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紀里香は響司と別れてからずっと悶々としていた。家に帰った後も引きずっている。
帰宅後すぐにシャワーを浴びて、濡れた髪をドライヤーで乾かす。パジャマに着替えた後、身体が温かいうちに柔軟をする。柔軟が終わると、ベッドの上に仰向けになり、腹式呼吸を五分間。腹部の膨れ方を確かめながらゆっくりと呼吸する。
日課をこなし終わって、ベッドの上でうつ伏せになる。枕を顎の下において、スマホをいじった。
スマホの画面には『kyo-ji』の文字がきっちりと映し出されえう。
(助けてくれてる刹那くんに壊れてるなんて言っちゃった……。死ぬかもしれないのに、平然としてた……)
死ぬのが怖いといいながら、なんてことないという顔をしていた響司が紀里香は少し怖くなったのだ。
(嘘をついている人ほど表情や仕草に出るのに、自然だった。前髪の奥に隠れた目が嘘をついてない目だった)
紀里香は嘘をつかれると違和感を覚えるようになっていた。芝居の練習を続けてきたためか、言い寄ってくる男を警戒していたからか、いつの間にか身に付いていた。
演劇部の襲撃事件よりも前から刹那響司という存在は違和感がなかった。具体的には二年になってクラスが一緒になったときからずっとだ。
クラス発表の張り紙前で紀里香と同じクラスなった男子が騒いでる中でも、バレーの授業で男子が授業しているエリアにボールが入ってしまい、紀里香がボールを取りに行った時もざわつくことなく響司はその場所にいるだけだった。
呪いのことで話しているときの響司は恥ずかしがったり、反応がコミカルで面白い見たことのない一面を見た。
怖くて、面白くて、空気のように漂っている響司は紀里香が関わってきた人間の中で一番理解できない存在として認識され始めていた。
「邪魔するぞ」
父親とは違う低い男の声がして紀里香は飛び起きた。
薄いピンクのカーペットの上に背の高くて黒い靄が何もないところから現れた。黒い靄の上には草食動物の頭蓋骨が浮いている。
「え、なんでヨルさんが家にいるの!?」
紀里香の首の周りにはいつの間にか輝く糸が絡まっていた。
「少々気になったことがあったので話が聞きたくてな」
思わず紀里香はベッドの上で正座をする。ヨルもカーペットの上で腰を下ろすように縮こまる。
紀里香はベッドの上にいるはずなのに、ヨルと視線の高さが同じぐらいになる。
「なんで家の場所を知っていたの? まさか刹那くんも?」
「強制下校時刻とやらで学び舎を追い出されたところだ。今頃は家に着いている頃だろうよ」
顔を合わせづらい紀里香は響司がいないことに安堵した。
「後悔しておるのか?」
「え?」
「小僧に壊れているといった件だ。あのときから魂鳴りが乱れっぱなしだ。ガラスが暴風で割れそうなほど叩かれている音しかせぬ」
魂の音を聞き取れるヨルには紀里香の心がお見通しならぬお聞き通しだった。
「だって、酷いでしょ? 手を差し伸べてくれている人に言う言葉じゃない」
「小僧が壊れているのは事実だ。あれは『欲無し』。生者としてはこれでもかというほど狂っている」
「『欲無し』って刹那くんも言ってたけど、なんですか? 欲がないのはわかるけど、だからといって狂っているというほどなの?」
「生きる者は欲を持つ。欲という支えがあるから生きることができる。人によっては『夢』と呼ぶ。キリカにはあるであろう。誰にも負けぬ『夢』が」
確信めいた言い方をするヨルに紀里香はすべてを見透かされている気持ちになる。
紀里香の夢を知っているのは演劇部の中でも仲のいい数名。同じクラスで知っているのは彩乃だけだ。
「あります。私は、声優になりたいです」
「せいゆう、とな?」
「基本は声だけで演技をする職業です。動く絵に声をあてて、新しく命を吹き込む職です」
「なぜそれを『夢』としたのか聞いてもよいか?」
頷いた紀里香はベッドの上に置いてある漫画を持った。青くて長い髪の軍服少女がサーベルを持った表紙に『蒼炎のミネルヴァ』と載っている。
紀里香は持っている漫画をヨルへ手渡した。
ヨルは不思議そうに左手で受け取ると、パラパラとページをめくる。
「絵と台詞の描かれたものはなんだ?」
「漫画です。昔からファンタジーが好きなんです。その漫画がアニメになった三年前、好きなキャラクターに声がついた時あまりにもイメージ通りで」
中学に入ってすぐに始まったアニメだった。アニメ化が決定してから待ちに待っていた。
三十分は感動と共にあっという間に過ぎ去り、鋭くて凛とした主人公のミネルヴァの声が心地いい余韻と共にずっと残ったままだった。
「そっか、生きてるんだって、思ったんです。私はあの気持ちが忘れられなくて、もし自分もそういう風に誰かを思わせれたらなって。気がついたら憧れて『夢』になってた」
ヨルは漫画を紀里香に返した。
「良き『夢』だな。だからキリカは澄んだ魂鳴りをさせる。じゃが、あの小僧は何もない。夢もなければ欲もない。間違った信念や願望だけで生きている。それがわかったからキリカは壊れていると評したのではないか?」
「他人のために動けるのは、すごいこと。でも、どこか怖かった。歯止めがないような気がして……」
紀里香は自分で言葉にして響司の歪さを再度、理解する。
「ワシも小僧の信念は立派だと思うぞ。しかしだ。その信念の先には己がいないのだ。キリカの言った『夢』のように己の変化を求めるものであれば良い欲だが、馬鹿な小僧は気づいとらん。他がために幾ら動いても、己が不変であることにな」
長い息をヨルが吐く。
「だから、小僧への言葉で悔いるな。馬鹿に馬鹿と言ったところで何も変わるまい。傷つくだけ損じゃとは思わぬかのう。のう」
低い声で静かに笑う悪魔の声に紀里香はつられて小さく笑う。
ヨルという悪魔を響司が面白い悪魔だと言っていたことを紀里香は思い出した。そして、不思議なことにヨルもまた自然に空気に馴染んでいるように見えた。
「刹那くんとヨルさんって、似たもの同士なのね」
ヨルは嫌そうな空気を隠すことなく垂れ流しにした。
「ハッ! あんな小僧と一緒にされたくはないのう!!」
大声で否定するヨルですら笑えてしまえる紀里香だった。
「うむ。良き魂鳴りだ。前よりも澄んだ音よ」
満足そうにヨルは何度も頷く。
一人でいた時と違い紀里香の胸の内は晴れていた。
「聞くに堪えぬ音も止んだし本題にはいるかのう」
「私に聞きたいことがあって、ここに来たのよね」
「呪いのことだ。あれはキリカに否定されたと言っていた。心当たりはないか?」
否定と言われて紀里香は横に首を振った。
「では次だ。キリカは己が好きか?」
「嫌いよ」
「即答か」
「だって、私は周りを巻き込みたくないのに誰も放っておいてくれないもの。誰かの目につく見た目をしているから」
紀里香はベランダの窓に反射した自分の顔見て、苦笑した。
「綺麗な顔だとは思うけど、それで嫌な気分になるんだからマイナスよね、これって」
「そうか」
「どうして私のことを訊くの?」
「キリカは魂の力が強いからだ。力の強い者は時折、異質な現象を起こす。呪いから僅かながらキリカと同じ魂鳴りがした」
ヨルが黒い靄から左手を出し、メジャーが蒔かれるように紀里香に絡まった糸を回収していく。
「それってどういうこと?」
透明になっていくヨルに紀里香が問いかける。
「ワシにも全容はわからんが、はっきりしたことが一つある」
顔だけになったヨルが一泊おいて、言葉にする。
「呪いを生み出したのはキリカ、貴様自身だ」
気になる言葉だけを残して、ヨルは消え失せる。
呆然とした紀里香をおいて。




