芝ハマ ~芝居の沼にハマった男爵夫人の夢うつつ~
「アラン様! あなたとの婚約は破棄させていただきます!」
「なあイザベラ……もう夜中なんだから、あまり大きな声を上げるのは止めてくれよ……」
「あなたが私の芝居にちっとも付き合って下さらないからでしょう!」
(ああ……一体どうしてこんなことになってしまったのだろう……)
アランは深く大きな溜息をつきました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
イザベラは、アラン男爵の8つ年下の妻です。可愛らしい外見と優しく素直な性格に加え、大変賢く礼儀作法も完璧で、朝から晩まで領地経営の補佐や来客への対応も周到にこなす理想の男爵夫人として誰からも慕われていました。
アランは、自分を健気に支えてくれる可愛い妻を、たまには労わり喜ばせてあげたいと考え、奮発して王都で人気を博している演劇の特等席のチケットを買い求め、二人で観に行くことにしました。
最初は、そんな高価な贈り物をされることにひたすら恐縮していたイザベラでしたが、いざ幕が上がると目をキラキラと輝かせて心を奪われ、舞台上で繰り広げられる奇想天外なドラマにすっかり見入っていました。
劇場からの帰り道、馬車の中でも舞台の素晴らしさを熱心に滔々と語るイザベラに、アランは頬を緩めて優しく微笑みかけました。
彼女の喜ぶ姿を見るために、それからも月に一度程度、王都へと足を運ぶようになりました。しかし、予想以上にどっぷりと演劇の魅力に憑りつかれてしまった彼女の劇場通いは、次第に止まらなくなりました。
そもそも男爵家は、そこまで裕福ではありませんでしたから、金銭的な余裕は瞬く間に無くなり、しまいには二人分の料金が払えず彼女一人で出掛けるようになりました。
アランも流石にイザベラを諫めるべきだと分かってはいたのですが、きっかけを与えてしまったのは自分自身ですし、年の離れた自分を愛し、献身的に尽くしてくれている妻に対し、どうしても厳しい態度で接することが出来ませんでした。
既婚者であるイザベラが夫を伴わずに夜遅くまで出歩いていることで、社交界でも徐々に良くない噂が広まり始めました。当然本人の耳にもその悪評は入っていたのですが、より一層、辛い現実の逃避先を演劇に求めるようになっただけでした。
(私には演劇さえあればいいのよ……あの光り輝く素敵な世界には、私を悪く言う人間なんて一人もいないのだから……)
さらに困った問題はそれだけではありませんでした。観劇が終わった後、興奮した彼女は一滴たりともアルコールが入っていないのに、作品の世界観に酔いしれてしまうのです。役になり切って延々と芝居がかった調子でアランに向かって夜遅くまで一方的に語り続けます。
夜更かしをするせいで、日がとっくに昇りきってしまった後に、ようやくダラダラと起きてくることが増えてきて、次第に男爵夫人としての仕事もままならなくなり、使用人達も眉をひそめて彼女の陰口を叩くようになりました。
「なあ、もう少し観劇の頻度を減らしたらどうだい? 昨日も出掛けたばかりだろう?」
「何を仰っているのですか! 演劇というのは生きた人間が創り出す生モノなのです。役者のコンディションだって毎日異なりますし、前日の演技の反省や観客の反応をもとに磨き上げられ、更に素晴らしい舞台に昇華されて全くの別物になるのですよ!」
プリプリと怒りながら屋敷を出ていくイザベラに、アランは頭を抱えます。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ある日、劇場から帰ってきたイザベラがいつもより数段興奮していました。
「あなた! あなた! 大変です!」
「一体どうしたんだい?」
また新しくお気に入りの役者でも見つけたのかと思ったアランは呆れながら尋ねます。
「この指輪をご覧になってください! ああ! これこそ演劇の神様からの贈り物よ!」
イザベラの小さな掌の上には、燦然と輝くダイヤモンドが嵌めこまれた指輪がありました。
「……これは……どこで手に入れたのかな?」
詳しく聞いてみると、まさに喜劇のような話でした。
演劇が終わった後に、観客席で演劇の台詞をそのまま引用し、プロポーズをした一組の男女がいたそうです。ただ、何故だか男は相手の機嫌を酷く損ねてしまったようで、女性から強烈なビンタをくらい、送ろうとした指輪も放り投げられてしまったそうです。
そして、宙を舞った指輪は、綺麗に放物線を描き、そのままイザベラのバッグの中にすっぽりと収まったようなのです……
誰もいなくなったステージを見つめ、放心状態で演劇の余韻に浸っていた彼女は、口論自体耳に入っていたものの、そんな奇跡が起きたことに気が付かなかったそうです。帰りの馬車の中でバッグを確認したところ、その衝撃的な事実に腰が抜けるほど驚いたとのこと。
「しかし……それは、流石にまずいだろう? やはりその男性に返さなければ……」
「どうしてですか? あの殿方は指輪をプレゼントしたのですから、その時点でこれは彼女のものでしょう? そして貰った本人がいらないと拒否して捨てたのだから、既にもう私のものです! ふふ、この指輪を売れば、もっとたくさんお芝居を観に行くことが出来るわ!」
彼女の支離滅裂な理論に閉口したアランを置いて、イザベラは夜遅くまで、今後観に行く予定の演目を鼻歌交じりでリストアップしていました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝、アランはイザベラがまだ眠っているうちに、テーブルの上に置きっ放しになっていた指輪を持ちだし、こっそり劇場に出掛けてその持ち主について尋ねました。支配人も例のやり取りを一部始終目撃しており、男の素性と住所についても教えてもらうことが出来ました。
男の家まで尋ね、経緯を説明したのですが……
「ああ、わざわざご足労をお掛けしてすみませんでした。お恥ずかしい所を奥様に見られてしまったようで……でも、その指輪はどうぞ取っておいてください。どうせ真っ赤な偽物ですし……」
「えっ……」
「いやあ、彼女にそこまで目利きの才能があるだなんて思わなかったんですよ。あははは……」
どうやら偽物の指輪で求婚したことが即刻相手にバレて、指輪も男も捨てられてしまったようです。
イザベラに事実をそのまま伝えても良かったのですが、アランは自分達の将来のために一計を案じることにしました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あなた! 大変よ! 私の指輪がどこにも見当たらないの!」
「指輪? 一体何のことだい?」
「昨日話した指輪のことに決まっているじゃない! まさか、もう忘れてしまわれたわけじゃないでしょう?」
「君のほうこそ夢でも見たんじゃないのかい? なんで劇場に出掛けて行って指輪を拾ってくるんだよ」
「だから、昨日も説明したでしょう! 芝居が終わった後、男性のプロポーズが失敗して、相手に指輪を投げ捨てられて、その指輪が偶然バッグの中に入り込んで……」
アランは必死に説明を続ける彼女の肩を両手で掴み、優しく穏やかな口調で諭します。
「……なあ、イザベラ。そんなことが本当に起こる訳ないだろう? 演劇を終えてプロポーズするような気障な人間もいないし、気に入らないからって指輪を放り投げる女性なんて存在しないよ。婚約指輪は相当高価な物なんだから、たとえ拒否したとしてもそんな風に扱う訳がないだろう。それに、その指輪が奇跡的に君のバッグに入り込むなんて、そんな出来の悪い喜劇みたいなことが実際にあるわけないじゃないか」
「そんな……だって確かに……」
「いつも言っているだろう? 君は芝居にのめり込み過ぎだって。まるで泥酔したように役者の真似をして、ひたすら夜中まで台詞を繰り返し叫んで……昨晩だってそんな状態のまま眠ってしまったものだから、きっとおかしな夢を見たんだよ」
「……ああ、そんな……てっきり、これでまたいろんな演劇を観に行けると思ったのに……」
「なあ、イザベラ。これを機に、ほんの少しだけでもいいから、演劇に行くのを控えてみたらどうだい?」
ダメ元で彼女を窘めてみたアランでしたが、思ったより殊勝な反応が返ってきました。
「そうですよね……私、こんな馬鹿げた妄想をして、現実だと心底思い込んでしまうぐらい演劇にハマっていたのですね……決めました! あなたの仰る通り、これからは、もう一切劇場に通いません!」
「ま、まあ……いきなり完全に止めるのは難しいだろうから、ちょっと頻度を減らすだけでも……」
「いいえ! もう心に決めたんです!」
イザベラは強い口調で断言しました。アランは人生初の大芝居に予想以上の効果が現れ安心する一方で、愛する妻を騙した罪悪感にチクリと胸を刺されたような気分でした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから宣言通り、彼女はパタリと劇場通いを止めました。そのうちまた我慢できなくなってしまうのではないかとアランは内心危惧していたのですが、一向にそんな様子もありません。
それどころか夜更かしをしなくなったことで、かつてのように規則正しく早起きして、帳簿付けの手伝いや屋敷の片付けの指示、婦人方との付き合いにも精を出すようになりました。
あれだけ酷い評判だったイザベラの突然の変わりように、アランだけでなく使用人も貴婦人達も皆驚きを隠せませんでした。
一年程経った頃には、以前にも増して世間で評判の男爵夫人になりました。彼女の熱心な支えもあり、領地の収入も右肩上がりに増え、三年後には子爵への陞爵まで決まりました。
ただ、アランの胸の中には日に日に罪の意識が心にずしりと重くのしかかっていきました。大切な妻に嘘を吐き続けることに、耐えられなくなっていたのです。
とうとう、イザベラにあの日の真実を告げることにしました。
「イザベラ……実は君に黙っていたことがあるんだ。僕はずっと一つだけ隠し事をしていた」
「そんな真剣な顔をしてどうされたのですか? ……ひょっとして、浮気ですか!?」
「違うよ! 僕が愛するのは生涯君一人だけだ! そうじゃなくて……この指輪に見覚えはないかい?」
「まあ! なんて大きなダイヤでしょう……私へのプレゼントですか? でも、こんな高価なものは貰えません!……今からでも私が頭を下げて宝石商に返品して……」
「違う違う。劇場で、プロポーズに失敗した男女のこと覚えていないかい?」
「えっ……ああ……そういえば、そんな夢を見たことがありましたね……もう! アラン様ったら意地悪ですね! 恥ずかしいこと思い出させないで下さいよ! ……あれ? ……でもなんでその指輪がここに?」
「……だから、あれは現実だったんだよ。嘘を吐いて、本当にすまなかった」
「えっ……現実? だって……そんな……なんで……」
まだ混乱して事実を飲み込めていないイザベラに、指輪の真相も含めて全てを正直に話すアラン。
「……二人の将来のことを考えていたとはいえ、君のことを騙していたのは許されないことだ。どれだけ罵ってくれても構わない。もし君がどうしても望むのなら、いくらでも慰謝料を支払い、離婚する覚悟だって……」
「止めて下さい! ……私があの頃どうかしていたのは紛れもない事実です。帳簿を確認して、どれだけ家計を苦しめていたか思い知りました……領民達から私と離縁するように何度も進言されても、領主であるあなたが頭を下げて、もう少しだけ堪えてくれるないかとお願いして下さっていたことも、彼らから教えてもらいました……」
ボロボロと大粒の涙を零しながら話し続けるイザベラ。
「あの頃、私にとって既に演劇は、ただの現実逃避の手段になっていたんです。自分が男爵夫人失格の暮らしをしていると分かっていながら、そんな状況を変えることもせず、ただ架空の世界に逃げ込んでいたのです。その証拠に、あの初めて二人で観た演劇のような幸せは、微塵も感じなくなっていました……」
「その責任は僕にある! 僕は、愛することと甘やかすことの違いすら分かっていなかった。君に嫌われたくないあまり、夫としての務めを放棄していたのは僕の方だ。本当にすまなかった!」
「……あなた……」
「……なあ、今度、久々に二人で演劇を観に行かないか?」
「えっ……一体どういうおつもりですか?」
「息抜きをすることは罪じゃないよ。僕は初めて君が演劇を観た時の、眩しい笑顔がもう一度見たいんだ」
「でも……またあの時と同じようになってしまうのではないかと恐ろしくて……」
「もし、君が再びすっかり沼に嵌りこんで苦しみそうになったら、その時は今度こそ僕がちゃんと引っ張り出すと約束する。だから安心して思う存分楽しんで欲しい」
「……嬉しいです、アラン様! ……ちなみに今は、どんな舞台が演じられているのですか? 最近は出来るだけ耳に入れないようにしていましたので……」
「ちょうど君が大好きだった、婚約破棄モノを有名な劇団が演じていてね。巷でもかなり評判らしいよ」
アランの言葉を聞くと、イザベラはサッと顔を曇らせて、またの機会にすることを提案しました。不審に思ったアランは、その理由を尋ねました。
「丸っきり夢だと思っていた、あの不思議な指輪の物語が現になったのです。舞台の婚約破棄まで現実になってしまったら大変ですから」
『芝浜』という古典落語の演目の一つを、異世界リメイクしてみました。名落語家様が演じていらっしゃる動画がたくさんネットに上がっておりますので、機会があれば是非ご覧ください。