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響司はグラムと別れてから、グラムの依頼をどうするか、ずっと悩みっぱなしだった。
信号を待っているときも、電車に乗っている時も、最寄り駅中にあるうどん屋でカレーうどんを食べている時もだ。買い物を終えて、スーパーから出てきた今でさえも右手に持ったスーパーの袋を持って、頭から煙が出そうになっていた。
スーパーの袋には、一リットルの紙パック牛乳が二本と卵、二パックで割引と赤文字のシールの貼られた豚肉のパックが入っていて、袋が持つ指に食い込んでくる。指が痛みで耐えられなくなる前に早く帰ってしまいたいはずなのに、響司の歩幅は自然と小さくなっていた。
「どうしたらいいんだろうな」
駅から家の間にある大通りを避ける住宅街へ続く道でポツリと響司は声を漏らした。
「まだ悩んでおったのか」
自然と響司の左斜め後ろでヨルは浮かんでいた。
「そりゃ、引き受けたからには元気になってほしいもん」
「活力とは本来、欲から生まれるものだ。欲を失くしている最中、活力を持たせるなど、矛盾もいいところだ」
「欲か……。自分が『欲無し』って言われてから時々考えるんだけど、僕って本当に何もないんだよね。でも、不満がないというか、変なところで欲張るくせに普段は無欲というか……」
響司は自身の在り方を言葉にするのが難しくなって、口を閉ざした。まだ冷却が終わっていない頭でまた依頼のことを考え始めようとしたとき、ズボンのポケットに入れたスマホが小刻みに揺れた。
画面には『KIRIKA』と大きく表示されていた。しかもチャットではない。通話だ。
学校は五時限目の授業が終わった頃だった。今日の五時限目の授業が何だったか思い出せないまま響き司は恐る恐る通話ボタンを押して、スマホを耳に近づける。
「も、もしもし?」
『なんで声が強張ってるの?』
スマホ越しでも紀里香の発声が綺麗なのがわかる。そして、どことなく怒っていることも。
「あのー、僕悪いことしたかな?」
『なんでそう思うのかしら』
「怒っているように聞こえるから」
『えぇ、怒っているわ。私と大山くんが何度も鳴らしているのにとらなかったもの』
響司はスマホを耳から離して、画面を操作する。
着信履歴が紀里香と晴樹合わせて十三回。時間は昼休みから始まっていた。
歩いていた足が止まり、申し訳なさが込み上げてくる。心の中で響司は躊躇いなく頭を地面に擦り付けていた。
響司は、もう一度スマホを耳に近づけた。
「病院の診察終わってから一回もスマホ見てなかったです。すみません」
『何かあったのね』
「なんでわかるの? エスパー?」
『大山くんが電話を何度かけても出ないなら何かに没頭している時だ、ってね』
図星なだけに響司は言い返すことが出来なかった。
『電話に出なかったことはもういいわ。連絡したのは文化祭の出し物が演劇で確定したからよ』
「そっかー、演劇かー」
青い空を見上げると、男泣きをしている男子たちの姿が薄っすらと見えた気がした。
(晴樹と佐藤くんは確実に泣いてるだろうなぁ)
泣くまではいかなくとも、響司も紀里香の給仕姿は見てみたくはあった。普段と違う格好と言うだけで、点数が上がるのだ。
仮に喫茶店になっていたら、紀里香には中学の苦い過去の再来になりかねないので、やってほしいと口が裂けても言えない。
『中間が再来週からあるでしょ? 終わったら役割決めるって話よ』
「ちゅうかん? 何の中間?」
『何って、一学期の中間テストよ。去年も同じ時期にあったでしょ?』
頭の中が真っ白になっていく響司は言葉を失った。一年の時も梅雨に入るか入らないかぐらいの時期に中間試験が確かにあった。
間違っていて欲しいと願う響司だったが、今は五月の中旬から下旬に差し掛かろうとしている十七日。時期的には間違っていない。
学校の予定も考えずグラムの依頼を引き受けたことで、自身の状況が最悪であることを響司は冷や汗を垂らしながら理解した。
『待ちなさい。もしかしてだけど忘れてたの?』
「……はい」
すぐに空気に溶けてなくなりそうな声で響司は肯定した。
『よかったわね、まだ二週間近くあるから頑張れば間に合うんじゃないかしら』
テスト勉強だけであれば間に合うと断言できる。今の響司には十日というタイムリミット付きの依頼があるのだ。
「えーっと、ですね。大変ヤバいです……」
『刹那くんって勉強苦手だっけ?』
「いつもなら平均以上は取れまする……」
家に帰って勉強する時間のあるいつもの話だ。今回はかなり勝手が違う。
「実は――」
正直に口が状況を説明しようして、頭が急停止をかける。
(逢沢さんは悪魔のこと知ってるし、グラムのこと話しても大丈夫だと思うけど、テスト前に巻き込んじゃうのはどうなんだろう?)
言わない方がいいとわかっているのに、どうしても『私はあなたの味方になってあげるわ』と言った紀里香の姿が頭に浮かんで離れなくなっていた。
響司は止めていた口を動かし始める。
「テストがあるの忘れて、悪魔から依頼を受けてまして――」
また家に向かって歩きながら響司は自分の置かれている状況を紀里香に伝えた。
『そういうことね』
紀里香が呆れたと言わんばかりに言葉を短く発した。ヨルならば最後に馬鹿者と言っていただろう。
『一つ質問なんだけれど、その依頼をやるのは女性のためなの? 依頼してきた悪魔のためなの? それとも自分のため?』
「多分、全部じゃないかな。というかその質問の意図は?」
『……気になっただけよ』
歯切れの悪い返答をした紀里香の後ろで学校のチャイムが鳴る音がした。
『授業が始まるから切るわね。出来ることがあったら遠慮なく言って頂戴。私はあなたの味方だから』
一方的に通話が切られ、響司は『KIRIKA』の通話履歴を睨んだ。
「顔が赤いがどうしたのだ?」
「逢沢さんにやられた……」
納得してない様子でヨルを置いて、響司は早足で進み始める。
もう一人のキリカと紀里香が一つになってからほんの少しだけ、意地悪になったように思える。元々、必要最低限の会話しかしてなかった。隠していた本性を出してくれているのか、特別いじられているのか、判定に困るところだ。
(出来ることがあったら、か。出来ること。出来ること……)
響司は空いている左手を見つめて、立ち止まった。
ヨルが響司の横を通り過ぎる。
「早くなったと思ったら立ち止まりおって、不安定な曲か貴様は」
「僕が出来ることを思い出してたんだ。魂が視える、魂鳴りが聴ける、結界が張れる。あと、降霊術。降霊術でグラムの契約者さんを呼び出せば色々知れるかもしれない」
チサキと呼ばれた車椅子の女性から情報を得ようにもまず面識がない。あっても、生きているか死んでいるかわからない様子では会話もできるか怪しい。
グラムの契約者が悪魔に喰われていなければ、交差点のときと同じように魂を呼ぶことが出来るかもしれない。
ただ問題がある。呼び出したい魂の情報を響司は何一つ持っていないのだ。
「僕はグラムの契約者さんを知らないからグラムに手伝ってもらわないと無理だよね……」
生徒手帳に描いて効果を発揮する結界の陣とは違い、降霊術の陣は公園の砂場いっぱいに描いてようやく効果を発揮する。
人前で降霊術をするのは、味方発言とは別の意味で響司は恥ずかしい。人目の付かない場所でグラムと一緒に降霊術を行わないといけない。
「降霊術の件、ワシが今晩にでもグラムに伝えておいてやろうか?」
思いもよらぬヨルの提案に響司は頬をゆるめた。
「お願いしていいの?」
「構わぬ。気掛かりがあってな。もとより、あの病院を訪ねるつもりだったのだ」
「ならお願いね」
「心得た」
ヨルにグラムへの言付けを頼んだ響司は降霊術の算段を立て始めようとして、ヨルの言葉に違和感を覚える。
(なんでヨルはグラムじゃなくて病院って言ったんだろう?)
ヨルの顔を見ても、表情のない獣の頭蓋骨からは読み取れるものがなかった。




