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『烙炎』を追いかけるヨルが左手から糸を出して鞭のようにしならせて、叩きつける。『烙炎』は高塚の身体を乗っ取ったままで、糸に当たらないようにビルの中をジャンプやスライディング必死に避けていた。
路地裏のときは細い糸であれば避けずに燃やしていた。今は絶対に当たるまいとしている。
高塚の背中の炎が白いワイシャツを燃やしていく。天井のスプリンクラーから出てくる水で、炎は小さくなったり、大きくなったりを繰り返していた。
(糸は炎で燃えてる。水で炎が弱くなってるのか)
『烙炎』が全身炎の人型になってしまえば、高塚の身体は炭となる。『烙炎』に力を使わせるわけにはいかない。
「『烙炎』に力を使わせないで、コウ先が死んじゃう!」
「甘っちょろいことを言っておる場合ではないわ! 狩れるときに狩るべきだ。どうにかしたければ小僧が勝手にしろ!」
ヨルの意見はもっともだった。これ以上被害を出さないようにするのであれば今倒すべきだ。高塚一人の命でたくさんの命が救われる。響司は受け入れるかは別にして。
(退魔の陣を作るのに必要なモノもないし、先に清水さんを安全なところに連れて行こう)
響司はスプリンクラーで濡れた長い前髪が額と瞼に張り付き、邪魔になった。手で右に流して、右目だけは絶対に見えるようにする。
千佳は制服がずぶ濡れになって、薄っすらと下着の形が浮き上がっているにも関わらず、ぼうっと立った。
今の千佳が一緒に走って逃げれるとは思えない。おぶって逃げるのが一番いいと響司は考えた。いつもなら、下着の形が見えて恥ずかしかったり、申し訳なくなったりする響司も、今回ばかりは気にしていられなかった。
「ちょっと触るけど、ごめんね」
響司が千佳の身体に触れようとすると、右肩が抜けそうな力で引っ張られる。千佳から一気に離された。
千佳と響司の間に火炎の球が割り込んで、炎の壁を作り出した。炎は形を変えていく。細くなった炎が格子状になり、虫かごのような炎の檻の中に千佳の身体が捕らえられてしまう。
「ついでに捕まえることはできねぇか」
ヨルの攻撃から逃げるだけで精いっぱいだと思っていた『烙炎』は余裕があったようだ。響司の行動を妨害してくる。
「あのままだったら僕も捕まってた……」
響司の顔前に黒い紐が伸びてくる。
「お前が助けてくれたの?」
紐はコクコクと頷いた。ヨルがくれた紐は言葉はなくとも意志はあるらしい。
「ありがとうね」
くねくねと照れるような仕草を紐がした。
「けど、どうしよう。あの炎の檻は僕じゃ壊せないし……周りの炎も少しずつ増えてきてる」
スプリンクラーから出る水が止まってしまっている。高塚の身体からあるれる炎で売り場にあった衣服や化粧品に引火し、ゆっくり炎が響司たちの行き場を奪っていく。
黒い紐が響司の肩を叩く。
紐はいくつにも枝分かれして細い糸となる。糸が別れた糸と部分的に繋がり、模様を編み込んでいく。ヨルが左手だけでたまにやっていた、あやとりと同じことが起こっている。変化が終わり、出来上がった模様は大きな円の中に直線や曲線が引かれたものだった。
決して綺麗なものではない。子供が無計画に描いた不格好な図に見える。しかし、響司には不格好な図が別のものに似ている気がした。
「なんでキミが降霊の陣を知ってるの?」
紐は答えない。ところどころ間違っている箇所はあるが、間違いなくライゼンの残した降霊の陣だった。
「僕の指示通りに動ける? 絶対に間違わずに」
また紐の状態に戻って、黒い紐は一回だけ大きく頷いた。
「オーケー、ならいける。ヨルの力だもんね」
響司は炎の檻に捕らえられた千佳ではなく、ビルの中央でヨルと『烙炎』の戦いを観察する。
スプリンクラーの水が止まっても相変わらず肩と背中から出ている炎の大きさが安定していない。響司に放ったような炎の球を作る素振りを見せない。ヨルの身体は半透明のまま。糸もたくさんは出せないのか、四本しか使っていない。
二体の悪魔は思うように力を発揮できていないようだった。
炎の檻の中で立っている千佳へと響司は視線を動かす。千佳の身体から炎は出ていない。寄生はされていても、すぐに命の危険があるかと聞かれれば高塚よりは安全そうだった。
「清水さん、少し待ってて。先にコウ先の身体取り戻してくるよ」
本人には聞こえていないであろう言葉をかけて、炎が広がる中央に飛び込んだ。
(多分、チャンスは一度だけ。二度目は絶対に警戒される)
赤ちゃんのようにハイハイ歩きで濡れたタイルの上を前進する。『烙炎』の視界に決して入ってはいけない。物陰にしっかりと隠れて、不意をつくことだけ考える。
(僕は人間だ。悪魔には勝てない)
路地裏でウバナが『烙炎』に消された後、感情があっという間に折れた。冷たい恐怖と嫌でも感じてしまう熱気による存在感。自分のせいで巻き込んでしまった高塚と千佳、消えかかっているヨルがいなければ、すぐにでも逃げ出したい。
(でも、今だけは。どうにかしなくちゃ。みんなで生きるためにも)
正面からは絶対に戦ってはいけない。自分が死んでも終わりだ。
水音すら立てないように静かに柱や倒れている棚の裏に隠れてヨルと『烙炎』の戦っている付近へと到着した。
『烙炎』がレジカウンターの上に飛び乗ると、ヨルの操る四本の糸が『烙炎』の背中を追いかけて、レジカウンターへと振り下ろされた。糸が触れたものは名刀で切った藁のように切り裂いていく。
近づけないと悟った響司は気配を殺して、濡れた衣服の山の中に隠れた。湿って居心地の悪い中で響司は唇を小さく動かす。
「ヨル、聞こえる? 多分、聞こえてるよね?」
音の悪魔であるヨルなら聴こえているはずと信じて、囁き声で話しかける。
「今からコウ先の中にいる『烙炎』を追い出そうと思う。けど、動き回られたら成功しないと思う。だから、数秒でいい。動きを止めて。出来たら合図をちょうだい」
服の隙間から響司は二体の悪魔の様子をうかがう。
「逃げてばかりか『烙炎』!」
「っけ! 逃げたのはテメェの元契約者だろ? この身体とあそこにいる人間ほっぽって、いつの間にかいなくなりやがったじゃねぇか。クソ兎、テメェは捨てられたんだよ」
「生きるために逃げるのは実に人間らしいではないかのう。のう!」
ビルの中を飛行しているヨルと身軽な獣のように壁や地面に広がった障害物を使って、縦横無尽に動き回る『烙炎』。
『烙炎』がとり憑いた高塚の肩から腕に炎が広がった。高塚の身体から蒸気が出てくる。
「やっと熱くなってきたぜぇぇぇ!」
ヨルに背中しか見せていなかった『烙炎』が反転し、空中のヨルに殴り掛かった。炎の拳が骨だけのヨルの顔を捉えていた。
空中でヨルが後ろに一回転して、体勢を整えた。
『烙炎』が動きを止め、ヨルを見上げて炎を大きく滾らせる。天井に届く炎の熱が広がり、地面に広がる水たまりを温めていく。
「濡れて熱くなれなかったがようやくだ。ようやく、これで戦えるぜ!」
「そうか。追いかけっこは終わりなのだな!」
黒い糸が二本『烙炎』へ、一直線に向かう。
『烙炎』は炎に包まれた右手で糸を掴み、糸をあっさりと燃やした。
「前にも見せたじゃねぇか。学習能力ねぇのかよ」
「逃げぬか確認しただけだ。貴様はなんだかんだとライゼンとワシから逃げ続けていたからのう。のう」
「玩具が壊れていく最高のショーを見るのがオレ様は好きなんだよ! 絶好の機会を待っていただけさ。今はあの玩具はいねぇ。テメェだけでも壊れろ、クソ兎!」
「小僧は『欲無し』ぞ? 人間でありながら人間ではない大馬鹿者だ。アレを嘗めていると痛い目を見るぞ?」
「たかだか人間相手に大層な評価するじゃねぇか。相変わらずのご執心っぷりだねぇ」
「野良悪魔の貴様にはわかるまいよ」
床の中から黒い糸が急に這い出てくる。糸はまだ燃えていない高塚の両足に絡みついた。
『烙炎』の顔があからさまに曇った。足からは炎が出ず、糸が切れずに身体をよじっている。しかし、糸は切れない。離れない。
「こんな濡れた床では足元はまだ温まっておらぬのだろう?――小僧!」
ヨルの合図で響司は衣服の山から身体を出す。
「黒紐くん、コウ先の前までゴー!」
響司の右腕から黒い紐が伸びる。目的地に着いた黒紐が高塚の身体の前で一度ブレーキをかける。
「そこから僕の右腕の動きに合わせて動いて!」
右手を前にして、腕を大きく動かし、円を描く響司。黒紐も響司の腕に合わせて動く。ただし、響司の腕が一センチ動けば、黒紐は十センチ以上動く。
「そのまま直線!」
美術準備室で確認しながら黒板に描いた退魔の陣を響司は空気に描く。直線多めの退魔の陣が黒い紐によって、焦げた天井から濡れた床いっぱいに描かれていく。
「おい、なんだよこのバカでかい陣は!」
「陣は大きければ大きいほど力を増すってヨルが教えてくれた」
最後の直線を描ききったところで退魔の陣が青白く光る。今までのどの陣よりも強く、輝く。
「これだけ大きければ、さすがに効くでしょ!」
高塚の身体に光が直撃する。背中と右腕に張り付いていた炎が人型になり、高塚の身体から剥がれて、吹き飛んだ。
身体から炎の消えた高塚はその場で倒れた。高塚の後ろで人型の炎が空中に浮かんでいる。
「できたの、かな?」
「ワシまで消すつもりか小僧!」
地面からヨルが生えてきた。退魔の陣の効果から地面をすり抜けて回避したらしい。
「……そうだよね。ヨルも悪魔だもんね。ごめん。そこまで考えてなかった」
「策があるような口ぶりだったから試しにのってみれば……わかっとるのか!?」
「だからごめんってば」
「謝罪で何もかも済んだら憲兵は要らぬであろう!」
「ごめんで済んだら警察はいらないみたいなの昔からあったんだ」
「話を逸らすでないわ、この大馬鹿者!」
人差し指で耳栓をして、ヨルの怒鳴り声を軽減しようとする響司。実のところ軽減はさほどされていない。
「人間の分際でよぉ……。人間の分際なのになぁ!!」
人型の炎が燃え盛る。
「ふむ。アレをくらって消滅せぬか。本体やもしれぬな」
「まだ戦うの?」
「『烙炎』を喰らうまでな。小僧は倒れている人間とそこに立っている人間を連れて逃げろ」
ヨルが指差した方向を見ると、千佳を囲んでいた炎の檻が無くなっていた。
「人間二人は僕一人では……」
無理、と続けようとしたところで黒紐が倒れていた高塚に巻き付いてを持ち上げていた。続けて千佳も同じように持ち上げる。
「意外と黒紐くん、便利だね」
「いいからさっさと行け」
響司の顔面に火の粉が舞う。目の前でヨルが炎球と爪で撃ち落としていた。
「やっぱり守るのかよ」
人型の炎が苛立ちを隠さない声音で吐き捨てる。
「守る? はて何のことやら。ここから先はワシと貴様の戦いだ。部外者は要らぬであろう? のう? のう?」




