当たる部分にある炎が不自然に歪み、不快な笑みを作る。
「ヤなこった。だってお前ら最高の玩具だもん。片方イジればもう片方も苦しむ。まったく、最高だぜ!」
含み笑いをした『烙炎』にヨルが不吉な気配を感じた。
ビルの下から壊れた灯油ストーブを無理やり稼働させるような独特の音が二つした。
「なんかいるー!」
響司の悲鳴が非常階段で反響した。
悲鳴を聞いた途端、空中で『烙炎』が笑い転げ始める。
「ここ抜けたら終わりなハズねぇでしょ? オレ様の分身はいくらでもいるんだよ!」
『烙炎』がヨルに向かって突進してくる。ヨルは半透明の黒い靄を揺らした。右半身がただの黒い靄から猛々しい黒い炎のように大きくなる。
「ならば貴様を喰らって、小僧を助けるまでのことだ!」
ヨルの右半身から腕が生える。骨の左手とは対称的な黒い毛を持つ獣の右腕。響司と契約しているときは響司への負担を考えて自ら封印していた右腕だ。
飛び込んでくる『烙炎』をヨルは両手でつかみ、放り投げた。
ビルの壁に触れた『烙炎』は触れたモノをすべて焦がして静止した。
「やっと右腕出したかよ。けど、いいのかぁ? その消滅しかけの身体で全力出してよぉ。『雹剣』のように無様に消えちまうぜ?」
「もとよりこの戦いが終われば消えるつもりだ。だがな、ワシが消えるときは貴様も道連れだ『烙炎』!」
「人間なんかを愛玩する変わったヤツだとは思ってたがココまで狂ってるとな」
「好きに言っていろ。人間の穢れた欲に侵食され、壊すことを快楽だと思う貴様に何と言われようとも痛くも痒くもないのう。のう」
ヨルは右手と左手から黒い糸を出し、手早く編む。編み出されたのは漆黒のハープ。音の悪魔・ヨルの武器である。
対する『烙炎』は拳程度の大きさの火球をいくつも作り出していた。先ほどまでの火球よりも小さい。小さくとも熱量は上がっているらしく、コンクリートの壁を熱して溶解させていた。
「悪魔なら悪魔らしく快楽に堕ちろよ! 壊して、奪って、蹂躙しろよ!」
『烙炎』の言葉が号令となり、火球の雨がヨルを襲う。
ヨルはハープの弦を一つ、左手の爪で鳴らす。ヨルの持つハープの中でも低い低い音が見えない波を生み出す。波は広がり、火球をすべての進行を拒む。
「その先には何もないのだ。簒奪しつくした後に残るのは恨みと汚れた己だけだ」
ライゼンと出会う前、『夜兎』と呼ばれていた頃がそうだった。野良悪魔として気に喰わないことがあれば暴れに暴れた。人も、悪魔も、すべて残らなくなるほどに――。
「いいじゃねぇかよ! 恨みの視線の先にオレ様がいる! 絶対的な存在としてのオレ様がいる! 悪くねぇっ!」
昔の自分を見ているようで、戦いの中だというのにヨルは『烙炎』に同情しそうになる。
「己しかおらぬのだぞ。名を呼ぶ者も、他愛のない話をする相手もおらぬ。それではワシらの生まれた『闇』と変わらぬではないか!」
「『闇』には人間はいねぇだろう。バカか?」
悪魔は初めから悪意を持って人間の世界に出てくるわけではない。召喚されたばかりの悪魔は何も知らない赤子だ。何度も何度も人間の願いを叶えていくことで知っていく。空虚すぎる悪魔としての存在価値を、人間の醜さを、己の願いだけは絶対に叶わない現実を――。
記憶を消されても、どんなに罪を背負おうとも悪魔たちは願わずにはいられないのだ。孤独の絶望から解き放ってくれる人間に出会うことを――。
「馬鹿は貴様じゃ。何故、わざわざ孤独への道を歩むのだ。人間の世界に来たばかりのとき、貴様は心躍らなかったのか! 光ある世界に! 己以外の存在に!」
「人間なんぞに期待しても無意味だからだ。召喚されたと思ったら殺せだの呪えだのしか言わねぇクソばっかだ。そんなつまんねぇことばかり願う存在がオレ様の渇望を完全燃焼させることなんて、できやしねぇ! だからオレ様はオレ様に期待するぜ! 最高の楽園を創り出すオレ様をなぁ!」
顔を上にして高らかに笑う『烙炎』の声が痛々しかった。
ライゼンに出会っていなければ自分が『烙炎』のようになっていたのではないかとヨルは考えてしまう。
「良き出会いがなかったのだな……」
「出会い? そんなもん、いらねぇよ!」
ヨルの音に防がれた火球が音もなく消えていく中、『烙炎』がまた突進してくる。
理由はヨルにもわかる。遠距離戦をしていては、決して勝てないからだ。『烙炎』は過去に何度も戦っているヨルの攻撃手段を知っている。『烙炎』が勝てるのは糸も音も出させないようにする近距離だけが勝ち筋なのだ。
ヨルは『烙炎』に近づかせまいとハープを鳴らそうと、左手の爪をかけた。
左手の爪に弦がまったく当たらない。ハープを見ると、弦は最初の一回で切れていた。弦を張らせるための本体にもヒビが入っており、今にも砕けてしまいそうだった。
(限界が近いか!)
ハープを形成していた糸を解いて、身体に取り込む。
一秒でも長く世界に醜くともしがみ付くために、下手に力を外に出さず、内側に留めることをヨルは選んだ。
『烙炎』と取っ組み合う形になってしまう。ヨルが一番やりたくなかった近接戦だ。
「いいのかよ掴んじまってよぉ。兎の丸焼きになっちまうぜ?」
ヨルの腕に炎が燃え移る。黒い毛を持つ右腕が轟々と紅く染まっていく。
痛みと熱さは悪魔のヨルも感覚として持っている。それでも悲鳴は上げなかった。
「まだ、ライゼンや小僧の仕置きの方が辛いのう! のう!」
獣の右手で『烙炎』の炎の手を握り潰して、そのまま殴り飛ばす。
『烙炎』の吹き飛んだ後に火の粉が舞う。
「力入ってねぇんじゃねぇか?」
奇怪なものを見たと言わんばかりに炎の顔が崩れた。
「なんで下から燃えてやがんだ?」
ヨルの両腕は未だに燃えている。すぐに消えそうな火種になりつつある。しかし、ヨルの黒い靄の身体の左半身が燃えていた。
「小僧に忠告しておくべきだったか……」
『烙炎』に触れられたこともない場所から、初めから炎が出ていたかのように紅い炎が存在している。
ヨルは浮遊しているのも難しくなり、地上に降りる。立ち眩みをするようにふらついて壁にもたれかかると右腕が勝手に消えた。
「なーるほどなぁ」
妙な頷きをくり返す『烙炎』をヨルは見上げた。
「『夜兎』と恐れられた忌み名持ちの悪魔と『欲無し』が契約出来てるっつーのが意味不明だった。どう考えても、つり合わねぇじゃねぇか。あの玩具の力が一なら『夜兎』は十以上。契約関係を結んだら確実に『欲無し』はすぐに魂を吸われて干からびる。でも『欲無し』はピンピンしてる。さて、なんででしょうねぇ?」
まだ辛うじて動く左手からヨルは一本の糸を出す。
鞭のようにしならせて『烙炎』にぶつけたが、糸に強度も火に対する耐性なんてものはなく、あっさりと燃え尽きた。
「『夜兎』が玩具とつり合うだけの存在になっているってことだ。なら、つり合わせるために何をやった? 簡単だ。オレ様が誰かに寄生するために力を分散させてるのと同じだろう?」
『烙炎』の言っていることは正解だった。
響司と初めて契約したときの話だ。召喚をしただけで気を失ってしまった響司ではヨルの力が耐えれないと思った。契約する方法を考えているときに目をつけたのが響司が持っていた。ライゼンの残した手帳。
霊的強度が高かったライゼンの手帳であれば、仮初の器として利用ができる。響司と契約できる程度にまでライゼンの手帳に力を封じ込めていた。
「けど、おかしいじゃねぇか。糸は出せるのに右腕が先に消えるか? 普通は象徴となるものが完全に壊れてから肉体が崩壊する。『雹剣』の剣ようになぁ。でも、てめぇは右腕だけ消えた」
ヨルは左手から糸を出そうとするが糸が出ない。完全に力切れ。消滅へと近づいていた。
「その身体、分身だな?」
『烙炎』がヨルの頭蓋骨に右手の人差し指を押し付ける。
焼けていく音がヨルの頭に響く。
「契約者もなしにずっと行動できたのも本体から力の供給があったからだ。本体が傷ついて、供給が途切れたから一気に消えかけてやがるんだ! バッカじゃねーの?」
「偶然であったとしても、契約をした者を守るのが……契約悪魔だ。何度でも、何度でも守る……。今度は、今度こそは守って見せるのだ……」
声を枯らしてしゃべるヨルに『烙炎』は一発、蹴りを入れた。
「確かに、本体さえ無事ならいくらでも分身は作れる。本体が、無事なら、なっ!」
『烙炎』は三度ヨルの顔を殴った後、ヨルの額から炎を広げる。ヨルの黒い靄の身体もすべて炎に飲まれていた。
「つまんねー壊れ方してるんじゃねぇよ」
「ワシを喰わぬのか」
「分身体じゃなくて本体喰わなきゃ意味がねぇだろう。まぁ、また人間にクソ兎が召喚されたらまたテメェで遊んでやるよ。契約者を殺して、テメェだけ闇に還す。最高だな。無限に遊べる玩具の完成だ!」
狂気に満ちた高笑いに呼応するように、周囲に撒き散らされた炎が踊る。
「さてさて、もう一個の玩具を壊しに行くか。アッチはちゃんと壊れてくれればいいけどなぁ」
非常階段へと向かう『烙炎』の背中をヨルは意識が定まらない中、見過ごした。
(ワシはライゼンやグラムのように託して逝けぬのか……。ワシはまた守れぬのか……。どうしてワシは良い願いだけは叶えてやれぬのだ……。良い人間だけ守れぬのだ……)
頭の中に浮かぶのは響司との記憶だった。
――召喚された公園で見た間抜けな顔。
――浄霊をして力を使い切って、気を失った姿。
――自分の命を軽んじキリカに叱られたときのしょぼくれた背中。
――人間でありながらグラムが消滅したことに心を痛めていた、あの夜。
(小僧、貴様は優しすぎる。悪魔にも死者にも平等に手を差し伸べる。そんな貴様だからこそ、いつか良い魂鳴りをさせる。聴けぬのが、残念で仕方がないのう。のう)
炎に包まれ、世界から消えていく中、ヨルは聞いた。
誰かが階段を昇ろうとする足音。 昇ってくるのだ。一人で、魂鳴りのない存在が。
階段を下りているのなら『烙炎』だとわかる。分身体を取り込みながら、下の階へと下りている。
(馬鹿キョウジめ……。貴様を守れなかったワシのことなぞ忘れてしまえ。そして願わくば、生きろ。生き延びてくれ)
ヨルのいた場所には焦げた痕すら残っていなかった。




