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響司は体力を失った身体を無理やり動かして、学校の廊下を歩く。
歩いているのは、科目棟ではなく、各学年の教室や職員室の集まっている教室棟の二階だ。
「歩くのが遅いぞ、小僧」
響司の五歩以上先。誰もいない広い廊下の真ん中で、ヨルは浮いていた。
「ラストの授業が体育だったから疲れてるの」
授業はもう一時間以上前に終わっており、学校には部活で残っている生徒と学校関係者の大人しかいない。
帰宅部の響司が学校に残っているのはヨルと一緒に紀里香の偽物を捜すためだ。
「呪いの奴が人を襲うとき、人除けの結界を張るはずだ。結界を見つけるぞ」
「その結界って人間の僕は感知できるの? 耳で魂の音は聞けるけど、基本的に僕のスペックって普通レベルだよ?」
響司は身体測定においても学力においても平均付近をうろついている。特に趣味らしい趣味もなく、ヨルと契約する前はずっと『退屈しのぎ』を求めていた。
『退屈しのぎ』で触ったものは一定のラインを超えると触らなくなる。
例えば、ライゼンの手帳の翻訳をやる前にやっていた手芸。
初心者向けキットで羊毛フェルトを買ってきて、猫を作った。それからは触っていない。さらにその前には切り絵に手を出したが、晴樹から借りたボクシング漫画で主人公がライバルにカウンターを決めた場面を切り絵にしてやめた。
出来は決して悪くない。むしろ良い方だった。やり続ければ才能が開花したかもしれないものですら、やらなくなる。結果として、可もなく不可もない響司という人間が出来上がっていた。
「外に残っていた結界にも気付いていていなかったのだから無理だろうな」
「詰んでない?」
「結界の質はワシが覚えておる。ある程度近づけば感知出来るから気にするでない」
「どのぐらい近くなの?」
「丁度、今のワシと小僧の距離ぐらいかのう」
響司は目測で二メートルという値を導き出す。
「超至近距離じゃん! 学校が何メートルあると思ってるの!?」
「ワシだって非効率的なことはしたくないわい! さっきから耳を立てているが悪魔のノイズどころか小僧の言っていた水音もせぬのだから仕方がなかろう!!」
ガラガラと扉の開く音が前の教室からした。
ヨルと喋っているところを見られたくない響司はT字になっている廊下を曲がって、姿を隠す。
「誰かいた?」
「いや、誰もいない」
扉が閉まる音がして、響司は壁から顔だけ出した。さっきまでいなかった廊下に男子生徒の背中が二つ。男子生徒たちは談笑しながら歩いていた。
見つかっていないことを確信した響司は顔をまた壁に隠して、息を深く吐いた。
「ワシ、悪くないぞ」
顔を背けて無罪を主張するヨル。
「わかってるってば」
響司は口をとがらせ、小声でヨルに言葉を返す。
廊下の右と左に人の姿が無くなったことを首だけ何度も動かして響司は確認する。
「非効率すぎる捜索をするしかないのは辛い――ん?」
耳の奥で、水を踏む音がした。水たまりの上をずっと走っているようなバシャバシャという落ち着かない音。
「ヨル、音がしてる。この前聞いたのとは違うけど、水の音だ」
「何?」
緊張した空気を一瞬でまとったヨルが動かなくなった。
時間の流れが伸びていく感覚の中、音が動く。
校舎の外にいたはずの音が一階に入り込んだ。
「下だよ!」
「ワシには聞こえぬな」
ヨルと顔を合わせた後、響司は音のした一階へと続く階段へと駆けだした。
男子生徒たちが歩いていった方へと走っていく。
「待て小僧!」
ヨルは響司の横を飛ぶ。
水の音が大きくなる。今度は泡が弾けていた。
廊下を低空で飛ぶヨルの顔が床を向く。
「人間の音が二つ消えた。小僧! 呪いめ、結界を張りおったぞ!!」
階段の手すりを右手で握り、響司は大ジャンプを決める。踊り場に右足だけで着地して、着地した足を軸にして半回転。再度、手すりを右手で掴んで同じジャンプを決める。
学校に響く大きな着地音。
両足にかかる重力が、痛みを生みだす。涙目になって、響司は耳を傾ける。
音は止むことなく、鳴っている。苦しくて寂しそうな音色だ。
「左!」
響司が指差した方向にヨルはすでに飛んでいた。
黒い靄から鋭い爪の左手を出して、空気を切り裂く。
ヨルの爪で引っ掻いた四本の痕が空中に浮かんでいる。トリックアートのように切り裂いたところからうつ伏せで倒れている男子生徒二人と逢沢紀里香そっくりな少女が姿を覗かせた。
「あらやだ。覗き見はダメよ?」
口元に人差し指を当てて、しーっという仕草で笑みを浮かべる紀里香の偽物に響司は寒気がする。
紀里香の声で、顔で、身体で、表現されるすべてが冷たかった。
「百聞は一見に如かずというが、かすかに魂鳴りのような音がしとるのう。のう」
「化け物はお呼びじゃないのよ」
「人外を化け物と呼ぶなら呪いである貴様もだろう」
ヨルが裂かれた結界の隙間から身体を通り抜けさせた。
左手の爪を呪いへと向ける。
「可愛くない顔でこっちに来ないで!」
紀里香の偽物はヨルの左手を掴んで、一本背負いをするように投げ捨てた。しかし、ヨルは浮遊できる上に壁のすり抜けが出来る。
空中でくるりとヨルは回って事無きを得る。
「あら、化け物も案外美味しいのね」
響司の左腕に静電気が流れた。静電気が起こるような物に触れていないのに確かに瞬間的な痛みが走った。
左腕の動きだけが鈍い。
響司は似た感覚を思い出す。
(ライゼンさんの陣を使った後の疲労感だ!)
紀里香の偽物が左の手のひらをペロリと舐めた。
「違うわね。この味……後ろのあのコと同じ味がするわ」
「ワシ経由で小僧の魂の吸収じゃと? 結界といい受肉といい、悪魔と変わらぬことをしよる」
響司は邪悪で綺麗な笑顔を呪いに見せつけられる。
「あぁ、そういうこと。アナタたち、繋がってるのね」
呪いと目を合わせているだけで、呼吸が短く、浅くなっていく。見えない手で喉を締められているようだった。
「小僧! さっさと寝転がっている人間を連れ出せ!」
ヨルの声で響司の呼吸の乱れが止まる。
「小僧には手出しさせぬぞ」
「でもワタシに触れれないでしょ? だって、アナタにワタシが触れると、あのコの命が減っちゃうもの」
ヨルの左手から糸が伸びた。
糸は紀里香の偽物の両腕両足を縛って、空中に持ち上げた。
「この糸はワシが作った糸だ。霊体だろうが実体だろうが絡めとるぞ」
捕らえられたというのに、紀里香の偽物は狂った人形のように笑う。
「そういうのが好みなの? ワタシはじめてよ。誰かに襲われるのは。あん!」
ヨルが左手の指を少し動かすと、紀里香の偽物に糸が深く食い込んだ。
「しばらく黙っとれ! 今のうちにそこの人間を運び出すがよい。あと、結界には絶対に触れるでないぞ」
「わかった」
結界の隙間を跨ぐようにして、結界の内部へと響司は侵入した。男子生徒の脇に響司は自分の身体をねじ込んで、腰に力を入れて持ち上げる。
結界の外へ一人、また一人と放り投げていく。
「終わったよ」
ヨルは頷くと、縛り上げた紀里香の偽物に寄った。
「貴様は何故キリカの姿をしておる。何故、魂を吸い取っておる?」
「聞くならスリーサイズの方がいいんじゃないの? あん!」
嬌声が響司の鼓膜を刺激する。
性格や口調は違えど、クラスメイトの紀里香と同じだ。クラスメイトが縛り上げられていると思うと、気が気ではなかった。
響司は目に入らないように紀里香の偽物から距離とって、顔を横に向けた。
「余計なことを喋るでない!」
「そんなの簡単よ。ワタシがアイツになるためよ」
呪いからまた水の音が漏れ出していた。
「ワタシはね、否定されたのよ。だからワタシはワタシを肯定するためにアイツになるのよ!」
糸が突然、吹き飛んだ。
後ろに吹き飛ばされそうになるのを、響司は足で踏ん張って耐えようとする。ヨルは黒い靄を乱しながら浮いていた。
響司の両足が地面から離された。
「いっ!?」
背中から落ちて行っていた。
破れた結界に向かって――。
「小僧!?」
見えない膜に背中が触れる。
視界がマーブル模様になって、歪んでいく。身体がずっと半浮遊状態で、軽い。誰かが叫んでいるのがわかるのに、言葉が認識できない。
血の気が引いていく。手先から足先まで冷たくなっていく。
見えているモノから色が無くなった。
意味が分からなくなって声を発しているはずなのに、声が出ない。喉を触ろうと右手を伸ばすも、右手がない。
なくなっていく。五感だけでなく、肉体そのものが溶けていく。
(何が起こってるの!?)
――溶けて、溶けて、液体になる。
――混ざって、混ざって、曖昧になる。
(気持ち悪い……。吐きそう。いや、吐きたいのに、吐けない……。たすけて……)
理解が追い付かないまま響司は意識を失った。
次更新するのズレます。5/6になると思います。




