6
―― ◆ ―― ◆ ――
響司と下足場で分かれたヨルは骨と黒い靄の身体を物理法則を無視して、沢渡学園の校舎を見下ろした。
魂の音が四方八方から聴こえる。無暗に重なり合う音。一人ひとりが楽譜を見ず、身勝手に欲望を奏でている。音の大きさも、高音と低音のバランスもない。音楽としての表現なんてあるはずがなかった。
響司への嫉妬する人間の魂鳴りは激しくピアノの鍵盤を叩きつけるような力のある音でまとまりがあった。校舎全体で音を聴くとなると、目的のない音が他の音を殴り合っているだけだった。
聴くに耐えなくなったヨルは人間の魂鳴りだけが聴こえないように耳を調整する。
「こんな狭苦しいところに人間が大量に押し込められておるのか。マンションも大概だが、こちらの方が魂を鳴らす人間が多いか」
人間の魂鳴りだけを消すと、静かになった。
ヨルは壁や屋根を気にせず動けるように霊体にして、校舎の中へと入る。
響司が学校に行くときに着ている服と同じ服を着た男と似たような服を着た女しか基本いないことにヨルは気味悪がる。
悪魔のヨルが知っている人間は、現代の人間ではない。時が流れ、発展とともに変わっていった人間たちの変わりようにまだついていけてなかった。
「こら、お前たち廊下を走るんじゃない!」
生徒たちが慌ただしく教室の中に入っていく。
薄い水色のシャツ、黒いスーツのズボンを身につけた成人男性がヨルの身体をすり抜けた。
成人男性が教室の扉を閉めると、始業のチャイムが鳴る。
「ぬおぉぉぉぉ!? 忘れておったぁぁぁ!」
ヨルは左手で頭蓋骨の頂点あたりを塞ぐようにして、廊下を跳ねまわる。
学校のチャイムは耳の良すぎるヨルにとって、膨らんだ風船を耳元で唐突に破裂させられたようなものだった。
ヨルは一定期間ごとに何度もなるチャイムに嫌気がさして、昨日は学校を離れたのだった。
チャイムが鳴り終わるまでの数秒、ヨルは校舎の中を跳ねまわった。
スピーカーのプツンというチャイムの鳴り終わった後に聞こえる切断音がしてから、ヨルは自分がどこにいるかもわからないまま、へたり込んでいた。
「ワシには聖水よりも堪えるぞ……」
ヨルはふらつきながら浮遊する。
紀里香の呪いのヒントを得るために学校に来ている。昨日のように学校を離れるわけにはいかない。
「さっさと呪術者を探して静かなところに行きたいのう……。のう……」
ヨルは自分のいる場所を把握するために見渡した。
人がおらず、規則正しく並べられて机が整列していた。教室の窓側には蛇口も並んでいる。床に敷き詰められている木のタイルの上に青い線や黄の点といった色の濃い汚れがあった。
ヨルは高い背を縮こませ、汚れを左手の爪先でひっかく。
木のタイルにひっかいた痕が残る。汚れは木のタイルにしみこんでいるようだった。
「絵具か」
ヨルが教室の外に出て確認すると、美術室と書かれた札が扉の上にあった。
意図せず、沢渡高校の科目棟の一階にヨルはいた。
「美術……芸術も学ぶのか。であれば音楽もあるのであろうな。小僧に尋ねるとするか」
心の中で笑みを浮かべたヨルは科目棟の中を進む。
科目棟の外に出る渡り廊下を歩いていると、ヨルの聞き慣れない音があった。悪魔のノイズではない。何かが地面をバウンドする音だ。
ヨルは気になって、音のする方へと足を向ける。
渡り廊下が分岐して、大きな建物に繋がっていた。建物の中で人間がボールを手のひらで弾き、地面にぶつけてはまた手のひらで弾く動作をしていた。
ジャージ姿の男が口に笛を加えて、短く鳴らす。
ヨルはまた音に驚いて、身体をこわばらせた。
「ドリブル終了。二人一組でパスの練習をしろー」
生徒たちが制服ではなく、半袖ハーフパンツになっている。
ヨルはわざわざ衣服を変えることに合理性を見出せず、頭を悩ませた。
「人間は理解出来ぬことをするのう。む?」
生徒たちが着ている体操服の胸の部分に目がいく。沢渡高校の文字と一緒に苗字が刺繍されている。
ヨルは口を大きく開けたまま卒倒しそうになった。
「名が簡単に分かってしまうではないか! 呪術において名は隠すべきものであろう!?」
髪の毛が一本あれば呪いの発動には十分だ。呪いの安定性と効力を増幅させるために別の要素を組み込む呪術者は多い。名前は呪いを強化する要素の一つであることをヨルは知っていた。
名前の一部だけでも効果はある。
「現代では呪いへの警戒心がなさすぎではないか? やろうと思えば誰でも呪えるではないか。……困ったのう。呪術者の特定には動機や呪いの手順などを調べるのが手っ取り早いというのに。これでは手順は簡略化されてしまって追えぬではないか」
ヨルは体育館の前で立ち尽くす。
「ライゼンとした仕事以上に厄介かもしれぬな。手順が追えない以上、キリカの周りで異変が起こるまで待つのが正解、か」
体育館を後にして、ヨルは紀里香の位置を特定するために魂鳴りをまた聴く。頭が痛くなりそうな魂鳴りの騒音に風鈴のような凛とした音が左から聞こえた。
音の場所は昨日、響司が一番長い時間いた二年三組の教室だった。
ヨルは音がした教室へと、周囲を警戒しながら空を飛ぶ。
悪魔のノイズは校舎内には聴こえない。学校の外には交差点の一件以降、彷徨っている悪魔が少ないながらいる。人間への干渉をすると、力を使い切って、すぐに消滅してしまいそうなほど弱い悪魔たちだ。
紀里香のことを知ってか知らずか学校に引き寄せられている悪魔もいた。しかし、学校にヨルがいるため、学校にまで入ってくることはない。
「小僧が変わったことを言っていたのう。呪いごときが魂鳴りをさせるはずあらぬというに」
ヨルは二年三組の教室を窓の外にある木に立ち止まった。
響司も紀里香も黒板に書かれた数式を書いていた。響司は苦悶の表情をして、ノートを書く手がときどき止まっている。
「こうしている分には普通の人間と変わらぬのに『欲無し』なんぞに何故なったのかのう。小僧ぐらいの年であれば『夢』という形で欲を溢れさせるはずなんじゃがな」
響司が手を小さく振っていた。誰に、と問われればヨルにだった。
ヨルは知らぬフリをして、教室を窓から観察する。
「刹那! どこ見ている!」
焦って響司はその場で立ち上がって、足を机にぶつけていた。椅子も響司の立ち上がる勢いに耐えられず、大きな音を立てて後ろに倒れた。
「はいっ!? ごめんなさい!」
教室の中で、殺しきれていない笑い声があった。紀里香は椅子に座ったまま、上半身をひねり、教室の一番後ろの響司を心配そうに見ていた。
窓の外からでも教室の中の音を拾えるヨルは首を横にゆっくりと揺らした。
「何やっとるんじゃ……」
ヨルは響司の傍に行こうと、窓をすり抜けようを試みる。頭を窓に近づけたところで見えないものに押し返された。
固い膜状の結界だ。
「ふむ。結界ではあるが、弾くことや拒む意味の結界ではないな」
気配を遮断したり認識を歪める類の結界だ。結界に触れなければわからないほど微弱なものだが、効果はしっかりしていそうだった。
「そうか。小僧が呪いと出くわしたのはここか」
結界を左手の爪で破く。
爪先に残った結界の感触があまりも柔らかすぎる。まだ素人の響司が張った結界の方が丈夫だ。悪魔が張った結界であればもっと硬くて、害となりうるヨルを拒絶する力が働く。
昨日、ヨルが学校にいる間に結界が張られてなかったはずだ。結界を張った犯人が呪いだと断定できないが、結界を張る何かはいることが確定した。
「半信半疑だったのだが、ワシに悟られずに動く者がおるな」
ヨルは左手をわきわきと動かした。
「確固たる自我を持ち、魂鳴りをさせるだけでなく結界も張るか。そこらの野良悪魔どもよりもよっぽど悪魔らしいではないか。のう。のう」




