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退屈しのぎの悪魔契約  作者: 紺ノ
約束の騎士
37/78

 ―― ◆ ―― ◆ ――


 消灯時間の過ぎた病棟。入院患者と夜勤の看護師しかいない病棟の一つの部屋に名前だけ一つだけぽつんとあった。


 ――枝野智咲(エノチサキ)。グラムの守るべき人間の名前だ。


 智咲が使っている部屋は個室で、すでに二日入院している。ベッドと給湯器、長期利用者が服をしまっておくための小さな棚。そして一週間ぐらいの旅行に対応できるライムグリーンのスーツケースと広い部屋に反して物があまりにもなかった。


 目に見える唯一の私物であるスーツケースは智咲の入院を知った智咲の母親が必要なモノを詰めて持ってきたものだ。


 グラムはベッドの上で寝息を立てて寝ている智咲の目から涙が流れるのを拭うことをせず、ただただ眺めていた。


 ベッドの横にある棚の上に空になった錠剤のフィルムと水がまだ半分ぐらい残っているペットボトルが無造作に置かれている。フィルムの中に入っていたのは睡眠薬だ。


「泣き疲れてお休みになられるヨリかはいいデスかね」


 白いカーテンで覆われた窓にグラムは眼を飛ばした。


 重くて暗い流れが病院に向かってきている。


「今宵も来マシタカ」


 グラムはいつものように個室の扉を通り抜けて、病院の外を目指す。途中、廊下で巡回する看護師とすれ違ったが、看護師は空色の騎士を見向きもせずに通り過ぎた。


 エントランスまで鎧を鳴らしながら駆け抜けるグラム。


 空を見上げると、輝く星々の一部が隠れてしまっている。星を隠しているのは雲ではなく、悪魔の黒い靄。


 グラムはショートソードを腰の鞘から抜いた。


 病院に向かってくる悪魔たちとは逆方向。グラムは背後から高速でやってくる強い力が一つあった。目の前にいる数多の悪魔よりも、たった一つの大きな力の方が恐ろしかった。


 グラムは病院の屋上まで壁を駆けあがって、背後の大きな力に向かって、ショートソードを全力で振り抜く。


 刃は力に触れた瞬間、最後まで振り抜けずに止まった。ショートソードを受け止めた白くて、細長い四本の爪が目に入る。


「ワシに斬りかかるとは良い度胸じゃのう。のう」


 ショートソードを受け止めた骨の左手の隙間から悪魔特有の黒い靄と獣の頭蓋骨が覗かせていた。


「ヨル様!?」


 慌ててグラムは腕の力を抜く。


「何故ここにいるのデスカ!?」

「少しばかり腹が減ってな。ここには死に近い人間がたくさんいるから野良悪魔が寄ってくるじゃろう。同族喰らいとして食事にありつけると思ったのでのう」


 契約者のいないグラムと違って、契約者がいるヨルは無理に悪魔を喰らわなくても世界に存在していられる。


 ヨルの言葉は嘘だとわかる者には一発でわかる嘘だった。


「……助太刀、感謝致シマス」

「ハッ! 食事をするために獲物を狩るだけのことじゃ」


 ヨルは空を飛び、悪魔たちに真っすぐ突っ込む。そして左手の爪で引き裂いていく。


 圧倒的な力を持つヨルとの戦闘を避けるため、悪魔たちは迂回して病院へと迫ってくる。


「ココには立ち入らぬことをオススメ致シマス」


 グラムの言葉に耳を傾けるはずのない悪魔たち。病院の敷地に入った瞬間、悪魔の身体を形成している黒い靄に空色の軌跡が線を描いていた。


 黒い靄は切り裂かれ、形を保てず蒸発するように消えていく。


 ヨルが前衛で蹴散らし、グラムが後方でヨルの対応できない悪魔を討つ。悪魔たちには二体の強力な悪魔の前になすすべがなく、倒されるだけだった。


 病院に迫ってきていた重い気配が完全に消滅したころには。病院一帯が瘴気に近い黒い水蒸気が立ち込めていた。


 戦いを終えたヨルがグラムの前に降りた。


「これで終わりか」

「らしいデスネ」

「ワシは向こうで戦っている間に悪魔を喰った。こちらに転がっている悪魔たちはグラムが喰らうとよい」

「デハ、そうさせて頂きマス」


 グラムは空色のショートソードを右手に握りしめて前に突き出す。


 刃がほんのりと光ると、黒い水蒸気が剣に吸い込まれていく。さっきまで淀んでいた空気が澄んだ空気へと変貌した。


 悪魔を吸収したショートソードは、ほんの少しだけ伸びていた。


「ヨル様、ほとんど食べておられないようデスガ?」

「ワシの胃が貴様より小さいだけじゃよ」

「悪魔に胃などありまセンよ」


 笑い混じりでグラムが言葉を返すと、ヨルはそっぽを向いて左手の爪を黒い靄の身体に隠した。


 傷一つ追っていなさそうなヨルにグラムは感心する。


「ご無事で何よりデス。『ライゼンの悪魔』いえ――『夜兎(ようさぎ)』」

「ライゼンとつるむ前の名を知っているとはな。やはり貴様『雹剣(ひょうけん)』か」

「久しぶりにその名で呼ばれマシタ」

「ワシもだ。最後に聞いたのがいつだったのか思い出せぬよ」


 剣を鞘に納めたグラムはヨルを注視した。


 草食動物の頭蓋骨に黒い靄。そして戦闘時に見せた四本の骨の爪。『夜兎』と呼ばれていた頃のヨルとは似ても似つかない姿だった。


「『夜兎』の名の通り、貴方は黒い兎だったはずデス。その御姿は下級の悪魔に近いモノ。力も全盛期の半分程といった所デショウ」

「新しい契約者が未熟なものでな。そういう貴様も昔は背中に背負っておった大剣が今ではちっぽけな剣になり、鎧も貧相になっておるではないか。契約者なしで力を使い続けておる証拠だ」

「ワタクシは、託されましたので」


 芯のある声でグラムは答えた。ヨルは左右に顔を振った。


「ワシは昼間に言ったはずだ。己の状況を理解した上で動くことだと。貴様、このままでは消えるぞ」

「それでも守りマス」

「固いのは鎧と剣だけにしておけ」

「主様にも同じことを言われマシタ。どういう意味デス?」


 グラムがわざととぼけているのかとヨルは疑った。しかし、本当に理解してないらしくグラムは顔の見えないフルヘルムを傾けた。


「その頭は皮肉も通さぬ固さか。まぁ、よい。小僧から言付けがある」

「セツナ様から、デスカ?」

「小僧は貴様の契約者を降霊術で呼び出す気だ。手を貸せ」

「そんな物言いをセツナ様はしないと思いマスガ?」

「答えは手を貸すか、貸さぬかだ」

「悪魔のワタクシにできることであればいくらでも手伝いマショウ。それに主様にまた会えるのは喜ばしいことデス」


 ヨルは弦の切れる音をさせている方角を見上げた。


 昼にも見た病棟の四階。カーテンで外からは何も見えないが、確実に智咲がいた。


「ただ、ワタクシは病院から離れることができないとだけお伝えクダサイ」


 紀里香よりかは弱いが、それでも病院にいる人間の中で、智咲は一際強い魂の持ち主だ。死人の魂よりも生きている魂を喰らった方が力がつく。死にたがっているという点も悪魔にとっては好都合だった。


 生きる力が強ければ強いほど力は付くが、自身の力に変換するまで時間がかかる。死にたがっていれば逆だ。


 智咲はまだ欲の弦もすべて切れているわけではない。いうなれば、固い肉を食べ易くするために表面を叩いて筋を切断した状態だ。


 悪魔的には最高に食べ頃である。


「今晩のように悪魔が襲ってくるだろうからな。小僧には伝えておこう」

「よろしくお願い致シマス」


 ヨルは浮かび上がり、去ってゆく。


 夜空にヨルの姿が溶け込んで見えなくなるまでグラムは見送った。


「アノ獰猛で悪魔と見るや狩りつくしていた『夜兎』が随分と丸くなりマシタ」


 グラムが見たことがあるのはライゼンと会う前のヨルだ。昔のヨルならグラムと響司が対峙したあの時、言葉で済むはずがなくどちらかが倒れるまで戦っていた。


 ライゼンと会った後のヨルは噂程度でしか知らない。聞いた噂もライゼンという悪魔を連れた悪魔祓い師が主体で連れていた悪魔の情報はほとんどなかった。


「ここまで変わるトハ。なんトモ」


 かしゃん、かしゃん、と鎧をゆったりと鳴らしてグラムは智咲のいる病室へ戻っていく。

 

 病院の廊下を歩くグラムの足がピタリと止まる。


「もしかして、ワタクシは頭が固いと言われていたのデショウカ……?」


 皮肉の意味を数テンポ遅れてようやく気付くのだった。

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