18
体力を使いつくした響司をヨルは教室の床に寝かせた。
響司は顔だけを動かして紀里香を見ていた。偽物はふてくされた顔をし、本物は覚悟を決めた者の顔をしていた。
「僕はヨルに言われるままやったけど、これでいいのかな?」
「あとは本人の問題だ。ワシらが介入したところで何も変わらぬよ」
ヨルを見ると、ヨルの身体というべき黒い靄が時折、薄くなっている。いつものなら見えない靄の奥が透けて、反対側の景色が見える。
「ヨル、身体が透けてる」
「受肉を己の力のみで行った影響だ。気にするな」
今回の作戦をヨルが説明している時、なぜ認識阻害の結界をヨルが張らないのか響司は疑問に思っていた。ヨルのことだから、張らない理由があるとは考えていた。
契約悪魔は契約者の魂を吸い取る。そしてヨルは言った。『寿命が減るような吸い方はしない』と。
ヨルは口約束とも言えない発言を守っていた。
響司の心はざわつく。
「消えたりしないよね?」
「悪魔ごときの心配ではなく己とキリカの心配をしておれ。馬鹿者」
「全然、悪魔ごときじゃないよ」
怒りの混じった響司の言葉を無視するヨル。ヨルの視線の先には紀里香しかなかった。響司はヨルに何を言っても無駄だと悟り、紀里香を見つめた。
「私が嫌った貴方だからこそ、よ」
「呆れた。嫌いな相手と話して何になるのよ。バカじゃない?」
「えぇ、そうね。でも立ち向かう勇気をもらったから。ただ暗くてジメジメした自分に終止符を打つの」
「家でただ泣いて、現実逃避のためにゲームをしていたアナタが? 見た目が嫌いで嫌いで鏡を割ったことのあるアナタが?」
「……そうよ」
苦い顔をする本物。偽物は結界越しに響司と目がばっちりと合う。
「原因はあのコね」
「強引なクラスメイトよ。私の問題を自分の問題だってすり替えて無理やり押し通してきたんだもの」
「今までにいなかったタイプね。あのコ、気に入ってるんでしょ? ワタシ、もらっちゃおうかしら」
紀里香の顔が少し曇ると、偽物はお腹を抱えて大声で笑い始めた。
「そう! その顔が見たかったのよ!! ワタシはアナタが嫌い。だからアナタが苦しいこと。嫌なことをいくらでもしてあげる。終止符だっけ? 勝手に打たせないわよ。これはワタシがワタシのためにする復讐なんだから!」
テレビドラマで聞く悪女の笑いを偽物はし続ける。大きな笑い声に混じって、溜まった水の上に水滴が落ちるような音をさせながら。
「復讐するなら私に直接しなさい! 誰かを巻き込まないで!」
「イヤよ。だってアナタにとって一番傷つくことが他人を不幸にすることなんだもの」
偽物の口角は上がり続け、笑みから恐怖のみを発し続ける。
紀里香は一歩後退りをして、冷や汗を垂らしていた。
「負の感情を持って生まれただけあって、嫌なところを突いて来よるわ。――小僧?」
響司の息が荒くなっていく。心臓を掴み、蹲っていた。
「力を使い過ぎたか!?」
「ごめん、ヨル……。また、死ぬかも……」
「待て! 小僧が意識を失えば結界が消え――」
音が一瞬ですべて消えた。響司の視界にはスローモーションで動くモノクロの世界が広がる。
慌てるヨルが紀里香へと飛ぼうとしている姿が一番近くにあり、対峙している紀里香と偽物の間にあった結界が氷が溶けるようになくなっていく。
結界の解除を止めようにも、結界の陣の書かれた生徒手帳は胸ポケットの中。魂と肉体が切り離された響司は身体を一ミリも動かすことが出来ない。
(早く、戻って! 早く!)
生き返りを望む響司の前で、偽物は結界の隙間から本物の紀里香に手を伸ばしていた。
響司の心臓が脈打ち始める。世界は色づき、時間の流れが元に戻る。
「ぜーんぶ、もらうわよ」
偽物が本物の紀里香に無理やり口づけをした。ヨルが左手の爪で偽物を切り裂こうとしていたが、切り裂かれたのは床だけだった。
「ちっ! 逃げられたか!」
ヨルが紀里香を睨む。紀里香はゆらりゆらりと軸のない動きをして、壁にもたれかかって止まった。
「あは、あはははは!」
紀里香の口から紀里香ではない笑い声が聞こえる。耳に入ってくる魂鳴りが風鈴の音から雨音に変わった。
「意外と簡単なのね」
「最悪じゃのう。説得して取り込むはずが、キリカの弱ったところを乗っ取りおったわ」
手を動かして伸びをする紀里香の姿に響司は清廉さを微塵も感じなくなっていた。
「あー、いいカンジね。最高」
「キリカを返せ! あれは稀にみる良き魂の持ち主ぞ!」
「ワタシがこれからはキリカよ」
倒れて息が上がっている響司にキリカが近づく。
「小僧から離れよ!」
ヨルが左手の爪をキリカの喉元に突き付ける。柔らかい肌に爪が少し食い込んでいた。
「悪魔さん、アナタは今のワタシを殺せないでしょ? 糸を出して止めてもいいけど今のワタシはちゃんと死ねる肉体がある。変なことをしたらワタシは死んでやるわよ」
左手を黒い靄に収めたヨルから不服な空気があふれ出していた。
「そう。いいコね」
気味の悪い笑顔を張り付けたままキリカは響司の上に跨った。
「最初に会った時と同じね。助けを呼んでも今回は来ないわよ」
生き返って間もない響司は抵抗することも出来ず、キリカを見上げるだけだった。
「何をしたらアイツが悲しむかしら。別に恋人ってワケでもないみたいだから微妙に扱いに困るのよねぇ」
顎に人差し指を当ててキリカは悩んでいた。
魂鳴りの雨音が続く。雨足は強くなるばかりで止む気配がない。その中で確かに脚音がする。豪雨の中を歩く足取りは重く、一歩進んでは数秒休んでまた一歩進む。
響司の視界が歪んで、目を閉じた。瞼の裏に泥まみれの白いワンピースを着た少女が傘を差さずに素足で歩いている光景が浮かぶ。
冷たくて、小さな背中にワンピースがぴったりとくっついていた。顔が黒く塗りつぶされていて瞳の位置は分からないのに涙を流しているのが分かってしまう。
(これは……逢沢さんの偽物?)
少女が何者か、響司は直感する。あれだけ高笑いを何度もしていた偽物は泣いていたのだと。一人でずっと泣いていたのだと。
涙は足元で溜まり、蒸発して雨雲を作る。涙は止まらない。負の感情だけが積もり、狂った循環をする世界で少女は歩く。
「――アナタ、泣いてるの?」
「え?」
響司は自分の頬を触ると、指先が濡れた。
「ワタシが怖くて泣いちゃったのかしら」
キリカはまた笑った。
響司は見ているのが痛々しくなった。身体が感情に釣られて動き出し、響司はキリカを抱きしめた。
「泣いたと思えば抱きしめてくるなんて変わったコね。母性でも感じたの?」
右耳にキリカの声がよく聞こえる。強がっているようにしか響司には聞こえなかった。
無言で響司はキリカの頭を撫でる。艶やかな長い髪を静かに、傷つけないようにゆっくりと手を動かす。
ふわりと、爽やかな匂いが鼻先を通った。
「髪フェチだったのね、アナタ。いいわ。いくらでも触りなさい」
「……無理に強がらなくていいし、笑わなくていいと思う」
抱きしめているキリカの身体が強く跳ねた。
「確かにキミは逢沢さんの負の感情を持って生まれたのかもしれない。でもキミがそんな風に傷つかなくていいと思うんだ」
「何を言ってるの……?」
「泣き虫で寂しがりの身勝手な独り言だよ」
キリカは撫でる手を拒むどころか、強く響司に抱き着いた。人の温もりを求めるように強く響司の腰を引き寄せる。
「僕はキミのことをよく知らないから教えて欲しいな」
キリカは顎を響司の右肩に載せた。響司にはキリカの顔は見えないが、頷いたのが肩に当たっている顎の動きで分かった。
「逢沢さんのこと、嫌い?」
「大嫌いよ。アイツはワタシを捨てたんだもの」
「そっか。嫌いか。どうすれば好きになれるかな?」
「無理よ。ワタシとアイツは嫌い同士だから」
「でもキミはこのままだと一人ぼっちだよ?」
キリカは黙ってしまった。
一人でいることの辛さもキリカと紀里香で共有してしまっているのだと響司は察した。
「一人ぼっちにならないように僕はキミの味方になる」
「それ、アイツの敵になるってことよ?」
「もちろん逢沢さんの味方にもなる」
「無茶苦茶ね……」
「だって二人とも寂しそうなんだもん。どっちかの敵になるぐらいなら難しくても両方の味方でいたいかな」
響司の肩からキリカの顎が離れた。
鼻先がぶつかりそうになる距離で見たキリカの目は潤んでいた。
「二人、ね。アナタが味方なら悪くないのかもしれないわね」
キリカは立ち上がって、瞳を閉じた。閉じたと同時に涙が一粒落ちた。
響司はキリカから解放されたことに驚いて何度も瞬きをする。
「なんで?」
「なんでもないわよ。ちょっと静かにしなさい」
目を閉じたままのキリカに説教をされる響司。
落ち込んでいるとヨルが響司の横で耳打ちをしてきた。
「魂同士が対話しとる。小僧、何をした」
「わからない。対話って作戦にあったアレ?」
「うむ。対話がうまくいけば魂は正しく同化するが……」
立ったまま動かなくなった逢沢紀里香を大人しくヨルと響司は見つめる。
風の吹く音と雨の音が混在する魂鳴りが止んだ。数秒後、逢沢紀里香の目が開いた。
逢沢紀里香は響司を見るや顔を赤くして背けた。
ちりん、と風鈴の音がなる。
「何が『もちろん味方になる』よ……。恥ずかしくないの?」
呟くような声の紀里香に響司の心臓が飛び出そうになる。
「あの、え? お聞きになっておられました?」
「身体を乗っ取られてただけで意識はしっかりあるはずだからのう。聞かれてたんじゃろうな」
ヨルの言葉に響司は魂と肉体の乖離とは違う意味で死にそうになり、床の上で身悶えした。
「ヨル、寒い台詞を吐いた自己嫌悪で僕が呪いを生み出しそう……」
「生み出せるものなら生んでみよ。キリカと違って雑魚確定だ」
「慰めてよ!」
「何を慰めろというのだ。さっきから鳴っとる魂鳴りが聴こえぬか」
一応、響司は耳をすます。魂鳴りはまったく聴こえなかった。
「聞こえないよ! あと、話題そらさないで!」
ヨルは背中を向けたままの紀里香を意味深に見つめていた。
「都合のいい耳。いや、この場合は都合の悪い耳と言うべきかのう。のう」
「ヨル!!」
響司の叫びが放課後の校舎にどんな音よりも響いた。




