12
―― ◆ ―― ◆ ――
――時間は少し巻き戻る。
響司が家を出て行った後は静かなものだった。
置物のように動かず、ヨルは手に絡みついた契約の糸を眺め続ける。身体は動いていないが心中は穏やかではなかった。
煮えかえるだけの腸を持たないヨルでも腹部が熱くなる。
(何故だ。あの手の人間は死者のために助けを乞うことがあっても、己の命ために『助けてくれ』や『手伝ってくれ』と言えぬのだ……!)
ヨルは契約悪魔だ。契約者の願いを叶え、対価をもらう。対価さえ支払えば、ヨルの意思を捻じ曲げて、響司と共に今回の騒動を鎮静化させることができた。
響司が一言いえば、ヨルは手伝うつもりだった。
(もうどうでもいいこと。怒りを覚えたところで関係はない。アレはもう契約者ではないのだから)
テーブルの周りを無音で幾度もヨルは回り続ける。
一定周期で視界に映り込む黒いオルゴールがヨルの怒りを再燃させた。
ヨルはオルゴールの前で立ち止まって、睨みつける。
「大体、貴様がワシ専用の召喚陣なんぞ作ったのが問題なのだ! 誰がまた呼べと言ったのだ! おい、聞いているのかライゼン!!」
オルゴールはうんともすんとも言わない。
当たり前だった。ヨルも理解していた。それでも説教せずにはいられなかった。
「ワシはな、お前の言う通りにした。たまたまワシと契約しただけの子供を対価なしに救った。一度ではないぞ。何度もだ! この意味がわからぬ男でもあるまい!」
言葉を吐き出せば吐き出すほど、ヨルは怒りが溜まっていく。そして、虚しさも。
感情も口もないオルゴールへ一方的にやつあたりをしているだけなのに、責められているように感じた。
「やるべきことはやったぞ、ライゼン。これで満足だろう。のう? のう……?」
ヨルの身体が不規則に色を失い、輪郭が失われる。
響司との契約をきったヨルは力の供給がない状態だ。もし世界にとどまるのであれば、野良悪魔同様に魂を喰らわなければ、いずれ世界から消える。
ヨルは世界から消えることが怖くなかった。
悪魔にとって、死とは他の悪魔に喰われるときのみ。ライゼンとの契約が切れた後と同じようにまた闇の中に意識を漂わせるだけだ。虚無の世界に引きずり戻されるだけ。
悪魔たちの大半は闇の中に戻るのを拒む。だから醜く死者の魂をむさぼり、光ある人の世界にしがみつく。
「ワシは雑魚共とは違い、引き際をわきまえておる。だから、もうよいのだよ」
カーテンの隙間から入る月明りがオルゴールを照らす。金色の三日月の装飾が光を反射させて、ヨルを刺した。
外では悪魔たちが動き始めたのか、耳障りなノイズが強くなった。
「あの『欲無し』はとうとう魂を鳴らさなかった。人はどこかで魂を鳴らす。小さくても、雑だろうと鳴るものだ。あの小僧は一度も鳴らさなかった。欲の弦は張らず、静かに朽ちていくのだろうよ」
どれだけヨルが索敵しても響司の魂だけは見つけられない。
音のない魂は初めてだった。生きているか死んでいるのかわからない危うい魂。
響司の死を感じた時、ヨルはまたか、と思った。契約の糸が切れて、死を察する。響司との糸が切れて垂れた後、またピンと張りなおす糸を二度見した。
魂と肉体の橋渡しをする欲がない故、魂か肉体が不安定になれば乖離現象を起こす。けん玉のけんと玉を繋ぐ糸が切れているのと変わらない。けんと玉が離れたものを誰がけん玉と呼称し、認識するだろうか。
――世界は響司を人として、存在を許すだろうか。
答えは簡単。『否』だ。
「セツナキョウジ……。魂だけでも危ういのに生き方も危ういとは難儀な小僧だな」
ヨルがカーテンをどけた。悪魔特有のノイズがする方角を眺めると、悪魔たちが集まり、黒い塊となっていた。
カーテンを握った左手に力が入った。カーテンはくしゃくしゃにされる。
「そういえばライゼン。貴様と賭けをしていたな」
カーテンを放して、左手でオルゴールを握りしめる。
「賭けの結果を見に行かねばなるまい。不正がないか確かめねばなるまい。そうは思わぬか?」
手にしたオルゴールに語り掛けるヨル。
誰もいない部屋で閉じこもっているのをやめ、ベランダから飛び出した。
一分足らずで交差点上空へ。
無数の悪魔たちが交差点を囲み、瘴気を発生させていた。普通の人間であれば、瘴気に触れるだけで陰鬱な気分になり、死への抵抗が無くなる。
霊感がない人間でも今の交差点には近づく気が失せてしまう。
悪魔の幕の隙間から交差点をを眺めると、頭を押さえて震えている幼子と結界を張るのに必死な響司がいた。
(始まったか)
ヨルは交差点を見下ろせる電柱の天辺に立って、オルゴール片手に見下ろす。
餌場の危機に至る所から集まってくる低級悪魔たち。色濃くなる悪魔の幕。交差点の中央には『セツナキョウジ』という愚者と幼子の魂。
響司がライゼンの残した陣で結界を張り。悪魔を跳ね除けていく。
結界が正常に発動していれば。低級悪魔は結界に触れた途端、蒸発する。蒸発しないのは響司が悪魔祓いの方法を知っているだけの素人だからに他ならない。しかし、悪魔の接触を防ぐ機能を保持しているだけ上出来だった。
「まずまず、といったところか。しかし、これでは結末は見えているな」
悪魔は際限なく集まってきている。
マオを浄霊できたところで、降霊をした響司に悪魔から身を守れるだけの結界を張る力が残っているとは到底思えない。
響司が生きる可能性は万に一つもない。
マオに近づいて、響司が結界で囲った。悪魔たちは結界を壊そうと体当たりを繰りかえしている。
結界の強度はヨルの爪であれば簡単に引き裂けそうなもの。低級悪魔たちが相手だからこそ耐えることができている。
白いチョークを握った響司の顔が苦悶で歪んでいた。
結界を張り続けながら、降霊の陣を発動させんと陣を描き続ける。
素人がやりきれることではない。間違いなく降霊の陣を使ったところで響司の意識がなくなる。そうなれば結界も消えてすべてが終わる。
(不本意だがアレでもワシと契約した人間。他の悪魔に喰われるぐらいならワシが喰らう)
悪魔はまだ増える。
一体の悪魔が結界の前にいた。他の悪魔と比べて力が強いことは明白。ヨルほどではないが、己の姿を一時的に形作ることのできる悪魔だった。
たった一体の悪魔の攻撃で結界は歪み、突破される未来がヨルには見えた。
ヨルの予想した通りの終わりを迎えようとしていた。だというのに――。
「何故だ。何故、笑っているのだ、あの人間は……!」
危機的状況の中、瞳が輝いていた。
歯を食いしばって降霊の陣を描いていた響司はヨルが今まで見ていたどの『セツナキョウジ』からもかけ離れていた。
響司が口を手で押えて咳をする。口の端から血が漏れ出していた。
当然だ。
ライゼンの陣は使用者の魂を糧に発動する。半端者が使えば、反動で命を削っていく。
響司も例外ではなかった。確実に死に近づいている。魂の音が聞けるのであれば、音は小さくなっていっているところだ。
「生きているのだぞ貴様は。貴様が救おうとしているのは死者だぞ。どうしてだ。どうして貴様らは生者の枠に収まらんのだ……! 醜く浅ましく生きていかぬのだ! 分不相応な行いをするのだ!!」
ヨルはオルゴールを手にする。
響司の行いは、ヨルにとある男を彷彿とさせた。決して似ても似つかない。声も身長も髪の色も違う。ただ死者へ向ける感情は一緒だった。悪魔と対峙するとき、笑っているのも同じ。
「オルゴールがあの馬鹿で愚かな人間の手元にあったのは、運命の悪戯か? それとも貴様の意思か、ライゼンよ」
オルゴールを手に屋上で空を見上げた時のような懐かしい声は聞こえない。
聴こえるのは悪魔たちの雑音と幼子の魂の音だけだった。
ヨルは不満をため息に変えて吐き出した。
「心地よい音が聴きたいものだな」
ゼンマイをオルゴールに刺し、回す。
何度も回して、回して、ロックがかかる限界まで回しきる。
ヨルはオルゴールを半開きにした。
音がならないギリギリの開き方。
蓋が閉じないように爪を差し込む。蓋の隙間に紙を一枚、滑り込ませた。
「あぁ、手は出さぬよ。ライゼン。不正はせぬさ」
放り投げた。
響司のいる交差点の中央に向かってオルゴールを投げた。
黒兎のオルゴールはゆったりと回転しながら落ちてゆく。
「ただ……久々に本当の音色が聴きたくなっただけのことだよ」
オルゴールの蓋が開き、心を温かくする名もない曲を奏でる。
悪魔が嫌うオルゴール『月下の檻』。数時間前までヨルが紀里香の家の近くまで行き、力を貯めていた。
紀里香からあふれ出る力を貯めたオルゴールは本来の力を取り戻す。
ヨルの予測した未来は現実となり、結界が壊された。
響司の手元で輝き、悪魔たちが『月下の檻』によって作られた結界に押し返されていく。
悪魔たちを退ける様は悪魔祓い師ライゼンの造りし品として相応しい。
(音が鳴りやめば結界は消える。それまでに小僧がやり遂げるか、見物よな)
観客として、ヨルは空中から見下ろす。響司の命が尽きるそのときまで、ヨルはすべてを記憶に刻み続ける。
たった三日しか契約しなかった人間の最後を、退屈な虚無の世界に持ち帰るために。




