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学校では色々なことを教わる。計算や言葉という知識だけでなく、人との付き合い方を学ぶことができる。しかし、退屈の殺し方だけは誰も教えてくれない。
刹那響司にとって、退屈は死と同じくらいに恐ろしいものだった。
「まだ、大丈夫だ」
住宅街から離れたところにある沢渡神社。夏祭りや正月は人が埋め尽くす場所だが、月が傾いている丑三つ時ともなれば誰もいない。
神社の裏には小さな公園がある。
周囲に植えられた桜の木はもう葉桜となってしまっていた。塗装のはげた滑り台が一つ中央に建っており、端には高さの違う錆びた鉄棒が二つ並んでいる。子供が好きそうな大きめの砂場が、鉄棒の隣に設置されていた。
公園には、まともな灯りはなく、公園の外にある街灯と月の光が頼りとなる光源だ。
切るのがめんどくさくなって、肩まで伸ばし続けている髪を後ろで括って、響司は光を目に取り込む。
「えーっと、ここからどうだっけ?」
響司は左手に持った不細工な手帳を見た。手のひらよりも少しだけ大きな紙束を紐で無理やり縛って、かろうじて形式を保っている。紙は古くなって茶色くなり、授業中に使うルーズリーフよりも硬い。下手に触ると、紙からしてはいけないパリッという割れる音をさせる。
栞代わりに響司は親指で開いたページを優しく固定していた。
開かれたページには、散らばった意味不明な図形と数行だけ書かれた英文の捕捉が記されている。
英文を読んで、すぐに翻訳するだけの英語力がないので、事前に翻訳した内容を記したルーズリーフも同じページに挟みこんでいる。
「四角形、と」
左に二十度に傾いた正方形を、右手に握った木の棒で砂場に描いた。
手帳の四ページに一つ。ハイ・ファンタジーのゲームやアニメで見たような魔法陣もどきが完成する。
魔法陣もどきに不思議な効果があるかないかは分からない。
新しい退屈しのぎが見つかるまでの『繋ぎ』にはなるだろうと、手帳を見つけた二週間前から毎日毎日、翻訳しては魔法陣を描いていた。そして、たった今、最後の四ページの翻訳結果が砂場に描きこまれた。
「完成、と。なんで最後だけこんなに複雑で大きいんだろう?」
砂場いっぱいいっぱいに描かれた魔法陣。線と線がいたるところで重なりあい、隙間を埋めるように奇妙な文字が刻み込まれている。
他のページを翻訳・解読して出来上がった魔法陣には文字なんてない。そもそもルーズリーフ一枚に描ききれる大きさだった。
明らかに砂場に描かれた魔法陣は毛色が違う。
「しかし、サイズが変わっても綺麗にかけるものだね」
円を描く速度も精度も上がっていた。
今回の魔法陣は曲線が踊っていない。最初はミミズが踊っているようだった。
魔法陣が月明りで強く照らされる。空を見ると満月が雲の隙間から顔を出していた。
スマホで時刻を確認する。
もう二時半を過ぎていた。
(昼休みにまた仮眠とらないと午後は辛そうだ)
木の棒を砂場の端に刺して、去ろうとする。
月の光が砂場を照らし続ける。明るくて、砂場自体が光を発しているようだ。
錯覚かと響司は思ったが、どう見ても魔法陣が光っている。
科学的ではない光景に響司は目を疑った。
恐る恐る近づくと、光が収まった。
「なんだったんだ……」
魔法陣にさっきまでの光はない。むしろ砂場全体を覆うような大きな影がある。
「貴様が、ワシを呼んだのか?」
響司が声に振り替えると、全身を黒い布で包んだ巨躯がいた。
暗くて顔は見えない。
退屈しのぎをするときは迷惑がかからないように周囲の状況を確認してから行っている。深夜に一人で行動しているところを見られると、不審者だと思われかねないからだ。日中に退屈しのぎをしないのも同様の理由だ。
響司はひとまず、相手の出方を窺うことにした。
「呼んだ? どなた?」
月の光がまた砂場を照らす。
話かかけてきた巨躯の顔が露わになった。
二メートル以上ある身長。その頂点に頭蓋骨そのものがあった。鼻より下の骨が出っ張っている。人間の骨格ではなく獣の骨格だ。
視線を下にすると、首も骨だけだ。
もう一度、響司は相手の顔を確認する。
肉はなく、眼球があるべき場所の奥で赤く輝いている玉があった。
悲鳴を上げることを完全に忘れてしまったまま口を開ける。
「貴様が呼び出した悪魔だ」
「悪魔。へぇ、悪魔……」
口にするべき言葉が何かわからずオウム返しになってしまう。
響司は持っている手帳の表紙にあたる紙を睨みつけた。
持ち主の名前は書かれておらず、かすれたインクでタイトルを示すような一行の短文が書かれている。
経年劣化で読める場所は限られているが翻訳したときに一つだけ明確な語があった。
(悪魔祓いって書いてあったはず。なのになんで悪魔?)
悪魔は砂場の魔法陣もどきを興味深そうに、じっくりと眺めていた。悪魔の身体の周囲が少し揺らいだ。
悪魔の全身は黒い布で包み込まれていると響司は思っていたが、違うらしい。
布というにはあまりにも不定形で、キャンプファイヤーの焚火のように不規則に揺らぐ。
悪魔が動くと、少し遅れて動く。黒い謎の物体は煙や靄のようなものらしい。
「成程。悪戯好きもここまでくれば悪魔よりも質が悪いものだな」
黒い靄の中から左腕が出てくる。
顔と違って、骨格が人に近い。
ただ指が四本で、鋭い指先が針のように鋭いという違いはあった。
「悪魔さんはスケルトンってやつなの?」
「ただの死霊風情と同じにされては困る。アレは死者の魂を使った傀儡よ」
獣の頭蓋骨を響司の顔に近づける悪魔。
腐った肉の匂いがすると思いきや、無臭だった。
「さて、契約といこうか。さぁ願いを言え。殺したい人間がおるのであろう?」
嬉々とした口調で悪魔は響司と肩を組んだ。
響司は思考が硬直して、数秒、沈黙する。
「おりませぬ」
どこか口調がおかしくなった。
「そう怯えるな。契約が完了してもすぐに魂を頂こうとは思わぬよ」
赤い眼がじりじりと寄ってくる。
「誠に残念ながら……」
「嘘はいかんぞ。恨みなぞ人の世にいくらでもあるものだ」
「退屈しのぎしてたら悪魔が出てきてこっちもワケわかんないの!」
響司は悪魔との問答の中、頭がようやく追いついてきて大きな声を発した。
「本当なのか?」
響司は首を縦に何度も振った。
「呼ばれ損ではないか? のう、のう?」
悪魔の大きな体を丸めて小さくなった。落ち込んでいるのか、指で地面に何か書いていた。小さくなっているとはいえ、高校二年生男子の平均身長と同じ響司の背よりも悪魔の方が少し大きい。
(見た目が怖かったから怖い悪魔かと思ったけど、そうでもないのかな)
響司は悪魔らしくない行動をする悪魔に申し訳なさと面白さをどこか感じていた。新しい退屈しのぎになるのではないかと胸がふくらむ。
「なんかごめん。とりあえずさ、ウチにくる?」
「契約を満了させなかったとなれば恥だ……。安易に戻ることもで出来ぬ。案内しろ、人間」
「僕の名前は刹那響司。悪魔さんは?」
響司の言葉に悪魔は上を見上げていた。
つられて響司も見る。
少し曇った夜空と星と満月以外は何もない。
悪魔が何を見ているのか、響司はわからなかった。
「ヨルと呼べ、人間」
「だから刹那響司だってば」
響司が歩くとヨルは後ろを静かについてくる。
(なんか変な感じだな)
公園の隅っこで空き缶が蹴られた音がした。
後ろを向いても誰もいないし、空き缶もない。
(気のせいか)
ヨルの身体は黒いため、夜道を歩いていると頭蓋骨が浮いているだけにしか見えない。人目についたら悲鳴が聞こえてきそうなものだ。しかし、深夜も深夜。人に出会いそうなところと言えば、二十四時間営業のコンビニくらいだった。
コンビニの近くを通ったとき、響司は品出しをしている店員と目が合った気がした。
響司はヨルの姿を見られないか不安だったが、店員はまた作業に戻った。
堂々と無音で歩くヨルに響司は尋ねた。
「もしかしてヨルのこと普通の人は見えないの?」
「当たり前だ。見える人間なぞ稀だ」
「僕は見えてるし、しゃべれるけど」
「貴様はワシを呼び出した人間ではないか。見れて当然。喋れて当然だ」
「なるほど?」
なぜ当然なのか、までは質問せずに家に向かう。
エレベーター付の十八階建てマンション。五階の五〇八号が響司の住む家だ。
響司は帰宅してすぐにシャワーを浴びた。
いつもならドライヤーで髪を乾かした後、すぐに布団に潜り込んで明日の学校に備える。
しかし、今日はいつも通りにはいかない。
(契約って何するんだろう。血をあげるのかな)
眠気覚ましにコーヒーでも飲まないと起きていられる自信がない。
ジャージに着替えた響司はキッチンの棚からインスタントコーヒーの入った瓶を取り出す。
マグカップに砂糖とコーヒーの粉を入れる。ミルクは入れようとして、やめた。
おいしく飲めてしまっては眠気覚ましの意味がないからだ。
(そういえば悪魔は食べたり飲んだりするのかな?)
悩みの種である悪魔ことヨルはリビングを足音を立てずにぐるぐると時計回りに回っていた。かろうじて天井にはぶつかっていないが、天井が低くなる部屋の区切り部分ではぶつかっていた。
「ヨルは飲み物いる?」
「結構だ。一応、教えておくが悪魔であるワシらは基本、空腹にならぬ。食事を用意する必要はないぞ」
「そうなんだ」
電気ケトルで沸かしたお湯をマグカップに注ぐ。
普段から嗅いでいるコーヒーの匂いが目の前の悪魔の存在を現実だと認識させる。
「変わった家に住んでいるのだな。上の部屋にも下の部屋にも通じておらぬぞ」
「上と下?」
「この部屋に入るまでにたくさん扉があっただろう。上にも下にも」
響司は『たくさんの扉』と『上と下』という言葉からヨルが言いたいことを察した。
「マンションだから。ちなみにあの扉一つ一つが別の人の持ち物だよ」
仮にマンションの内部がアリの巣のように繋がっていたらプライバシーのない最悪の環境になる。
「ここだけが貴様の家か。狭いな」
2LDKの賃貸マンションだ。
風呂とトイレもちゃんと分かれている。
不便なところは自転車で十分以上掛かる駅前まで行かないと、買い物をするところがあまりないことだ。近場にコンビニは一軒あるが、買い忘れをしたとき以外使っていない。
「ほぼ一人暮らしだからむしろ広いぐらいだよ」
ヨルがタンスの上にある一枚の写真を指差した。
「色付き写真の人間は貴様と母親か。母親から生気が感じられんな。死んでおるのか」
笑顔の女性と膝上に泣いている男の子が写っている。場所は観覧車の中。一番高いところに辿り着く直前だ。
「悪魔ってそういうのわかるんだ。僕の母さん。ガンで小さいころに亡くなったんだ」
響司は現在、父親と二人暮らし。父親が家に帰ってくるのは年末年始と母親の命日ぐらいだ。
「ワシは願いを叶えてやると言ったな。人間を殺すこと以外にも人間の蘇りを願ってもいいのだぞ」
「悪魔に願いを、っていい結末を迎える気がしないんだけど」
「警戒せずともよい。貴様に危害を加えるつもりはない」
ヨルに表情筋はない。しかし、真顔で言っているような気がした。
まだ冷たくならないコーヒーを響司は一口飲む。
砂糖が少なかったのか苦みが強い。
「願い事か。あんまり考えたことないな」
「殺したい人間がおらずとも他にあるはずだろう。金持ちになりたいとか権力が欲しいとか」
「このまま何もせずにお引き取り願うってのはどう?」
「阿呆か! 契約もろくにせず戻ってみよ! 友に笑われるわ!」
声を荒げるヨルにひるんでしまって響司はマグカップを落としかける。
「あっぶな。コーヒーをカーペットに落とさなくてよかった」
火傷の心配もあるがクリーニングに出す面倒くささの方が響司にとって問題だった。
響司はマグカップをテーブルの上に置いて座る。
ヨルもつられるようにテーブルの前に座った。
身長差から見下ろされる形になるためか、威圧感がある。
動作が無音なのは常らしい。
「悪魔にとって、願いを叶えることはステータスなんだね」
「すてーたす、とはなんだ」
「周りからの評価って意味だよ」
瞼が重くなってきた響司はまたコーヒーを飲んだ。
「否だ。評価されたところで何もない。悪魔とは己が欲望に従い、生きる存在よ。己が生き様を他人に謂われる筋合いなどないわ」
「笑われることを気にしてたのに?」
公園では恥だと言っていた。矛盾している。
「貴様には関係のないことよ」
ヨルは黙ってしまう。
不機嫌になってしまったのだろうか。願いを言わないことに呆れてしまったのだろうか。
(なんか……退屈しないなぁ)
骨だけの悪魔の顔を見た響司は笑ってしまう。
「ワシの顔を見て笑うとは何事だ!」
「ごめんごめん。なんかさ、家にいるのに退屈じゃないの珍しいなって思ったらね。退屈しのぎの話し相手が悪魔ってもうおかしくてさ。夢なら覚めないでって思ってる」
コーヒーの入ったマグカップにに手を伸ばす。しかし、響司は掴めなかった。
「夢なぞではない。ワシは召喚されたが故、貴様の願いを叶えるためにおるのだ。さぁ、願いを言え人間! えぇい、話の最中に眠ろうとするでないわ!」
響司の身体がカーペットに引き寄せられる。
柔らかい毛の感触が心地いい。
「願いってさ、大した願いじゃなくてもいいの?」
「もちろんだ。さっさと言え!」
響司は真っ暗な視界の中、口を動かす。
「なら、殺してよ。僕が感じてる退屈を。悪魔なら何でもできるでしょ?」