10
響司は目を覚ましてすぐにリビングに向かうと、頬を風が撫でた。
ベランダをみると、白いカーテンが風で揺れている。
洗濯物を干すときしか開けないベランダが開きっぱなしだ。
泥棒が来たのかと思い、すぐにタンスを調べる。通帳も印鑑も、母親が残した宝石類も盗まれていなかった。
「オルゴールだけ、ない?」
ヨルが恐れたライゼンのオルゴールだけがなくなっている。
開きっぱなしのベランダはガラスを割られた形跡がない。
なくなったオルゴールに内側から開けられたと思われるベランダ。マンションの五階まで人間は容易に登ってこれない。
犯人は一目瞭然だった。
「ヨル―! どこいったのさ、ヨル!」
犯人の名前を呼ぶと、後ろから入ってくる風が止まった。
「起きたのか」
響司が後ろを振り向く。
左手にオルゴールを持ったヨルが佇んでいた。
「起きたのか、じゃない。ベランダ開けっ放しにしないでよ。泥棒が来たのかと思って焦ったじゃん」
「知らぬよ。ワシはただ夜風にあたりに行っていただけだ」
ヨルは響司を放置して、タンスの上にオルゴールをゆっくりと置く。置いた後もヨルはオルゴールを見つめていた。
「ライゼンさんのオルゴールって、ヨルの大切なモノ?」
「懐かしくもあり、鬱陶しくもある。なんとも言えぬよ。ただ、時を経て、見慣れたものに出会っただけのことよ」
悪魔のヨルにとって、今の時代は異様な姿をしているだと響司は理解した。
スマホをオルゴールと言い、急いでいるのに信号を待つ人間の姿に疑問を持つ。ヨルがいた時代にはなかったのだろう。
ライゼンのオルゴールと手帳だけがヨルの知る物だ。だからだろう。響司はオルゴールを見つめていた一瞬、ヨルが笑っているように見えた。
「そういうのを大切っていうんじゃないの?」
「ハッ! 人間が生きる上で大切な欲を失っておる貴様に言われるとはな」
「だから欲はあるってば!」
「自分の命を危険に晒す行為を望んで行う欲があってたまるか! 貴様は間違っておる!」
ヨルの左手が響司の首を掴んで、持ち上げられる。足が地面を離れた時から首が締まっていくのがわかった。
響司がヨルの骨の手をひっかく。ヨルは顔色一つ変えなかった。
「簡単に、殺されそうではないか」
ヨルが手の力を緩めた。響司は咳ごみ、息を短く、何度も吸い込んだ。
「貴様一人で何が出来ようか! のう! のう!!」
骨の顔が上から響司を睨みつけていた。赤い瞳には怒りとは別の感情が混じっているように響司は思えてしかたがなかった。
「約束したんだよ。マオちゃんに何とかするって」
「死者との約束なぞ反故にしてしまえ!」
「今ここで守らなかったらさ、これからも平気でウソをついちゃう気がするんだ」
「だからなんだというのだ。ワシは醜い人間共を知っているぞ。己が財産のために人を騙す者がいた。好いた女を己がものとすべく、友を裏切った者もいた。そうやって人間は欲を満たしていくのだ! 生きていくのだぞ!!」
ヨルの言葉が慟哭に聞こえた。流せない涙を流している。
響司はヨルの顔を優しく触れる。ヨルの顔は手以上におうとつが激しく、ゴツゴツしていた。
「ヨルが言いたいこと、なんとなくわかったよ。――僕に生きていてほしいんでしょ?」
悪魔は人間の手から離れない。離れるどころか押し付けている。
「なんでヨルが僕に生きてほしいかわからないけど、僕は僕のためにマオちゃんを助けるよ」
「例え、一人でもか」
ヨルが響司の手を握った。
「そうだよ。だって僕にとって毎日はどうしようもなく退屈で怖いんだ。友達と話していても、楽しい映画を見ていてもずっと退屈で死なないか不安だ。だから、いつ死んでも後悔のないような生き方をしようって決めてる」
ヨルの左手から細い糸が伸びている。伸びた糸は響司の額の中央に引っ付いていた。ヨルが左手を強く引くと糸は簡単に切れてしまった。
「契約を破棄した。これで貴様がどのように死のうが関係ない」
想定外のヨルの行動に響司は戸惑い、焦った。ヨルとの契約によって幽霊が見えるようになった響司は契約を切られると普通の人間になってしまう。
「ちょっとそれは待ってよ! このままじゃマオちゃんを助けに行けないじゃないか!」
「契約を切ったからといってすぐに力がなくなるわけではないぞ。ワシを視ているのがその証拠だ」
「確かに……」
「といっても残った力も一日保つか保たないかだがな」
ヨルはタンスのおかれた部屋の壁にもたれかかる。そして、動かなくなった。
「ごめんね、ヨル。僕はいい契約者じゃない。もしヨルがまだ誰かと契約するなら逢沢さんと契約してくれないかな? 逢沢さん、変な噂流されたりしてて困ってるんだ。それに悪魔に狙われる魂を持ってるみたいだしヨルが守ってくれたら僕は嬉しいよ」
沈黙するヨルに響司は話しかけ続ける。
「あと、ライゼンさんのオルゴールだけど、ヨルが必要だと思うなら持って行ってよ。きっとライゼンさんも見ず知らずの僕よりヨルが持っていてくれた方が喜ぶと思うから」
否定も肯定もないヨル。
響司はリビングのテーブルに目をやる。図書館から借りた本とルーズリーフ。そしてライゼンの残した手帳があった。
(ヨルが結界の陣があることを教えてくれた。降霊の陣の使い方も教えてくれた。ヨルが来てくれたから知らない世界を知った)
ライゼンの手帳を胸に響司は呟く。
「ありがとうヨル。僕は僕のできることをやってみるよ」
黙々と響司は準備を始める。自分の決めた道を進み、生還するために。




