19
深夜の病院。言葉にすると恐ろしいが、沢渡大学病院は廃病院ではないので、勤務している人がいるため明かりがちゃんとあり、清潔感があるため不気味な雰囲気もない。
沢渡大学病院のエントランスと公道の間で、響司は目を細め、入院棟を見据える。
「本当にいいのかな」
「グラムと作戦を練ったのだろう? ならば遂行するのみだ」
「やるのはやるけど、躊躇うよ。だって結界で見つからないようにして智咲さんの病室に入るんだよ?」
寝ているかもしれない女性のいる病室に忍び込む。通報されれば確実に捕まってしまう。
ヨルから教わった認識阻害の結界を使えば見つからずに行動できるとはいえ、響司の気は進まなかった。
「まどろっこしい。行くぞ」
地上スレスレを浮遊するヨルの後ろを響司は重い足で追いかけた。
今この場にいないグラムは智咲を外に連れ出した後の準備をしている。成功するかしないかの要の部分なので妥協できない。
「そっちじゃないよ、ヨル」
ヨルは正面入り口を通り抜けようとしていた。
「なぜだ。こちらの方が早かろう?」
「僕は通り抜けれないからね。グラムが裏口と智咲さんの部屋を開けとくっていってたけど、こっちかな?」
病院の外を右に大きく回っていくと、非常口と思われる金属の扉があった。話に聞いていた扉だ。
「ここから結界を張って……」
「待て」
響司が結界を張る前に、ヨルが左手の爪を鳴らした。死んでしまった界を召喚するときに張っていた認識阻害の結界だ。
結界は響司とヨルを包み込めるギリギリの大きさの楕円形になっている。
「また無駄に力を使って魂の乖離が起こっては敵わんからな。それに、小僧の力が必要になるやもしれんからのう。のう」
「僕の力って大したことないと思うけど」
「それでも、だ」
ヨルは強く念を押して、響司の代わりに結界を張り続ける。
智咲の病室に向かっている途中にある廊下で、巡回している女の看護師とすれ違う。真横を歩いたというのにまったく気づかれない。
ヨルと会話していても、結界の中なら聞かれないらしい。
「便利だよね、この結界」
「悪事を働くには持ってこいの能力だからのう。だから悪魔は人間を狩る前に結界を使って、悪魔祓いに見つからぬようにするのだ」
「人を基本、食べないヨルはあんまり使わないんじゃない」
「ワシが使うときは傷を癒している時ぐらいじゃのう。悪魔と悪魔祓いの両方から追われる身だったから重宝したわい」
智咲のネームプレートがある病室の前までやってきた響司は静かにスライド式の扉を開ける。
「誰?」
まだ寝ていなかった智咲がベッドの上で上半身を勢いよく起こした。
智咲は警戒心をむき出しにした目をさせる。
「深夜二時だよ? なんで起きてるの!?」
驚いて思わず大きな声を出す響司。智咲は響司に反応することなく、不思議そうな顔をして、細い首をコテンと倒す。
「風……では開かないわよね?」
扉が開いたことが不可解だったようで、扉を注視し続ける。ただ扉の間に響司とヨルがいたというだけだった。
状況を理解したヨルが身長差のある響司の耳元まで顔を寄せる。
「まだワシらを認識しておらんよ」
「そっか。そうだよね。結界の中と外なんだし」
響司は見つかったと思い込み、吹き出した冷や汗を手で拭った。
鼓動の早くなった心臓が落ち着いたところで、ヨルに話しかける。
「結界の範囲いじって智咲さんに僕が見えるようにできないかな?」
「承知した」
ヨルがまたパチンと左手を鳴らすと、結界は形を変えて、智咲のベッドを飲み込む。
結界が智咲の身体を完全に包んだところで、智咲の目が大きく開かれる。
「あなたは……この前の……」
「覚えてるんですね」
「そう。死神だったのね。やっと彼のところに逝かせてもらえる」
死が救済とでもいうのか、優しく笑う智咲を見て、響司は不安になった。弦の切れる音が何度か連続で聴こえて、不安をさらに掻き立てる。
「勝手に僕を死神にしないでよ。生きてるから! 足あるから!!」
その場で響司は強めに足踏みをして床を鳴らす。
「なら透明人間? 私に何か用?」
響司が死神ではないと分かった途端に智咲は急に冷たい表情になる。
(ここからはグラムの立てた作戦通り進めるだけだ。大丈夫。大丈夫だ)
手を胸に当てて響司は集中する。第一声を絶対に間違えてはならない。
「――智咲さんは界さんに会いたいですか?」
「なんで私と界の名前を知ってるの!? あなたは一体なんなの?」
「僕は界さんにお願いされたんです。智咲さんを生かしてくれって」
「彼でもないのに勝手なこと言わないで!」
細い身体のどこからでてくるのか。智咲は怒りを露わにした顔で声を荒げる。
「大好きな人がいないのに生きて何の意味があるのよ!」
響司は動揺しそうになったのを両手に拳を握って耐えた。
「僕は恋をしたことないので知らないです。界さんに直接訊けばいいじゃないですか」
抑揚のない声を作って、人間でありながら人ならざる者として響司は振舞う。
「もう一度聞きます。界さんに会いたいですか?」
「……本当に会えるの?」
疑いと期待が混じった智咲の目が響司から離れなくなっていた。
響司が頷こうと首を動かした瞬間だった。
「おいおい、人を待たせるのも大概にしやがれって」
人間が通り抜けれる場所もないところから体格のいい宅配員が現れた。
智咲は口を両手で押えて、涙をポロポロとこぼし始める。
「まだ呼んでないですよ、界さん」
「こっちは制限付きで時間も有限なんだ。時間がもったいねぇんだわ」
智咲に近づき、片手を挙げて笑った。
「よ。久しぶり」
「久しぶりじゃないわよ……。本当に……」
ベッドのシーツにシワが残りそうなほど智咲は強く握って、笑い返した。
「死ぬんじゃねぇぞ」
「なんでそんなこと言うの? 私が嫌い?」
「嫌ってたら結婚しようとか言わねぇよ。まぁ、もうできないけどな」
「私が死んだら天国で挙げよう?」
智咲はベッドの横に腕を組んで立つ界に手を伸ばす。
細くて長い指を界は掴もうとしなかった。
「やなこった」
界は子供がからかうように舌を出して、拒絶した。智咲の腕が力なく、すとんとベッドの上に落ちる。
「俺が死んだせいでチサも死ぬなんて最悪もいいところだ。お義父さんとお義母さんに申し訳がねぇ。チサが死んだ俺を見て泣いたようにチサの死を見て泣くんだぞ」
「それは……」
「お前が真っ当に生きて、真っ当に死ぬまで待っとくからさ、今死のうとするのはやめてくれ」
界はポケットから何かを取り出して、智咲の手のひらに置く。
暗い病室の中で、月の明かりを反射させたのは、ビーズの指輪だった。
「これは?」
「お前と昔、約束したときにも指輪を渡しただろう? だから今回も、な?」
智咲は確認するように、グラムの作った指輪を回転させる。
「あなたはこんなにきれいに作れるほど器用じゃないわ。昔くれた指輪も私が手直ししたもの」
「俺は死んでて作れないからな。そこにいる刹那ってのとグラムが代わりに作ってくれたんだ」
「そう。あの人とグラムさんが……」
智咲は響司に小さく頭を下げた。
「グラムを知ってるんですか?」
思わず響司は二人の会話に口を挟んでしまう。
「海外の友人だって聞いてるわ。直接会ったことはないけど」
界は身体を捻って、智咲から見えないところで口の前に人差し指を当てた。
「界からたくさん話は聞いていたけど、界がいなくなっても友達でいてくれたのね。今度手紙でも書こうかしら」
響司は歯ぎしりをしながら吐き出しそうになった言葉を飲み込む。
界の背中が不自然に揺らいで、空色の光沢が垣間見えた。
「限界が近いらしい。俺はもう逝くわ」
「嫌だって言っても逝くのよね」
「おう。このままいたら未練タラタラで悪霊になっちまうらしいんだわ。それはゴメンだ」
界が病室を出ようと、唯一の出入り口である扉に向かって歩く。
「次、天国で会うときは俺はこの姿。チサはいい歳した婆ちゃんだ。だから若くであの世に来るんじゃねぇぞ」
足音に不自然な金属音が僅かに混じる。
界がすれ違うとき、響司は囁かれた。
「――あとは任せマシタ」
指輪を抱きしめる智咲を見て、響司は下唇を噛んだ。
彼女のために作られた嘘が響司の胸を締め付ける。
弦の切れる音は止み、智咲の周りに光が舞う。
「始まったか」
沈黙を貫いていたヨルが口を開く。
光は智咲の胸に集まっていく。そして、パイプオルガンのような音が部屋に響く。
悲しいメロディが道化師が踊るような陽気なメロディに変貌していく。メロディは大きく、大きく、大きく。
止まらない音楽。際限なく音量は上がっていく。
「なにこれ!?」
「欲が新しい形を遂げたときにしか聴けぬ魂鳴りだ。良き音を鳴らし、どこまでも鳴り響く」
「耳が、痛い……」
「問題はここからだがな」
ヨルの言う問題は説明されるよりも前に耳が感じ取っていた。
オルガンの音を打ち消さんと言わんばかりのノイズたち。四方八方から聞こえる音に響司は寒気がした。
「今まで気づいてなかった雑魚でも感じ取れるからのう。良い餌があると思って、悪魔どもが一気に雪崩れ込んでくるぞ」
嬉しそうに語るヨルに響司は幻滅しそうになる。
「小僧はここで女を守っておれ。外はワシとグラムで追っ払おうぞ」
ヨルは閉じられた病室のガラスをすり抜け飛び出して行ってしまう。
(力が必要になるってこういうことね……)
背中に悪寒とは違う冷たい空気が流れる。
「やレやレ。休みはナシなようデスネ」
グラムも遅れて窓をすり抜けて外へ。
剣を抜いて群れに飛び込む二体の悪魔を響司は黙って見送った。無事であってほしい、と。
「刹那、さん? なんでそんな顔をしているの?」
「きっと生まれつきですよ」
状況の分かっていない智咲に響司は適当に返すのだった。




