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学校から帰宅して。三時間経った。
響司は晩御飯も食器の片付けも食べ終わり、リビングでテレビを眺めていた。
紀里香の身に起こった不可思議な事象を話したいのに、話すべき相手であるヨルは家にすらいなかった。
「帰ってこないなぁ、ヨル」
迷子を捜すように外へ出ることも考えた。ヨルは犬や猫ではなく悪魔だ。姿を消せるヨルを誰かに尋ねることはできない。
ヨルの帰宅をただ待つことしかできない響司はテレビのリモコンを手にチャンネルを変えて遊ぶ。
名前も知らないドラマ。芸人がヘルメットの上に風船をつけているバラエティ番組。また違うドラマ。四つ目の映像で、響司のリモコンのボタンを押す指が止まる。
画面の右上に『事故多発の交差点』と強調する赤色の枠と黒い文字が大きく出ていた。中央に映っている交差点。周囲にある建物すべてに見覚えしかなかった。
事故当時の映像として、車に取り付けられているドライブレコーダーの映像が流される。目の前に不自然なスピンをする青い軽自動車。フロントガラスにヒビが入った瞬間、映像が止まった。
撮影していたドライブレコーダーが壊れたのだろう。
「あの事故の映像……だよね。改めてみるとエグいな」
現在の交差点の状況が映った。
人ごみの中に、頭一つ飛び出た動物の頭蓋骨が左右に動いていた。
「ヨル!?」
今日の昼間の映像だった。ヨルは交差点にいたらしい。
映像のヨルは周囲を見渡して、空中に浮かび上がり、映像から消えた。
「小僧、戻っておったか」
ベランダの冊子とカーテンをすり抜けて、ヨルがリビングに入ってきた。
「今までどこにいたのさ」
「退屈を殺す時以外は何をするのもワシの自由だ」
「いて欲しいときにいなくて困ってたんですけどねー」
どこにいたか知っている響司が嫌味っぽく言うと、ヨルが隣の部屋にあるタンスに背中を預けて、響司と目を合わせた。
「何かあったのか」
「ヨルがいない間に悪魔っぽいのが現れたんだよ」
「悪魔だと? ずっとではないがワシも学校におったのだぞ。悪魔がいればワシが聞き逃すはずがあるまい」
響司の魂鳴りを聴く力はヨルの力だ。響司が聴こえない音もヨルには聴こえている。ヨルが悪魔のノイズを聴いていないとなれば、紀里香の偽物は悪魔ではないということになる。
本気で驚いた声をさせたヨル。嘘をついているようには見えなかった。
「出てきたんだって。逢沢さんの姿で僕、押さえつけられたんだ。キレイかどうかも訊かれたし、男性を誑かしているみたい」
体重は人間のものだった。力だけが以上に強くて、びくともしなかった。響司は筋肉はあまりついていないとはいえ、一般的な同年代女子を払いのけるぐらいの力はある。
「ふむ。キリカの姿か。似たようなことならワシにもできる」
ヨルの身体とも言える黒い靄がヨルの頭を飲み込んだ。黒い靄は小さくなっていき、響司と同じ高さになる。靄の中から人の腕が生え、次に足が生えた。
最後に出てきたのは顔だった。顔には、毎日、洗面台の鏡で響司が見るパーツしかついていない。
「……僕になれるの?」
いつも天井すれすれのヨルの身長が今は響司と全く同じだった。着ている服も動きやすい無地の白シャツに短パンだ。違う点をあげるなら、ヨルが変身した響司は表情が死んでいるところだ。
「悪魔であれば受肉するなぞ簡単だ。だが、力を多く消費するのでやらぬ芸当よ。仮に小僧の言う存在が本当に悪魔であれば契約悪魔しかいない」
ヨルは力強い言葉を放った後、黒い霧を身体に纏わせ、草食動物らしき鼻先が出っ張った頭蓋骨と大きな黒い靄の姿に戻った。
「契約悪魔って断定するのはどうして?」
「世界に留まるため、契約悪魔は契約者から魂の吸収しておるからな。契約者が強い魂ならば、契約悪魔は契約者の魂が壊れない限り力が使い放題だ」
「魂吸われているの初耳ですけど?」
「ワシは小僧の寿命が減るような吸い方はせぬから安心せよ。時折、激しい運動をした後のような疲労があるぐらいだ」
ヨルはタンスの上にあるライゼンのオルゴールを骨しかない左手で掴み、響司に投げつけた。
慌てて手を前に出し、響司はオルゴールを受け止めた。
「弱い悪魔ならば、ライゼンのオルゴールに力を蓄えた状態で鳴らせばすぐに消滅するぞ。まぁ、ワシはあの学び舎に悪魔なぞおらぬと思うがな」
口をへの字に曲げた響司はオルゴールの蓋を開け閉めする。ゼンマイを回していないので、音楽を奏でることはない。
オルゴールを見たばかりの時と違って、ヨルは大人しくオルゴールの蓋の動きを見ていた。ヨルいわく、マオの一件で力を解放して、蓄えた力はすべて使い切ってしまい、今はただのオルゴールでしかないらしい。
「僕もノイズは聴こえなかったんだよね。魂鳴りっぽい音は聞いたけど。逢沢さんの偽物は悪魔じゃないとなると、悪霊か何かなのかな?」
「男を誑かしているのなら普通の人間にも見えるということだ。悪霊であれば力が余程強くなければ普通の人間に認識させることなど無理だ。さらに言うと誰かに似せて受肉するなんて出来ぬよ。聴いているかぎり『ドッペルゲンガー』が近いか」
「聞いたことある。自分と瓜二つの見た目をしているんだよね。あれって都市伝説とかじゃないの?」
「否だ。何らかの原因で魂が欠けてしまい、回収されず肉体の外に出たままになった魂の欠片がドッペルゲンガーの正体だ。死者ではなく生きた人間の魂だ。魂を視る力がまったくなくとも認識することがある」
「じゃあ、ドッペルゲンガーを調べたら対処法も分かるかもしれないんだね」
「ワシは近いと言ったであろう。本当にドッペルゲンガーならば、ただ魂が分離して浮遊するだけ。人間に危害も加えぬ。ましてや男を誑かすなぞ、聞いたことがないわ」
紀里香の偽物は、はっきりと言葉をしゃべり、自我があるようにしか見えなかった。
「生きた人間に危害を加え、受肉できる上に霊体にもなれる存在。そして、相手から悪魔の魂鳴りが聴こえぬことを考えると自然と答えは絞られるぞ」
ヨルは明後日の方向に顔を動かし、心底つまらなそうに言葉を紡ぐ。
「――呪いだよ。誰かがキリカを呪っておる。直接殺すようなものではないが、陰湿で高度な呪いだ。ライゼンが生きていたときでも、ここまで強力な呪いは数えるほどしかなかったぞ」
響司は服の胸のあたりを強く握りしめた。
逢沢紀里香という人物を響司は噂でしか知らない。高校一年のときは別のクラスだった。直接点ができたのは、先週の木曜日。二年生になって同じクラスになったからと言って、雑談するようなことはなかった。
知らないなりに響司は考え始める。
響司が耳にした噂をカテゴリで分けるなら、容姿を褒めるプラスな噂と男にだらしない女のマイナス噂の極端な二つ。前者はわかるが、後者は素直に納得できなかった。
(男遊びが好きなら、教室にいるときや僕にプリントを届けに来たときは猫を被っていた?)
猫を被っていたのなら完璧だ。さすが演劇部と褒めざる負えない。
放課後にプリントを届けにきたとき、嘘をついたことを謝った紀里香が響司の頭に引っ掛かっていた。黒い本性を隠すなら、わざわざバラさなくていい。感謝を伝えるためだけに響司の家に来なくていい。
リスクが生まれる行為しか紀里香はやっていないと響司は思えた。
「逢沢さん、呪われるようなことはしないと思うんだ」
「人間は都合のいい生き物だ。己にとって利になるモノであれば信じ、利用する。都合が悪くなると切り捨てる。善悪も同様だ。都合のいい善しか人間は受け入れない。本当にキリカが善人であるか、悪人であるかは他人には関係のないことだ」
「ヨルって、きついこと平気で言うよね……」
「ワシは事実を述べたまでだ」
ヨルは淡々としていた。
冷たいヨルにげんなりする響司。ヨルの言葉には否定したくとも否定できない要素があったため、響司の深いため息を誘った。
何も言わずに響司はオルゴールを両手で持ち、タンスの上に置きなおす。
「して、貴様はどうしたいのだ?」
タンスの前に座ったままのヨルが、左手から半透明の糸を出す。支えるものがない空中であやとりをしていた。半透明の糸は丸や三角といった簡単な図形を作って、一定時間止まる。
欲望を口に出せ、と再契約の条件としてヨルに提示された。響司はヨルの質問に口角を上げて答える。
「僕に出来ることがあるなら逢沢さんの手助けをしてあげたいと思う。ヨルも手伝ってよ」
ヨルの出した糸は空気に馴染むように消え去った。
「やりたいのであれば、命令しろと言ったであろう」
「僕も無理強いはいやだって言ったでしょ」
響司がヨルの前で腕を組み、仁王立ちする。
ヨルは呆れたとは口にせず、空気を滲み出させた。
「キリカは良き魂の持ち主だ。汚されるのは気に食わん。借りもある。今回はすすんで手を貸そうかのう」
「借り?」
「こちらの話だ。気にするでないわ」
ヨルが何かを隠しているのは確定だったが、響司は追及するようなことはしなかった。
「それにしても、ヨルが来てから退屈なんてしてられないね」
「昨日の今日で面倒ごとを拾ってきたのは小僧だろう」
「いいじゃん。退屈しなくて」
悪戯をする子供のように笑う契約者を見たヨルは、振り回されることを覚悟半分、諦め半分で受け入れるのだった。




