17
放課後の教室で響司は一人、廊下側にある自分の席に座っている。ただ時間が流れていくのを窓から差し込む日の光の傾きで感じながら、静かに眺めていた。
後ろからゆっくりと近づく子供が水たまりの上を踏むような音が聞こえ始めていた。
甘い香りがしたと思えば、響司の首を細い両腕が包み込む。そして、後頭部に柔らかい感触があった。
「これ、どういうつもりかしら」
響司の机に大量の付箋がばらまかれた。すべての付箋に『本物ではないキミへ。話したいことがある。教室で待っている』と書かれている。
付箋は紀里香の偽物が現れた一階の廊下の窓や人の目につく掲示板などに適当に貼ってきた。貼った枚数は八枚。机にある付箋の枚数も八枚。
すべて紀里香の偽物が回収してきたらしい。
「すぐにでも会いたかったから。探すよりもこっちのほうがいいと思ったんだ」
「可愛いこと言ってくれるじゃない。でも本物ではないっていうのはいただけないわ」
「だって本物じゃないから。そうだよね。呪い改めドッペルゲンガー」
紀里香の偽物の腕が首から離れた。冷たい空気が流れ、左隣の席の椅子ではなく机に座った。
「ドッペルゲンガー? 何の話かしら」
「キミの正体だよ。始まりは魂が乖離した数カ月前だ。ただ魂が欠けただけならよかった。でも今回は容姿への嫌悪の感情も一緒に吐き出されてしまった。だからキミは意志を持たず彷徨うドッペルゲンガーから自己嫌悪を軸に変異した呪いに近い存在になってしまった」
「それで?」
「変異した後は僕を襲った時のようにを男子生徒に言い寄って、隙を見て魂を吸い取り、少しずつ力を蓄えていったんでしょ。自分の容姿を否定し続ける自分への復讐のために」
「すごいすごい。探偵みたーい」
やる気のない拍手と一本調子の声を出す偽物。顔は笑っているのに瞳の奥でどす黒い怒りが燃えていた。
「次、ドッペルゲンガーって呼んでみなさい。アナタの魂を吸いつくして殺すわよ」
「ヨルから逃げるのに蓄えた力を全部使っちゃって、今は力が空っぽの状態。僕の魂を吸いたくてしょうがないんだもんね。人除けの結界も貼れないぐらいに弱ってさ」
恐れることなく響司が言葉を返すと、偽物は響司の首を右手で掴んで締め上げた。高校女子の握力とは思えないぐらいの力で首の皮膚が持っていかれそうになる。
「ワタシ、見た目通りにか弱いわけじゃないのよ」
偽物が力を加えたところで響司の首元で激しい破裂音が鳴り、偽物は壁まで吹き飛んだ。
「全然吸えなかった……何をしたの!」
椅子に座ったままの響司に偽物が吠えた。
してやったりと口角をあげた響司は立って偽物に歩み寄り、偽物の両方の手首を握って押さえ込む。反抗する偽物に対して響司の腕はまったく動かない。
「なんで! ワタシ今の状態でも人間なんかに負けないはずなのに!」
自由に動かせる足で偽物は響司のみぞおちを蹴り上げた。
人間の急所の一つを攻撃されたはずの響司は顔色を変えずただ偽物を取り押さえていた。
「僕も見た目通りじゃないんだ」
黒い靄が響司の制服の中から漏れ出してくる。
人間の身体は靄に沈み、肉の付いた人の腕は骨の腕になった。
「――悪魔なのでのう! のう!」
高笑いをするヨルが偽物の前にいた。
偽物の両腕は糸で壁に磔にされて身動きが完全に取れなくなっていた。
「アナタ、あの時の骸骨! 騙したわね! 最っ低!」
「姿を借りて騙せるのは貴様だけはないのだよ、ドッペルゲンガーよ」
暴れる偽物の両足をヨルは新しい糸で縛った。
「もう出てきてよいぞ二人とも」
ヨルの合図とともに何もなかったはずの黒板の前に響司と紀里香が現れた。
響司は汗まみれで息が上がっていた。へなへなと壁にそのままもたれかかる。
「この結界、ライゼンさんの結界よりしんどい……」
「刹那くん大丈夫?」
心配そうな顔で紀里香は響司の顔に向かって手で仰いでいた。
「なんでアンタたちがそこにいるのよ!」
「認識阻害の結界をワシが教えただけだ。もっとも悪魔のワシが使う結界だからな。人間の小僧には扱いが難しかったようだな」
へろへろになっている響司の脇にヨルは左腕を挟み込み、持ち上げた。
「ほれ、小僧。まだ仕事は残っておるぞ」
「わかってるって……」
響司は生徒手帳を取り出してヨルのお仕置きに使った結界を偽物を囲むように使う。
「ただでさえ逃げれないワタシをさらに閉じ込めてどうするのよ」
「結界に入れておかなければ、キリカの魂の一部である貴様はキリカ本体に引っ張られ、取り込まれる。前までなら抵抗する力があったはずだが今はなかろう」
「そうね。でもいいわ。ワタシはいつかまた外に出てきて本物になってやるわ。絶対に!」
野心にまみれた偽物にヨルは呆れ、響司は言葉を失った。
ここで紀里香の偽物を紀里香の魂に同化させても、また魂が欠けたとき今回と同じ事件が起きてしまう。今のままでは、その場凌ぎにしかならないのだった。
「ここから先はキリカが為すべきことだ」
ヨルは使い物にならなくなった響司を左腕で抱えたまま紀里香の横を通り過ぎた。響司は疲れ切った表情で手だけ振った。
「わかってる。私のことだもの」
結界を挟んで二人の紀里香が対峙する。
「ケリをつけに来たわ」
「つけれるはずないじゃない。ワタシとアナタなのよ?」
同じ顔。同じ声で睨み合う。
ヨルと響司には大荒れの海で聴く波がぶつかる音が聞こえていた。




