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悪魔との会話の後、マンションに帰ってきた響司は音を極力出さないようにマンションの鍵を開け、ドアノブをゆっくりと回した。
ドアを少しだけ開けて隙間を作り、右目だけで中を確認する。電気が一つもついていないため、室内は暗くはっきりとは見えない。
(ヨルはまだ帰ってないのかな?)
響司はドアを身体が入るギリギリ開けて、玄関に忍び足で入った。
「どこに行っていたのだ」
声に驚いた響司は握っていたドアノブを手放してしまい、ドアは深夜の沈黙の中、大きな音を立てて、閉じてしまう。
玄関の電気をつけると、声の主であるヨルが響司の部屋から頭だけを出していた。
「なんで僕の部屋から」
「戻ってきてみれば小僧の姿が見えぬから探していたのだ。で、ワシの質問の答えがまだじゃぞ」
ヨルに無断で『烙炎』の手がかりを探しに行っていたことを響司は隠したかった。正直に言えばヨルの怒りを買ってしまうと確信していたからだ。
悪魔を脅して『烙炎』の調査をさせる。それは手綱を握ると言っていたヨルにさっそく手綱を握らせない行動だ。
正直にさっきの話をヨルにした場合、喜怒哀楽の感情のうち、どれが飛び出すか。誰であっても想像できる。
「えーと……ちょっと術の練習をしてた。ほら、僕って結界ぐらいしか悪魔に対抗する手段ないじゃない? だから結界の使い方の研究、と言えばいいのかな……?」
ヨルの顔を直視しないまま早口になる響司。
締まりの悪い疑問形になった所でヨルの顔色をうかがうと、天井スレスレにあった骨の顔を響司の眼前に持ってきた。
「自衛について見直し、対応しようとするのは素晴らしいが、次からワシが傍いるときにしろ」
呆れの混じった優しい忠告。正直に話していれば、呆れの代わりにどれほどの怒りが混じっていたことだろうか。
「肩にある糸を切れば小僧の位置はわかるがすぐに駆け付けられるとは限らぬからな」
「ヨルだって勝手にどこかに行くじゃん。前よりは言ってくれるようになった方だけど」
「さっきまで屋上におったぞ。小僧が湯浴みをしておるとき伝えたはずじゃがのう」
「湯浴みって、お風呂入ってるとき?」
病院で手がかりを探して汗をかいたので、帰ってきてすぐにお風呂に入った。しかし、ヨルが話しかけてきた記憶がない。
「多分、シャワーの音か何かで聞こえてない」
「魂鳴りは聞こえるクセにワシの言葉は聞こえぬとは不便な耳だのう。あの近さなら聞き分けぐらいできるものであろう」
「別に耳が良くなったわけじゃないから人間ベースで考えてよ」
「難儀なことだのう。のう」
くるりと半回転したヨルはリビングに繋がる廊下を進む。定位置になっているタンスの横に戻るつもりに見える。
「そうだ。聞きたいことがあるんだけど、ライゼンさんの術で悪魔を退治する術ってない? 僕の結界って捕らえたり守ったりはできても、攻撃的な使い方って出来ないんだよね」
「ライゼンは力が強かった故、結界だけで消滅させていたぞ」
響司は今の実力がライゼンには足元にも及んでないことを実感し、ライゼンの名前を騙ったことが重く背中にのしかかる。
「とはいえ、忌み名持ち相手であれば『退魔の陣』を使っていた。悪魔に攻撃する陣だ。確か、降霊の陣の後ろに書かれていたはずじゃ」
「わかった。ありがとう。シャワー浴びて、陣の確認は明日にしようっと」
野良悪魔に二日後と言った理由の一つだ。野良悪魔にすべてが嘘だと見抜かれ、攻撃されたときの対処法を見つける時間が欲しかったから。もう一つの理由は二日後は金曜日。深夜に行動しても土曜日は学校が休みなので、時間と体力を気にせず使える。
懸念していた悪魔への攻撃手段も知れたので、浴室に向かおうとしたところでヨルがまた顔を近づけてきた。
「『退魔の陣』を覚えても『烙炎』と戦おうと考えるな。戦うのはワシだけだ。陣を教えたのは小僧を戦わせるためではない。自衛のためだ。わかったな?」
響司の返答を待たずに念を押すヨル。
契約者が悪魔から命令されることには響司は何も思わなかった。しかし『戦うな』というヨルの言葉には納得できなかった。
「やだ。僕も戦うよ」
「小僧は半人前以下だ。『忌み名』と戦っても勝ち目はない。戦いはワシに任せれば良い」
「前みたいにヨルが戦ってるの黙って見てるなんて出来ないよ。勝てるとは思ってないけど、手助けぐらいしたいんだ」
「小僧が? 誰を助けると? まさかこのワシをか? ピアニストなら誤って違う鍵盤を叩くどころか、そのまま違った曲を弾きかねないのう! のう!」
馬鹿にするような口調のヨルを響司は睨みつけた。
「僕は、記憶を失くした智咲さんみたいにはなりたくはない……」
「ワシは負けぬよ」
「ライゼンさんが苦戦したんでしょ? 退治じゃなくて封印だったんでしょ? 相当強いってことじゃん! なら、どうなるかわかんないじゃん」
「封印を選んだのは『烙炎』をただ倒しただけでは無駄だからだ。悪魔は『闇』に還ればいつかは人間の世界にやってくる。ライゼンは理解していたからこそ封印したのだ。封印であれば人間の世界に無理やり留めて力を削ることができる。力を削り切ればそのまま消滅だ。何も知らない小僧が想像で語るな」
説明の最後は心底、不愉快そうにヨルは棘のある言い方だった。
「でも現実は消滅前に封印が解かれてしまってる。封印でジワジワじゃなくて、ヨルがパクっと食べちゃえば良かったのに」
手助けに関してゆずれない響司は表情の変わらないヨルの骨の顔を見続けた。
「ノイズまみれの悪魔は食べる気がないからな、ワシ。ライゼンが変に気を遣ったのだ。まったく、小僧もライゼンも無用な気遣いをするもの……」
尻すぼみになっていくヨルの声。
「小僧……もしや貴様……」
ヨルの左手が不意に響司の胸まで伸びる。左手は汗まみれの服にすら触れる直前で止まった。
左手が何かをすくい上げるように持ち上がる。
四本しかないヨルの手の中に光を反射する細い糸のようなが一本だけ指にたるんで引っ掛かっていた。ヨルがいつも出している糸かと響司は思ったが、ヨルの糸にしては、今にも空気に溶けてしまいそうなほど脆そうだった。
ヨルが細い何かを確かめるように爪で摘まむと細い糸はあっという間に切れて、どこへいったのか、わからなくなってしまう。
「魂の具現化が出来てしまったか……。下らぬ欲を持ちおって」
ぽつりとヨルは呟いて、ヨルの爪の一本で響司の額を弾いた。
「痛っ!? なんで叩くのさ!?」
「今、切れたのは小僧の欲の糸。時が経てば糸は束になり、弦となる。そして、魂鳴りを鳴らす」
「欲の糸……魂の具現化……。グラムが逢沢さんの魂を剣で見せてくれたアレか!」
「見たことがあったのか」
ヨルは糸が消えた左手が何もないところで握り拳を作っていた。
「今までの小僧であれば糸すらなかった。それがどうして『悪魔の記憶が消えたくない』という願いで現れるのだ。愚か者めが!」
「罵倒までされる意味がわからないんだけど」
「似てる似てると思うておったが、つまらぬところまで似ておるとはのう! のう!!」
突然、声を荒げ始めたヨルに響司は戸惑い、一歩後ろに下がる。
「もうよい。手助けの話だが、死んでもいらぬ。そして悪魔に心を許すな! 気持ちの悪いことこの上ないわい!」
ヨルの最後の言葉が響司の琴線に触れた。
「気持ち悪いって何さ! 僕はヨルのことを友達だと思ってる! なんでそんなこと言われないといけないのさ!」
「悪魔と違って人間は脆い。寿命もある。つまらぬことで時間を浪費するな」
「つまらないつまらないって全然つまらなくないよ!」
喉元が細い何かが締め付けてくる。ヨルの左手から太い糸が一本。響司の喉を縛っていた。
今まで感じたことのない圧をヨルは放っていた。響司は鳥肌を立たせて固唾を飲み込む。小さな子供であれば漏らしているだろう。
「黙れ。そして貴様はこれ以上ワシの許可なく動くな。今の小僧を見ていると殺してしまいたくなる」
糸は冷たく、細い氷を巻かれているかのように感じる。呼吸をするたびに静かに、ゆっくりと、首が締まっていく。
数秒の沈黙の後、糸が切られた。
喉を締め付ける苦しさから解放された響司の両腕はヨルからの圧で立った鳥肌が収まらなかった。
「ワシはまた屋上に戻る。もう大人しく寝ろ」
圧こそなかったが、苛立ちを隠さない声音でヨルは消えた。
響司は首元に出来上がった細い凹凸を撫でる。まだ冷たくて、締め付けられていく感覚が残っている。
(似ている、か……)
ヨルが響司と比較する人間と言えばライゼンだ。ヨルの元契約者であり、悪魔祓い師。今までの発言から悪魔と人間という異種族でありながら仲が悪かったとは到底思えない。
似ていると言いながら、攻撃的な行動。
あまりにも噛み合っていない気がした。
(なんで怒ったんだろう。ライゼンさんはヨルに何かしたのかな……?)
晴れない気持ちのまま、響司はシャワーを浴びる準備をし始めるのだった。
まだ回復しきってないけど、更新できそうならするからもう少し待ってね




